* あの子のやり方 *


 私鉄と快速列車を三つ乗り継いだ駅の終点は、かすかに潮の匂いがする。線路に沿って走る車窓から、何度も映った眼下の海は近い。このホームに降り立つとき、真優はかならず一度深呼吸をした。長袖のパーカーが揺れている。この匂いをかぐだけで、帰ってきたと安堵できるのだから不思議だ。
 地べたに置いていた大きめのバッグをつかんで、改札を目指す。久しぶりの帰省だったが、肩に下げたバッグの中に衣類などの生活品はほとんど入っていない。実家は今なお真優にとって気軽に帰れる場所なのだ。私室は客間となってしまったが、クローゼットの中に私物は多く残している。バッグが普段より少し重いのは、両親にあげる土産などが詰め込まれているせいだ。
 ホーム階段を降りて、彼女は駅の出入り口に切符を通す。実家を離れ、都内で一人暮らしをはじめたのは四年以上前の話になる。しかし、少なくとも二ヶ月に一度は通り抜ける改札口であもあった。都内にいる友人たちには、頻繁に帰るよね、と、いわれている。夏の前後はもっとも近づく頻度が多い。海のせいだろう。
 しかし、今年の夏は帰省の機会をすべて見逃していた。よって、ほぼ半年ぶりの実家だ。仕事の忙しさとアパート建て替えに伴う引っ越しが重なったせいで、何度も連休をつぶしていた。
 引っ越し費用と兼ねあい、帰省の手段は鈍行列車を選んだ。実家は都内から三時間強の場所にあって、のんびり道中を楽しめる距離だ。これ以上先に進むと、鈍行列車の旅は苦痛に変わる。
 駅を離れれば、車と人の往来はまばらになった。岸まで距離はあるが、海が近い感覚は空気に混ざって身体へ浸透していく。東京も湾に面しているし、遠出すればいくらでも海が見える。地元の海も、とりわけキレイとはいいがたい。しかし、地元の海が一番だと真優は思うのだ。少し残念なのは、実家のどこからもその海が見れないということだ。
 駅から一五分以上は歩く。バスを使う手もあるが、運動も兼ねて進んだ。住宅街が続く緩い坂を上がって、少し歩けば彼女の家がある。海は家々に隠されて、真優が生まれたときから水平線は臨めない。それも夜になってしまえば、海は闇に隠される。外灯がなくなった向こう側が海だとわかる程度だ。まだ、土曜の午後は太陽がある。
 真優は路地を曲がり、道沿い二軒目の実家を眺めながら門扉を通り過ぎた。
 家に入る前に、挨拶をしておきたいところがあった。数歩だけゆっくりアスファルトを踏む。一〇年以上活用しているワゴン車を死角にして、ガレージの奥をのぞき込んだ。犬が小屋の中で伏せていた。
 いつもの彼の定位置だ。眠っているのだろう。実家で長年飼われている雑種の雄犬だった。
 中型犬用の小屋で窮屈そうに寝ているが、彼はこの場所がお気に入りなのだ。変わらない様子に、真優は頬を緩ませてる。そっと近づいた。
「エル、」
 そう名を呼ぶ前に、犬は顔をあげた。
 年々耳が遠くなり、番犬の装いはもはや体格だけとなってしまった彼だが、今回はすぐ気がついたようだ。久方ぶりの真優との再会に、彼はパッとはじけたように小屋から出て尾を振った。
「おーエル、元気そうじゃない」
 すぐさま真優の傍に寄った犬に、彼女はかがんで声をかけた。頭をなでれば、何か良い匂いがしたのか、真優の指を探してなめる。彼は一四歳になる。よく見れば、片目は白く濁り、後ろ足を少し引きずっている。
 真優が一人暮らしをはじめて、彼は二度ほど病院の世話になった。人間と同じで動物も歳を経るほどに衰えていく。飼い犬に会う回数が経れば、それだけ老いも顕著に感じるものだ。毛並みの良さだけが変わらない。肩に下げたままの荷物が邪魔だった。久しぶりのさわり心地に、真優は荷物を地べたにおいてひとしきりなでた。特に好きなところは、耳の付近の毛並みだ。犬は、喜んでなすがままにされている。
 再会の挨拶をすると、彼女は立ち上がった。その動きにあわせて犬が上を向く。真優と瞳があう。視力は片目にしかなく、それもかろうじて機能しているくらいだ。それでも彼の瞳は真優の姿を映していた。
 真優は、空を見上げた。青の色を確かめる。坂道で携帯電話を開いたときは、三時になる前だったはずだ。母親は夕方までパートにでている。五時までは戻ってこない。
「よし、ちょっと待っててね」
 彼女は声をかけ荷物を持った。
 ちいさな期待をしっぽに表した飼い犬から離れ、真優は家の玄関の門扉を開ける。キーホルダーをジーパンのポケットから取り出した。四つあるキーの中で、一番頼りなさそうな短さをしたものが実家の鍵だ。
 すれた鍵穴にキーを押し込んだまま、彼女は玄関ドアを開けた。土足できる部分にだけ入って荷物を置く。バッグから携帯電話だけをとって余っているポケットにおさめた。財布は必要としないだろう。散歩は身軽なほうがいい。すぐ玄関を閉じて、真優はキーを抜いた。
 この間、昔はかまってほしいとガレージからよく鳴き声がしていたものだったが、ここ数年飼い犬が真優に向かって吠えることはなくなった。しかし母親からいわせれば「私には、いまだに甘えた声で鳴くわよ。でかい図体で、いい歳して小型犬みたいに」ということだ。彼にとって、真優の母親というよりも自分の母親なのだろう。
 エルにとって私はどんな立ち位置なのかしら。確実に私だってわかってるみたいだけど。
 ガレージに戻れば、飼い犬がじっと立ちすくんでいた。真優を見ると地団太を踏む。近づけば、再会のときと同じ飛びつかん勢いで尾を振る。そういえば実家で暮らしていた頃は、彼が若かったときをのぞいて、こんなにまではしゃぐことはなかった気がする。一緒に住んでいたからだろう。
 一緒に住んでいた人が家を離れ、時々の再会を猛烈に喜ぶということはつまり、私のことがわかっているんだよね……あいまいにしていたことを客観的に判断しながら、真優は犬を避けて小屋の左にある大型ボックスへと向かう。飼い犬はその足にしつこくまとわりついた。
 ボックスには無造作に散歩用のロープの他、ドッグフードといった食べ物も詰め込まれているのだ。犬は散歩と食事の両方と一度に期待したのだろう。真優は昔から、こっそりおやつを与える要員だった。だから、実際のところ彼には母親の娘という認識がされていた。
 真優は期待されると弱い。飼い犬の純粋な期待を無視することはできず、ボックスの中からおやつにちょうどよさそうなものを探した。
 父親は厳しい態度の人だが、同時におやつ担当であり、水嫌いな犬の風呂係でもあった。ワゴン車を移動して大きな犬を洗濯するさまは、さながら洗車と似たようなものだ。幼いときから父親に散々怒られている彼は、毛並みを洗う最中は微動だにしない。石のように動かない様はからかいたくなるくらいかわいいのだ。
 そして、洗濯が終わればご褒美がある。真優はボックスからそのおやつを探す。袋は見あたらないが、手で中をあされば、底から一本のジャーキーがでてきた。スニーカーの匂いをかいでいる犬に、それを差し出す。彼はすぐ顔を上げて口を開けた。長めのジャーキーを味わうというより、勢いで飲み込むといったほうがいい食べっぷりだ。
 その素早さを見届けて、真優は飼い犬につながれている首輪の鎖をとった。散歩用のものに切り替える。急いで替えなくても、彼が逃げることはない。元々家が大好きな犬で、穏やかというよりは臆病な性格だ。脱走しても、二時間すればかならず小屋に戻っているような彼である。
 若いときからそうだったのだから、歳老いた今では、鎖をつないでいても離していても家の敷地から遠く離れることはない。あったとして、近所の道をぐるりと一匹で散歩してくる程度だろう。事実、以前に自分で鎖を外し、のんきに周囲の道をうろついて家に戻ったところを、近所の人が報告してくれたことがある。
 かがんで付けた散歩ロープを地べたから拾う。その際も犬は立ち止まったままで、真優の顔を伺っている。
「さあ、いこうか」
 ボックスから取り出したビニール袋をポケットに突っ込み、散歩の合図を出せば犬が嬉しそうに前を歩きはじめた。つられて真優も歩く。引く力は強くなく、歩調はすぐ同じになる。
 一度来た道を曲がって下る。彼と進む坂の後半から臨めるものが海だ。散歩コースは変わらない。実家周辺の様子を、確かめるように眺めながら歩いていく。数年前から活発だった戸建ての建設ラッシュはひと段落しているようだ。学生時代は鬱蒼としていて夜近づくのが怖いくらいだった林が、小ぎれいな住宅地へと変貌している。
 変化はそれくらいで、昔からこの住宅地は静かなところだった。車の往来も少ないから犬の散歩もちょうどいい。海のある風景が馴染んだ次は、住んでいた頃の感覚がよみがえってくる。今日は同行者もおとなしい。
「今日はおとなしいのね。拾い食いするもんがないの」
 それとも、さっきの一本で満足した?
 歩調をあわせてくる彼に、真優は声をかける。食欲旺盛で、散歩道でも下を向いて食べ物を探しているような犬だ。厳しい父親の前でそうしたことはしなかったが、真優の前ではよく気がゆるませ物色している。真優はあきれながらその手綱を引くのだ。この犬は生まれたときからそんな調子だった。
 犬が電柱側で立ち止まる。真優がそこから目にした海の色は空よりも濃い。一四年前、彼がこの家に来たときもそうした季節の変わり目だった。ペットを飼いたいと言いだしたのは当時中学生だった真優だ。母親と相談して、地元の情報誌にある「譲ります」欄から迎えた。里子に出された五匹の中で、真優と母は鼻が低く一番愛嬌のある顔を選んだ。彼の両親はそろって大型犬で、片方は秋田犬の遺伝子を受け継いでいるような風体だった記憶がある。エルと名付けられた彼は、その血を色濃く継いでいた。
 母から言い渡された生き物を飼う条件は、犬の世話を真優が責任を持って行う、ということだった。しかし、結局は今も世話は母親にまかせきりだ。学生時代は特に犬の散歩をしぶった。今のような穏やかな秋の季節ならばともかく、真夏と夜風の強い冬は外に出るのも面倒だった。飼い犬にとって、はじめから今までずっと母親がを一番慕っている。
 それでも真優なりに犬をかわいがっていた。贅沢なもので、実家を離れてから飼い犬のかわいさが目にあまる。石まで食べるような拾い食い癖のせいで、一〇歳まで生きるかどうかだろうと家族で話していたのは遠い昔のことだ。周囲の同時期に飼われた犬は、大半があの世へ旅立った。彼は住宅街の中でも長寿の域になっていた。
 このワンコとも、この帰省が最期の別れかもしれない。
 実家を離れてから、毎度そう思いながら真優は接している。これから迎える冬を乗り越えられるかどうかなのだろう。冬の海風は当たりが強い。彼は真優が見る度に弱っている。それが老いるということなのだろう。犬の平均寿命をこえるくらいの歳まで生きてくれただけでも、彼の生命力に感謝しなければならない。
 坂を下りきれば、歩道のついた大きな通りにでる。こちらも車の往来は少ない。気をつけなければならないのはバスの巡回くらいだ。多くの飼い犬たちが主とともに午後の散歩へ繰り出している。海が見えるのは坂の中腹までだ。だが、坂を区切る通りも真優の好きなところだった。緑を通りに備えた道を、駅とは反対方向に行く。海を眺めないことさえのぞけば、真優は夜間の散歩のほうが好きだった。
 学生時代は、よく母親の散歩についていったものだ。散歩に行くことはしぶるくせに、母親が犬の散歩に出るとわかれば引き留めてでもついていった。母子で夜の散歩に出るときは、少し遠回りをする。会話は家の中よりも弾んでいた。
 母親と喧嘩していたときも、真優は一緒に散歩に出ることを望んだ。犬をはさめば、わだかまりがほぐれ、空気が和むことを知っていたからだ。犬は、仲裁にとりもってくれる存在だった。良き家族の一員だった。
 太陽のある午後に、その道を母親なしで通ったことはほとんどないが、今日はその道にしようと彼女は決めた。
「エル、ちょっと長いけど、いいよね」
 老体に鞭を打たせる行為かもしれないが、ゆっくり歩けばいいだろう。いつものルートから道を進めば、前を向いていた犬も地面を意識しはじめた。鼻で何かを物色している。大方、食べ物探しだ。
 彼が主導となって、見慣れた風景を真優は胸に刻みつける。海の風と空は、秋の終わりが来る時期を教えていた。今年の秋は短い。朝見たテレビで、天気予報士が言っていた。
 真優の歩調は変わらないが、犬は飼い主を追い越したり遅れたりを繰り返す。母親がまだ帰宅して来ないのだから、家へは早く戻っても遅く戻っても同じだ。犬の気ままさを眺めるのは、東京での日常を忘れるのにぴったりなのだ。見ていると、犬が真優に顔を向ける頻度があがる。もう帰ろうという意思表示だと気づいて、真優は帰宅への道を変えた。すぐ右に曲がったほうが、実家に近い。
 一人と一匹は、長い散歩から帰宅した。真優がガレージ前から見上げれば、空が暖色を薄く重ねている。小屋へ突き進む飼い犬の鎖をつなぎ替えて、その頭をなでる。すぐに水入れを探した。彼の周囲にないということは、庭の蛇口付近に置かれていることが多い。
 小屋の右につたう通路を歩けば庭にあたる。母親曰く猫の額のような庭と言うが、バーベキューができるくらいの広さはある。両親が芝生を植え込み、日曜大工でテラスをこしらえた。余り木でつくった鳥の餌箱には、蜜柑の皮が置かれている。家に来る人々が揃って褒める庭だった。
 今はバラの季節が終わったようで、庭木の側で万両やパンジーが咲いている。冬になれば、ガーデニング好きの母が葉牡丹を買ってきて植える。飼い犬を庭に放した際は、彼が目を離した隙に掘り起こして食べてしまうのだ。毎年母親が怒りながら、こりずに葉牡丹を植え直す。
 自然を愛する母親が施した庭を見ながら、真優は水入れ容器を探した。ホースの巻かれた蛇口付近には置かれていない。ボックス内にもないのだから、見当がつかずに庭をうろついた。犬は散歩の後に、よく水を欲するのだ。
 もう一度小屋の周囲を探すべく、庭を出れば自転車の止まる音がした。母親が帰ってきたようだ。
 お母さんと試しに呼べば、「真優ちゃん帰ってるの?」と、母親の声がした。彼女は真優を見つけ、自転車を押しながらガレージ内に向かっている。
「帰ってる。おかえり」
「あら、ただいま。こちらこそおかえり」
 籠にある買い物袋は重そうだ。彼女が気合いを入れて買ってきたのだろう、たくさんの食材を真優が想像しながら母を見た。
「うん、それでエルの水入れどこ」
 そう尋ねる。途端に親の表情が曇った。躊躇いの理由は、すぐの声で知った。
「エルちゃん、亡くなったのよ」
「え、……え、ほんとに?」
 真優は驚いた。飼い犬の定位置を急いで確認する。……小屋は、入れないよう裏返しにされていた。つないでいた鎖もなにもなくなっている。真優はもう一度驚きでうなった。
「え、待って。ちょっと、いつ亡くなったの?」
 母親は真優の驚く意味に気づかず、自転車を止める。
「一ヶ月以上前よ。真優ちゃんが忙しいときに、無理に言うのはやめようってパパと決めたの。言うのが遅くなってゴメンね」
 飼い犬が亡くなった。それは覚悟していたことだ。報告が遅くても早くても事実は同じなのだから、真優は今聞かされた事実にたいして両親に怒りを感じなかった。彼らなりに、娘の気持ちを想ったのだとわかるほど真優も成長したのだ。
 違う意味で混乱していた。先刻まで真優の傍で飼い犬はいつものように存在していた。一緒に散歩に繰り出したのだ。
 それは本来在るべきではない、最後の散歩だったということだ。
 混乱した脳内をどうにか整理する中で、真優は飼い犬を想った。あれが、犬なりの最期のお別れだったのだ。 
 食材の詰まった袋を持って門扉に向かう母親の後ろ姿に、真優は言った。
「夕飯、きんぴら食べたい」
「そう言うと思って、ごぼう買ってきているわよ」
 母親の声を聞いた彼女は、つられるように玄関を向かう。少しうつむいて歩いた。
「それと、夕飯のあと、一緒に散歩しない?」
 玄関の戸口では、母親が「いいわよ」と言いながら、ドアを押さえて待っている。そして、「今晩遅くにパパが出張から帰ってくるから、明日エルちゃんのいる共同墓地にあいさつにいこうね」と言われ、玄関に入った真優が頷いた。
 夜の散歩道で、飼い犬の死に目を母親に訊いた。少し苦しんだようだが、最期は母親の腕に抱かれて眠るように逝ったという。それを聞いて、真優はちいさく「よかった。それなら、いいんだ」と言った。
 その夜、彼女は一人で、あの子のために泣いた。



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