* 色彩拡張 *


 鈍色の雲を据えた天の真下で、萌絵の見る景色は荒れ果てていた。春花が散った窓の外は無造作な緑に溢れ、彼女の眼から見ればどれも雑草に見える。敷地の大黒柱となった背の高いヤマボウシの木は好き勝手に枝を伸ばし、葉上に白い花を枯らせ落としていた。萌絵から見ても、手に負えない状態だった。彼女は、この庭で水やりしかしたことがないのだ。ガーデニングは母親の管轄だ。
 その母親も、ダイニングテーブルの向かい席で肘をつき、顔を横にして庭を見つめていた。気の早い梅雨入り宣言がされて半月経った。母親の佐代子がこの一軒家に戻ってきたのは八日前だ。佐代子は姑の急なる入院で、一ヶ月近く自宅を空けていた。
 その間、萌絵はこの家で父親と変わらない日々を送っていた。それぞれに仕事や人間関係をもっている。時間にあまり制約されず、自由に動けるのはいつも母親だけで、家の管理はまかせきりだった。ガーデニングは母親の趣味なのだから、と、娘は触ることをしなかった。
 今、母娘は黙って荒れた場所に眼を向けている。留守だった佐代子が娘に頼んだことはただひとつ、水やりだけだ。娘は雨のない日が二日続いたときに、仕事から帰宅してホースを持った。惰性で接した彼女の庭は、最初の一週間だけ春の花がまだ美しく咲いていた。二週目は雨風の強い日が多く、その期間を抜けた休日から母親のかけていた魔法は切れはじめた。
 三週目にもなれば、萌絵の目から見ても雑然とした庭の装いになっていた。萌絵はただ水をやるだけだ。植物の種類が多いだけ、手のかかる庭だったことに気づいたのはその頃だった。やり方がわからない萌絵は母親を待つしなかった。彼女には、地植えした草花と雑草の区別がつかない。
 咲く花ばかりを目で追っていたのだろう。水をやっていたにも関わらず枯れる草もあらわれた。為すすべのない状況から、萌絵は母親に電話で庭の話をした。佐代子は「植え替えの時期にも重なっていたし、特に気にしなくてもいいわよ」と、諦めたように萌絵を慰めていたが、実状を目にして多少はショックを受けたのだろう。八日前に戻ってきてから、彼女は時おり荒れた庭を見て物憂げな目をする。
 娘からは、今も母親がそのような目で庭を見ているように感じられた。彼女たちの家内にあるリビング・ダイニングと同じくらい面積がある庭だ。佐代子が一五年近く手をかけてきた場所だった。萌絵が学生だった頃は、家を出た兄とあわせてよく庭で食事をした。人を集めてバーベキューをしたり鉄板を持ち出してお好み焼きを食べたり、常設したカフェテーブルでお茶をした。社会人になってからも時々思い出したように庭へ出ていたが、それも母親の声掛けがあったからこそだ。
 買ったばかりの植物が何色で咲いた、次は何を植える、この植物は日陰の場所が好きじゃないみたい。この花はクレマチスと言ってねえ。萌絵は自然と花の名を覚えた。きれいな名前はとりわけよく覚えた。
「おかあさん」
 クッキーに手を伸ばした彼女に、娘は声をかけた。日曜日の住宅街はとても静かで、テレビの音が時々がなり立てる程度だ。萌絵の声に母親が我に返ったような素振りで顔を向ける。帰宅してきたときの疲れきった表情は、ある程度取り除かれていた。父親はどこかの友人との付き合いで家を離れている。
 母子はすでにブランチを終え、今は互いの活動に移った後のコーヒーブレイクに興じていた。萌絵がコーヒーをドリップするついでに佐代子を誘ったのだ。今日は友人と外出する予定もなく、自宅で悠々と過ごすことにしていた。来週は一泊の温泉旅行をする予定だ。
「今日はこれから晴れるんだって。明日も晴れるみたいよ」
「あら、そうなの」
 娘の言葉に、母親の口が動く。前日は一日中、雨が降ったり止んだりを繰り返した。萌絵は土曜日を今日よりも寝汚く使い、母親を目にしたのは夕方に差し掛かっていた頃合いだ。彼女は玄関から入ってきた。どこに行ってたの、と、萌絵が訊けば、お友達のところよ、と、答えてくれた。お友達の庭を見てきたの。その表情は少し沈んでいた。母親はその日一度も自らの庭を見ることなく就寝した。
 花の美しさには限りがある。植えた緑には手をかけなければならない。ガーデニングは簡単な趣味ではないのだ。娘の萌絵は、母親が植物に手をかける姿を幾度となく見てきた。彼女の言葉や行動に反発するような年齢は過ぎていた。今は、荒れ果てた庭を見つめる母親に同情していた。
 母親のガーデニング仲間は、すでに草花の植え替えを終えていたのだろう。天上の光が望めないのならば、足下を花で飾ればいい。曇り空に何倍も勝る色合いを、大地に広げるのだ。
 佐代子が、庭に手を入れはじめる様子はなかった。帰宅してきて一週間以上経つのに、行動をひとつも起こさないのは、雨の多い日が関係しているからではない。
 萌絵もさすがに気づいていた。母親の描いていた完璧な庭はほど遠い。ガーデニングは根気と体力を使う仕事だ。植物は人が願うように動いてくれない。ただ指定された位置で身を寄せあって、庭に立つ人々を見つめるだけだ。
「おかあさん」
 花が縁取るコーヒーカップを両手に包んで、萌絵が佐代子をもう一度呼んだ。
「どうしたの?」
「これから晴れるんだよ」
「……聞いたわよ。洗濯物が外に干せるのは助かるわ」
 主婦の算段を耳にして、娘は心のなかでため息をついた。荒れていく庭をただ眺めるしかなかったことを、萌絵は謝らない。母親と萌絵の描く理想は、いつもどこかで違っている。娘が庭の植物に手を差し伸べても無用だ。庭に育つ彼らの生態を萌絵は知らないし、彼らも萌絵のことを必要としていない。
 萌絵はあの舞台で、望まれる主人公にはなれないのだ。
「そうじゃなくて、」
「そういえば、さっきまで家を出てたみたいだけど。萌絵ちゃん、どこに行ってたの?」
 ガーデニング仲間からいただいたというクッキーを食べながら、母親の佐代子が庭から目を離した。萌絵は、そばにあったリモコンでテレビの音を消した。平面の声は、存在に根拠がない。
「どこ行ってたと思う? おかあさんのプレゼント買いに行ってたのよ」
「プレゼント?」
「母の日、おばあちゃんのとこだったじゃない。お兄ちゃんにも頼まれてたんだけど、おかあさんが家帰ってきてからするって私言っちゃったんだ。それで、ちょっと忘れてたの。ごめん」
 兄からすでに祝い金はもらっている。母の日に買うものは、いつも決まっていた。兄は妹の選ぶプレゼントに長い間満足しているようで、彼女が高校生になったときからずっと金を渡していた。帰省した彼は、時期さえ合えば妹が買ったという品物を確認する。母親にその位置を訊くのだ。
「いいのに、別に」
「今年だけないっていうのも、気持ち悪いの。それで、今回はここには持ってこれないんだけど」
「なんなの?」
「いつものやつだよ、おかあさん」
 兄妹は長年母親のプレゼント探しに苦心してきた。どれだけ素敵なものや実用的なものを渡しても、母親は大切にできない。子どもたちの気持ちを喜ぶものの、プレゼントの品に執着してくれることはなかった。ある日、妹は庭を見て気づいたのだ。それを、兄に話した。
 不思議そうな表情をした母親は、思い出したように席を立った。
「どこかしら、」
 その声が少し弾んでいる。娘は微笑んで、その場所を指さした。自転車で二往復した甲斐があった。彼女のピンクにコーティングされた爪の先は、荒れた世界につながっていた。
「外だよ」
 見合う条件は頭に叩き込んでいる。植物でも好む趣向を違えて強要したところで、設けられた場に根は張れず腐ってしまう。植物に関わらず生きているものならば、どれでもそうだ。
 佐代子は網戸を開けた。無風の野外に降り立つ。壁の向こう側へ彼女が姿を消した。それでも存在に確信がある。母親の声を聴いた。
「あら、アマリリスじゃない。それに、インパチェンスと雪華草にミニバラ、ラベンダー、キャットテール、」
 娘が立ち上がってリビングの窓に触れる。網戸越しから右に目を向けた。母親がしゃがみこんでいる。
「萌絵ちゃん、たくさん買ったのね。インパチェンスは六株も」
 土の見える芝生に、色とりどりの植物が集まっていた。蕾も多い。苗自体は花束より格段に安いのだ。萌絵は予算を全部使い切った。植える場所がないなら鉢で飾ればいい。
「きれいでしょ」
「そうね。やっぱり花はいいわね」
 見とれる彼女を置いて、萌絵はその場を離れた。自室に小走りで駆け寄り、机に寝かせていたものをつかむ。部屋は数々の芳香が合わさって溶けていた。萌絵は深く吸って息をはく。一気に階段を下りた。
 庭の色彩が淡くなっていた。太陽が現れるかすかな合図だ。紫や黄色、オレンジと薄紅に大輪の白。草の色が交わる植物の束を萌絵は抱えた。網戸をカタカタと軋ませ開ける。母親が振り向いた。
「バジルとシソも買ってきたのね」
「うん。それで、これ」
 美しい春の庭の最期を見たのは、萌絵と父親だけだ。手入れしていた佐代子が見れる春の色彩は、また来年に持ち越される。だから萌絵は別のフラワーショップで、残された春花をかき集めて花束にしてもらったのだ。
 彼女は立ち上がって、差し出された花束を受け取った。花の種類を数え、娘を見る。
「ありがとう、……あら、春の花束じゃないの」
 わかる人はわかってくれる。萌絵は、うん、と、頷いて照れ隠しに芝生を見た。少しずつ太陽の熱が背を包んでいく。
「明日も晴れるからね」
 庭にいる母親は、いつもこの場で主役になる。荒れた庭だろうと、その舞台に立つ母親を見て萌絵はホッとしていた。娘には演じることのできない役柄がある。萌絵は、その庭に向けて瞳を踊らせることしかできない。だから、花を送るのだ。佐代子は、集められた植物をむき出しの株のままで放置しておくことができない人だ。
「そうね。植え替えてあげないと、この子たちに悪いわ。その前に、花瓶を用意して、それから土を買ってこないと」
 花に囲まれて目を輝かせている。萌絵は彼女のつくる庭が好きだった。それは彼女にしかつくれない。
「夏の庭、楽しみにしてる」
 娘が期待を言葉にすれば、佐代子は「任せなさい」と、微笑んで花弁を顔に寄せて目を閉じる。彼女の庭には、やがて意思の強い熱が光の香りを伴って舞い降りた。




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