* 正しいゴラク *


 健吾は胃のあたりをなでながら、寝室にあるウッドデスクへ向かっていた。  毎週金曜日の夜は飲み会などの集まりがないと、決まって会社からまっすぐ帰っている。土日は外出することが多いものの、週末の開放的な夜だけは一人の時間にあてたい性分だった。翌週にまで持ち越す企画がないときは、純粋に休日を楽しめる。仕事のことを月曜の朝まで一切忘れたところで、誰も文句は言わない。
 チェアを引いた健吾が、思い出したようにキッチンへ戻った。取りに戻ったのは眼鏡だ。水を使ったときに跳ね上げた水滴が邪魔ではずしていたものである。仕切りなおしてベッドのある部屋に戻った彼は、銀ぶちの眼鏡をかけた。もう一度チェアに手をかける。軽く引いて、彼は座った。
 空腹がおさまれば、次にすることはストレスの発散だ。金曜の夜は、すべてをスッキリさせてぐっすり就寝したい彼の信条がある。
 ノートパソコンの上に置かれた、少し厚いハード版の本を彼は手に取った。紙のカバーが外側にかけられており、購入書店のマークがセンスよくカバーデザインとして敷き詰められている。会社に一番近い書店で、夜遅くまで開いているから、帰社時によく立ち寄っている。
 次に、健吾はペン立てから修正液を取り出した。最近気に入っている文具社の修正液である。液が固まったり、何度振っても反応がなかったり、消したいところより広範囲でにじんだり、修正液では数々の失敗を繰り返した健吾だが、今手にしている修正液はそうした失態が少ないメーカーだった。仕事でもプライベートでも重宝している優れ物だ。
 ストレス発散に良いのは、趣味に打ち込むことだと世間で再三いわれている。健吾にとって趣味といえば、読書だった。イライラしたときは特に有効だ。気に入った本と、修正液があれば事足りる。特別な道具はいらない。本は読みたい小説を買えばいいだけだし、金のかかる趣味ではない。
 健吾が手にしたハードカバーの本も小説だった。内容はのめり込めるものが最適である。読みかけた部分を指で開く。既読部分は、いつも紙が波を打ってよれる。未読のところは装丁当時のままだから、どこまでページを進めていたかは一目瞭然だった。この小説は三分の二までページが波打っていた。今夜中に読み終えるだろう。
 七章、と、開いた紙には記されている。健吾は修正液のキャップを取った。
「七章、と」
 そう口にしながら、修正液で塗りつぶした。章の出だしに目を向ける。
 彰子が目をさました。日の出にさしかかる前の空が、カーテンに鈍い薄い青をうつす。
 そう、文字が印刷されていた。内容は軽い推理小説で、彰子という堅実そうな女性が主人公だ。健吾は彰子から以下を読み進めながら、慣れた手つきで修正液を引いていった。読んだ文が白く消されていく。小説紙はそれにあわせ、少しずつよれて健吾を満足させる。
 いつから修正液で小説の文章を読みながら消すようになったのか、健吾自身は覚えていない。しかし、やっていれば思いのほか気持ちがスッとするのだ。元々読書は好きだった。しかしある日、読みながら「消す」という行為を試したのだ。ただならぬ快感を得た。そして現在に至る。
 消した本も数十冊を越えるだろうが、冊数まで正確に覚えてはいない。読み終えれば、すぐ本を捨ててしまうからだ。消えた世界に用はない。
 今宵も、彰子の住む本の中の世界に浸りながら、彼女の世界を消していく。それを繰り返すほど、ふわふわした爽やかな気分に包まれるから不思議だ。その快楽に身を任せる。たかが読書だが、これほどまで解放的な気分にさせてくれるものを、健吾は今まで見つけたことがなかった。だから、今夜も消去線を文字に引き続けるのだ。
 ふいに訪れた。握力が失われるような、浮遊感だ。
 修正ペンで文章を消すようになって、時々やってくる感覚で、これこそが健吾の愛する快楽だった。
 肉体から離れるような心地に、はじめの頃は少し不安を覚えたものだが、何度も味わう内に病みつきになった。だから、今夜もこの感覚を頼りに消去線を文字に引き続ける。
 熱心にその快感に沿っていたせいか、眼鏡がずり落ちたことも気にならなかった。カタン、と、眼鏡が顔からはずれ、机上でわななく。しかし、彼は気にせず白い線を引いた。弱い乱視補強の眼鏡だから、実際はなくても大きく支障はない。むしろここで、ペンを進める手を止めてしまえば、この浮遊する快楽が逃げるような気がしたのだ。今夜は特に調子がいい。
 心のストレス値がゼロまで抜けたのが、健吾自身でもわかった。ページをめくり、爽快な脳裏にあわせて白線をなぞる。健吾は瞬きをした。聴覚が、布のすれる音をとらえた。次にペンが落ちる音がする。何事かと、健吾は動きをとめた。
 服と修正液が、椅子からすべてが転げ落ちていたのだ。
 彼は身体から抜け落ちた異様さに、ようやく周囲を見渡した。卓上の淡い蛍光灯がすべてを映しているようだが、眼鏡がないせいか少しぼんやりしている。
 健吾が目をこすろうとして、自身を見る。手が存在していなかった。それどころか皮膚も色も肉体も、すべてが消えていた。
 つまるところ、彼に残されているのは、ただ意識だけになっていたのだ。



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