* ナチュラルスノウ *


 運動場へ向かって、一面につなげられた教室の窓は白い。
 雪が積もる情景を、桃子は教室の一角から眺めていた。手元の机にはハサミがひとつ置いてある。彼女が座る席の床は校内でかき集めた新聞紙で埋もれていた。待ち人はまだ来ない。
 美術部に顔を出すという、玲奈の言葉を桃子は信じて待っていた。広げた新聞紙には悲しい気持ちが堆積していた。何度自分の手で終えようと思ったかわからない。桃子は自分のことでありながら、決断することができないのだ。
 だから、玲奈にお願いしようと思っていた。
 バタバタと廊下から足音が響く。桃子は、雪景色から長い髪を揺らして振り向いた。ガタンと引き戸が開いて、セミロングの女生徒が息を切らす。
「ごめ、モモちゃん待たせた!」
 玲奈が走ってやってきた。その姿を見留めてかぶりを振る。待ってていい?  と、聞いたのは桃子のほうだ。そのときは、雪も今ほどまで白く大地を覆っていなかった。本当ならば、早く下校したほうがいい。しかし、桃子は人気のない教室を望んでいた。
「モモちゃん、雪すごいよね。早くかえ」
「玲ちゃん」
 矢継ぎ早に言葉を続ける玲奈を、桃子は名を口にして制した。
 窓側の席に座る桃子へ向かってくる玲奈は、桃子の様子がおかしいことに気づいたのだろう。机に乗るハサミと色の違うフローリングを見て小首を傾げる。
「どうしたの、モモちゃんそれ、新聞紙とか」
「玲ちゃん、お願いがあるんだけど」
 問いかける彼女を見上げ、桃子はハサミを手にとった。そして、バッグを置いた玲奈に躊躇いなく差し出す。彼女もハサミの形状でわかったのだろう。
「なにそれ、髪の毛切るやつ?」
「うん。玲ちゃん、私の髪切ってほしいの」
「……え、」
 玲奈が驚いたように、声をあげた。見開いた彼女の瞳から、桃子は自分の本当の姿を見つけようと目をあわす。焦げ茶色の虹彩は、澄んでいてきれいだ。桃子は、玲奈の心そのもののようだと思う。
「モモちゃん。今、私が切るの?」
 かすかな動揺が声色に現れている。頷く桃子に玲奈は眉を寄せた。視線を落として、床に撒かれた新聞紙を見る。彼女が何を言おうとしているのか、桃子にはわかっている。だから、先に口を開く必要があった。
 そうしなければ、自分の決心も鈍るのだ。
「手先が器用な玲ちゃんに、切ってほしいの。玲ちゃんの思った感じでいいから、ヘンになっても後で美容院行けばすぐ直るし」
 桃子が言い訳のように話す。
「私じゃないといけないの?」
「うん。玲ちゃんがいいの」
「……わかった」
 玲奈は複雑な表情でハサミを受け取った。桃子の真意を探ろうとする視線は、今から切らなければならないロングの髪に注がれている。
 桃子は知っていた。玲奈は、桃子の長い髪をとても気に入っていたのだ。
『ねえ、本当にきれいなストレートだよね。黒髪が似合うなんて羨ましいよ』
 はじめて玲奈の存在を認識したのは、彼女からのその一言がきっかけだった。高校に入学した日で、桃子の後ろに玲奈の席があった。席が前後だった頃から、玲奈は桃子の髪に触れていた。あれから、二年近く経った。
「そっか。……したら、切るよ」
 その玲奈が腑に落ちない表情を改め、雪を背景に決心をかためた。
 玲奈が好きなものを、彼女自身の手で払い落とす。それはどこか残酷かもしれない行為だ。しかし、彼女にそうしてもらわなければ、桃子自身が耐えられなくなる。
「玲ちゃん、待って。先にこの布を巻いて。髪の毛、制服にくっつくのイヤだから」
「あんた、そんなのも用意してたの」
 膝掛け代わりにした薄い布を桃子が取り出せば、後ろに回り込んでいた玲奈が苦笑した。一旦ハサミをそばの机に置き、桃子から布をもらって広げ、「美容院みたいだね」と言いながら、桃子の首周りへ丁寧に重ねる。玲奈ははじめてのことにもかかわらず、器用に薄手の布を巻き付けた。その首許に、切れ端を折り込む。玲奈の冷えた指が首にあたり、ちいさく鼓動が跳ねた。
 玲奈の体温が離れてすぐ、ハサミの鳴る音がした。長い髪の一房が持ち上げられる。
「モモちゃん、本当にいいの?」
 玲奈からの受け取る、最後の確認だ。
「いいよ」
 桃子が答えれば、髪は束になって落下した。シャキ、シャキ、という音が桃子の耳元でこぼれていく。玲奈が桃子の髪をどれほどの長さにするのかわからない。桃子はどんな髪型になってもかまわないと思った。
「モモちゃん、……失恋でもしたの?」
 不可解な桃子の願いを実行する玲奈が、理由を見つけようとして問いかける。桃子は正解とも不正解とも答えられず目を伏せた。理由は言葉にしたくなかった。玲奈に髪を切ってもらうことが、その意味すべてになるからだ。
 黙ったままの桃子に、玲奈は行動を止めることも問い直すこともせず、何度も黒髪を落としていく。髪が肩にあたり、玲奈がどれくらいの長さに揃えようとしているのか、桃子はふと気づいた。
「モモちゃんの長い髪、すごく好きだったのにな」
 髪を切る玲奈が、惜しむようにつぶやいた。
 桃子は俯きたくなる頭に、くちびるを噛んで耐えていた。玲奈の好きなものを、自分のワガママで玲奈に切らせているのだ。ひどいことをしている気がした。  それでも、独りでこの気持ちに区切ることなどできなかった。桃子は胸の痛みを、布の中の手で押さえた。この感情を捨てるために髪を切る。玲奈に切らせるのだ。
 黙り込む桃子に、玲奈はそれ以上のことを言わず、最後の一房が落ちた。
「ごめん、やっぱりちょっとギザギザしてるかも」
 終わりを伝える言葉に、桃子が大きく息をつく。これで終わらせられる。そう思えば、重かったものすべてが軽くなる。
「……ありがと」
「気になるならゴムで結んでよ。あと、やっぱり後で美容院行ってよね」
 切った後で恐縮するように話す玲奈を見れば、桃子も居心地悪くなって身体を動かした。待って、という玲子の声を聞く。後ろ首から布が慎重にとられた。
 制服に戻った桃子は、床を見た。一五センチ以上の黒髪が、繊維のように重なって山をつくっている。
「鏡見にトイレ行こう。その前に、下片づけないと」
「そうだね」
 テキパキと動く玲奈に、桃子は促されるまま椅子から立ち上がった。制服についた、いくつかの髪の毛を慎重に落として、新聞紙の地面から離れる。
 二人は向かい合って、しゃがみこんだ。
「すごく、軽くなった」
 髪の残骸が飛ばされないよう、ゆっくり新聞紙を集めて片づけていく。その最中でつぶやいた桃子の言葉を拾って、玲奈は桃子の顔を見た。
「うん。モモちゃんの顔が、よく見えるよ」
 桃子は、真っ直ぐぶつかってきた瞳を受け止めきれず、目をそらした。玲奈は真剣な表情をしているようだった。手を止めない彼女の姿が、少しずつ桃子に近づいていく。桃子は、自分の手が止まっていることに気がついた。
「ごめん、ここまでさせて」
「いいよ、切ったの私だし」
 ガサガサと音をさせて、玲奈が上手に新聞紙をくるむ。顔を上げて、彼女を見れば玲奈の視線にあたった。
「一緒の髪型になったね」
 玲奈が屈託なく言った。その言葉が、桃子の脳内へ一瞬に駆け上がる。一緒の髪型にしたのは玲奈だ。桃子は俯いた。自分の顔が真っ赤になっていると気づいたからだ。玲奈に見られたくない。
「玲ちゃん、」
 それでも名が呼びたい。玲奈という名を、桃子は今までずっと繰り返していた。表に出せないほど、痛い苦しい感情があった。
 言葉にできない感情を、桃子は「玲奈」と、呼んだのだ。
 まるまった新聞紙が、床に置かれる音がした。対面する玲奈の指が、桃子の短くなった髪に触れる。質感を確かめるように撫でた。
「ねえ、顔上げてよ」
「……玲ちゃんは、ずるい」
 桃子は玲奈の言うとおり視線を上げて、つぶやく。至近距離で彼女は微笑んでいた。
「モモちゃん」
 そう呼ばれる心地よさに、桃子は目を閉じる。同じかたちのものが、くちびるにそっと触れた。
「私、ずるいんだよ」
 離れた玲奈の口が、耳許へ落ちる。キスは、まるで日持ちのしない雪と同じだ。
 桃子は目を開け、彼女の微笑みと窓の外の美しい白を一心に受け止めた。




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