* たいせつなこと *


 楓が息を吐けば、闇のなかにわずかな霧が生まれる。雪の降る季節は終えたはずだが、本格的な春にはまだ時間がかかるとテレビのニュースが語っていた。乾いた空気は、太陽を失えば急激に冷えていく。厚手のコートが手放せないまま、楓は今日もコンビニエンスストアの袋を携えて家までの道を歩いていた。
 夕食は友人と外で済ませ、寄り道をしないつもりだった。しかし、他人の夕食をわざわざ買って帰宅している現状の滑稽さを、楓は少し憂う。支払い額も楓持ちになっていた。一人きりで歩く見慣れた帰路で、彼女は買い替えたばかりの新機種携帯電話を取り出す。時刻を確認しながら、先ほどの電話を思い出した。
 一時間前、楓が帰宅しようと駅の改札を過ぎたときに連絡がきたのだ。彼女の声を脳裏で再生する。
『楓、楓、今どこおんの?』
 その回線越しの一声は、午後まで一緒の大学にいた佐里だった。男女隔てなく友人の多い彼女は、繁華街のカフェバーで夜のアルバイトをしている。彼女の電話越しは頻繁に人が興すざわめきと洋楽が重なる。楓は佐里との会話のときだけいつも声の音量を上げていた。受話器を耳に当てた時点で、佐里が電話してきたときの居場所は容易に想像できた。彼女のアルバイト先だ。
『外。今さっき駅に着いて、家向かってんの。佐里はこれからバイト?』
『ううん、ヘルプやる予定がナシになってな。後一時間くらいで楓んち行くんで、近くのコンビニでうちの飯、買っといてくれん?』
 屈託なく取り付けられた予定に、楓は呆れ返った。
 佐里は楓の部屋をよく訪れる。中学校からの付き合いで、大学進学と同時に上京した親しい仲だ。それでも互い一緒に住むことはしなかった。佐里が、それだけはやめにせな、と、言ったからだ。楓に「それだけ」の意味は、今もあまり理解できていないが、佐里の珍しく真剣な表情に頷いて今の状況に至っている。
 それでも、佐里は楓の部屋へ週に一度の割合で訪れていた。上京したばかりの頃は、毎日のように楓の部屋にいて遊んでいた。中学時代から、常に一緒にいることが当たり前だったのだ。友人たちからは、双子のようだとも言われていた。
 東京に住みだしてから、双方の住む世界は少しずつ違うかたちで広がっていく。佐里が家に来るという話は、実に二週間ぶりだった。ここまで間を空けて彼女が楓の家に訪れなかったことははじめてでもあった。
『いいけど、私がご飯買う必要あんの?』
『金は払うで』
『うちに来る途中でも、佐里が買えるんじゃないの?』
『ムリ! うちの食いたい弁当、楓んちの近くのコンビニ系列店でしか売っとらんもん、しかも人気あってすぐのうなるし! 名前は、……なんやったっけっかなあ?』
 楓が理性的に問いかけるが、佐里は聞いていない。名前も知らない弁当をどうやって買えばいいのか。佐里は昔からいつも、この調子で楓に無理を言う。
『覚えてないし。やっぱり自分で買いんさい』
『んなこと言わんで。弁当の容器が薄茶色とかで楕円形なん、行きゃわかるから。その形、一種類やでたぶん』
『って、今渋谷かどっかなんでしょ? その辺か店で食べてれば?』
『イヤヤ、楓の部屋で落ち着いて食いたいの。楓ちゃん、後生だって』
 いつも人のことを願いごとを断りきれず、優柔不断なところがある佐里だが、楓にたいしてだけは強情に食い下がってくるときがある。妙に甘えた声を出すのだ。楓は彼女に甘えられると結局、承諾してしまう。今回の件も同様だった。
『金、利子つきだかんね』
 こうした自分がそばにいるかぎり、佐里の甘えグセも直らないだろう。
 携帯電話の液晶画面を見ながら、先刻のやり取りを思い出して光を閉じた。きまじめに佐里の言うことを聞いて、コンビニエンスストアまで引き返し、該当の弁当を探して飲み物まで買ってあげた。
 視点を頭上に持ち上げれば、珍しく星のよく見える空があった。都内ではなかなか見られない、輝きの細かい恒星からひとつの星座を見つけてもう一度白い息を吐く。佐里の言った時刻まであと少しだ。家に早く戻って暖房をつけておかなければならない。
 楓が足を速めようとすれば、手に握っていた着信音が優しいメロディを奏でた。すぐに携帯電話を見る。メールが一件届いていた。佐里からだ。
《地下鉄で人身事故とかで、遅れるかも》
 簡単な文章が、絵文字もなくつづられていた。一日に何度も来る商業メールのひとつを連想していた楓は、その文面に微笑む。喋らない携帯電話に声をかけていた。
「気合いで早く来んさいよ」



 佐里はメール通り、一五分ほど遅れて楓の家に到着した。散々空回りしてきたらしく、扉を開けて聞いた佐里の第一声はうんざりしていた。
「かえでー、よお考えたら、事故った線しか楓んとこの駅に行かんやん」
 そのぼやきに、楓が「お疲れさま」と言って笑む。彼女はすぐ、うん、と、頷いて、スニーカーを脱ぎ室内へ入った。
「あーでも、無事着けたからええわもお」
「佐里、これで当たってる?」
 コンビニの袋から取り出していた弁当を見て、佐里はパッとうれしそうな表情をした。
「そうコレコレ!」
 その言葉が聞けて、楓は安心する。弁当を温めるために容器を持つと、キッチンに向かって電子レンジを開けた。楓の動きに、佐里がくっついている。楓は卓上を指した。
「いいよ佐里座って。そこのお茶、おごりだから」
 本当にどこにも寄らず急いで来たらしい佐里は、軽くお礼を言ってローテーブルへ行く。そして腰を降ろす前に、向かい側にあるテレビのリモコンを探しはじめた。楓は電子レンジの中を気にしながら、彼女の姿を見る。
 佐里がこの部屋にいることが久しぶりのような気がした。実際は二週間ぶりで、その間にも大学や外で佐里と何度も会っている。一緒に行動して食事もしている。しかし、家で二人きりになることはなかった。
 部屋が、不思議と暖かい色に様変わりしたように感じる。一人暮らしをはじめて三年目だが、独りでいることを突きつける部屋が明るく見える。それは佐里が来たからに他ならなかった。以前は、一日おきにここへ来ていた佐里が、久しぶりに座ってくつろいでいるのだ。楓は改めて思った。
 妙に安堵しているのは、佐里がいるからだ。
 この空気は、家に客がいる違和感ではなく、欠けたピースが埋まったような安心感だ。楓の一番好きな安らぎのかたちだ。そのことに気づけば、リン、と、レンジが鳴った。今さらながら愛しいと感じる場に戻る。
「佐里さん、はいどうぞ」
「ありがと。コレ、久しぶりにコレ食えんの嬉しいわあ」
 テーブルに置いた弁当へ、目を輝かせて割り箸を割る音を背にした楓は、エアコンのリモコンへ向かう。「いただきます」という、律義な言葉を耳にしながら温度を調節した。
 冬は静かな足取りで、終わりへと向かっている。
 楓は佐里のところへ、まわりこむように辿り着いた。背を合わせに座って、重心を倒す。佐里を座椅子のように扱った。
「うっ、かえで、おもッ」
 テーブルに向いて食事していた佐里が、くぐもった声をもらす。佐里の体温は温かかった。困惑が背中の振動を通して楓にも感じられた。さらに体重を掛けるようにして、顔を天井の方に向ける。楓は一息ついた。
 人の温かさが身に浸透する。佐里の愛しい熱だ。
「楓、後ろで寄っかからんで。食べにくい」
 注意する佐里が、口先だけで楓を退けない性格であると知っている。楓はそれに甘えたかった。
「だって、楽なんだもん」
 人肌が恋しかっただけかもしれない。しかし、他の人では癒せない。楓は、心に染みる熱の意味を拾う。
 苦しいだとか辛いだとか、今はそうした感情をひとつも持ち合わせていない。しかし、ふとした拍子に寂しく思ったり虚しく思ったりすることがある。そして、心許せる人に愛しさを感じる。
 佐里は、楓にとってかけがえのないひとだ。
「楓、」
「ずっと、このまんまがいいな」
 楓は思う。大切なひとたちがいて、たくさんの出逢いと別れがある。この世界で、いろいろなことを得て失って、笑ったり泣いたり怒ったりして、不器用にもそれなりにやってきた。そして、これからもこうやって生きていくのだろう。
「楓」
 背中越しが、とがめない優しい声に変化した。佐里は、楓の何かを汲み取ってくれた。
「佐里。……ずっと、このまんまがいい」
 楓は知っている。どれだけ今の自分が、ここは大切な愛しい居場所だ、失ってはならない、と、主張してもこの世界は決して、永遠には続かない。すべては、時の流れと人の心変わりの無常さによって消え逝く。望んだ自分も、やがて心を変えてしまうのだ。
 だからこれは、今自分のできる最大級のワガママだった。痛切な願いを吐露できたのは、佐里をいつもそばに感じられるからだ。佐里はそうして、中学校のときからずっと楓に寄り添ってくれた。
「泣かんで、楓」
 泣いてなんかない。
 そう言いかけて、声が詰まった。代わりに熱い息を洩らす。暖かい空間があって、佐里がここにいて、服ごしに温かい熱を感じている。それだけで無性に泣けてくる自分は、少しだけ弱いのかもしれない。
 しかし、何より大切なことを知る自分のために、一粒ぐらい涙を落とすことを許してほしいと目を閉じた。佐里のやさしさがいつまでも切なくて愛しかった。




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