* 花のなまえ *


 自然のざわめきは、規定の音階に沿わない。風の音も、木の葉の揺らぎも、花の咲くかすかな動きも、空気はすべて汲み取ってかすかなざわめきにかえす。物心つく前からバイオリンを学んでいた愛子には、この在るがままの雑音がとても不思議だった。いつしか、心地よいものに変わって、楽譜から離れた。
 気分転換のときは、散歩に出る。それは例え空の澱んだ日でも、雨天だとしても、愛子の生活の中でそれは変わらない。
 今歩く界隈は、頭上にたくさんの桜色が浮かんでいる。コンビニエンスストアに行くと決めて、愛子は高等部の校舎から附属の大学棟を経由する道を選んだ。遠回りだが、最も桜並木の多いスポットだ。桜の季節は、年に一度しかないのだ。
 季節が巡る速度は、はやい。
 五年間過ごしてきたこの学校での生活も、始業式を迎えれば最終学年になる。内部進学をもう一度するのであれば、後四年同じ学校へ通うこととなるが、大学は学部によってキャンパスが別となる。それに、友人の多くは外部受験を目指すのだ。愛子も、友人たちと同じような道を選ぶつもりだった。
 この春が終われば、うだる気持ちを混在させながら受験勉強に本気を出さなければならない夏が来る。哀愁じみた秋を迎えれば、先日お別れしたばかりの冬とまたコンニチハだ。その頃の自分はどうなっているのだろうと、先輩たちの受験模様を思い返しながら、立ち並ぶ桜木を仰ぐ。
 数歩後ろから、ちいさな笑い声が二つ分聞こえてきた。愛子は振り返ることをしない。同じ茶道部の佐里と楓だ。同級の友人二人は、先ほどからこの調子で愛子の後ろをついて歩いていた。間に入り込んでほしくないような話し方をしているから、彼女は放っている素振りで前を歩く。元々、自分一人で外に出ようとしていたところを、直前になってついてきた二人だ。部室内でも、仲の良い二人は何かをコソコソと話し合っていた。
 卒業した先輩たちと、始業式前に一度会う話がでているが、それとは違うだろう。それならば、部長を引き継いでいる愛子へ真っ先に話が届くはずだ。
 二人のうち、ひょうきんなのは佐里で、茶道部の中でも一番のムードメーカーだ。大方、また変なことでも考えているのかもしれない。佐里より数センチ背の高い楓は、そうしたことに付き合うのが得意だ。二人の世界がはじまれば、たとえ愛子が親しい友人だとしても、間に入ることはできない。それは学年でも有名な仲良しコンビに昇格させる大きな原因だ。二人は無意識にしているのだから、気にしていては友人をやっていられない。
 それに、今の二人は愛子が少しでも気にする仕草をすれば会話を静止させる。そして別の話にすり替える。愛子に隠し事でもしているのではないかと勘ぐりたくなる行動を見せるのだ。はぐらかすことや嘘をつくことが下手な二人だから、愛子が暴こうとすればすぐ白状してくれそうな様子である。
 しかし、愛子のほうから訊くのは躊躇らわれた。悪口や陰口を嫌う二人が、ネガティブな話をしているわけはないと信じている。別に気にするような話もしていないだろう。そう思ったところで寂しさは出てくるものだが、佐里と楓は信用できる友人だった。
 はらりと落ちるライトピンクの花弁は、風がなびくと景色に神秘さと美しさを与えて宙を舞う。都会でも自然の美意識は変わらない。自然は常に淘汰され、確かな美しさだけが残る。期限付きの桜並木の回廊は、後一週間でかたちをなくす。
 愛子はコンビニエンスストアで眺めた花見グッズを思い出す。今年は花見をする機会がつくれるだろうか。後ろにいる佐里は、これから花見に出かけるつもりかというくらい、コンビニで品物を買っていた。
 凪ぐ大気の暖かさは、あっという間に春を連れた。コートも、今冬の義務を全うし終えている。建物の中に籠もっているのがもったいないくらいの日和だ。気持ちが天井のない世界に傾く。
 愛子は、もう少し外を歩き廻ろうかな、と、思った。早々戻って茶道の手前を見るのも楽しいが、こうも心地よい日になかなか出逢えない。こうした日は制服を脱いで外に出歩くのが最高なのだろうが、それもすでに叶わないのだ。今日は、午後五時まで新入生歓迎会に関する茶道部ミーティングも入っている。その前の作法練習が今も部室で続いていた。ミーティングがはじまるまで、愛子は暇だ。
 やっぱりもう少し出歩こう。愛子はそう決めて、立ち止まると振り返った。
「あんさ、」
 突然の彼女の動作に、二人は驚いて止まった。思ったよりも二人と距離があった。愛子は言う予定だった言葉をすっかり飛ばしていた。
 同じ制服で、背の高い二人の女子生徒が愛子を見つめていた。しなだれる桜の枝が、彼女たちの存在を際だたせる。一瞬、見とれてしまっていた。
「華、だわあ」
 洩れ出たのは、愛子の素直な感想だった。同じラインにいながら、二人にはオーラともいえる、確立した自分の色があった。校内でも、佐里と楓のコンビが有名になっている理由がわかる。とりわけて成績が良いわけでも、何かに長けているわけでもない。しかし、華やかに周囲を染める外見と雰囲気を持っているのだ。
 愛子には、持ち合わせていないものだった。
 すぐに、愛子は自分の口にしてしまった言葉を罰悪く感じた。それは、憧れを吐露する言葉のひとつだ。佐里と楓に気づかれることを恐れた彼女は、かかさず口を開こうとしたが、二人のほうが先に声を揃えていた。
「はなぁ?」
「私の鼻に、なんかついとる!?」
「マジ? うちが見たる」
「見てよ見てよ。虫とか、虫とかはやだわあ!」
「虫はないで……、鼻毛でとるで楓」
「コラ佐里! そんな嘘ひっかかりませんよーだ」
「ハハッ、マジマジ」
「笑っとるし、バカ」
 完全に見当はずれの会話をはじめている。愛子は、その様子を眺めながら、この二人がこの程度のレベルでよかったと苦笑した。高校三年になっても、中学時代とあまり変わらない会話の二人だが、その嫌みのなさと無邪気さに救われる。だから、『華』なのかもしれないと愛子は思った。
 だから、愛子も「桜がキレイだわあって、思ったんよ」と返した。深入りはしない二人は、「あ、桜、」と、すぐ納得した。どちらかというと、花よりだんごの二人でもある。その通り、佐里がすぐグルメの話を持ち出した。
「知っとる? この近くにうんまい団子屋があんの」
 その横で、楓が「佐里、」と名を呼んで、腕をつついた。
「今だって!」
 愛子が訝しげに目を細めれば、それに促された佐里が慌ててポケットを探った。
「愛子、これ」
 言って軽く投げてきたものを、愛子はすぐにキャッチする。手の内におさまったものは、片手に包めるくらいの大きさでカラカラと中が鳴った。見慣れた小さな箱だった。愛子が最近一番気に入っているミントチョコのパッケージだ。
「アホや」
 一人誰にも聞こえないくらいの声でごちて、愛子は苦笑した。パッケージを裏返す。狭苦しいスペースに、油性マジックで文字の羅列が乱雑に載っていた。
『アイコへ、ハッピィバースディ サリ かえで』
 愛子は二人を見遣った。抑えきれない笑みで。
「なんなんコレ」
 誕生日は明日だ。そして気持ちが本当に籠もってるか分からないくらい安っぽいプレゼントである。
 それでも、二人が込めた想いは計り知れないとわかった。心がとてもやさしい二人なのだ。人のことを、理解しようと努めてくれる友人だ。
 照れ隠しで歩き出した愛子に、佐里と楓も反応に嬉しげな笑みで、歩み寄ってテンポを合わせた。
「春休みまだ終わらんもん。だから、会えるなら早くあげよって。愛子ちゃんの誕生日の日に会えないからね。うちらの家、県またぐし」
「そうそう、いつ渡そうかって思ってなあ」
 どうでもいいようなプレゼントに決めたわりに、コンビニエンスストアの重そうな袋を片手に真剣な面もちで佐里が付け加える。
「ほんとは手品であげようとか言ってたの。でも、いざ決めたら手品グッズ持ってくんの忘れたとか言うしね佐里」
 ダメダメじゃんねえ、と、からかい混じりで種明かしした楓に、佐里は立場悪そうに「ええの、もう」と、言葉を返す。あいかわらずの二人を少し呆れたように見ながら、小さな箱に目を落とした。
 佐里と楓が、愛子と距離をとって後ろを歩いていたのは、絶対このせいだった。店内でも、二人がくっついて何か話していたのも、結局はこんな程度だったのだ。
 愛子は、自分が無頓着な素振りをしながら、子どものように気にしていたことが恥ずかしくなった。しかし、愛子自身にしか、その葛藤はわかりえないことだ。
 今は、三人並んで桜並木の道を歩く。
「……あっこの奥にあんのよ、めっちゃうんまい団子屋」
 少し沈黙気味だった佐里が、再起復活をかけた物言いで車道の向こうへ顔を向けた。
「ふうん」
「そうなん」
 反応の薄かった二人に佐里は低い声で、「ちょっと買ってこようかな」と、つぶやき、そろそろと道をそれ出す。小箱を手で弄んでいた愛子は、自分たちから離れだした佐里の背に言葉を投げた。
「それも、誕生日プレゼントなんよねえ」
 その言葉に佐里は背を向けたまま、軽く手をあげてオーケーの合図をする。その直後に楓も「私にも買ってきて」と催促をかけると、佐里は「楓のはおごらんで!」と振り向いて睨んだ。そのまま桜の根っこに躓いき、また罰悪そうに背を向けた。
 その情けなさに楓と愛子は顔を見合わせて笑う。お人好しの佐里のことだから、部室にいる生徒分もいくらか買ってくるだろう。そうした彼女のやさしさを知っている。だから楓も愛子も近くに立ち止まって帰りを待つことにした。
 風で桜が雪になる。愛子は、単独行動をする気を霧散させていた。
「愛子ちゃん、さっきなんかいいかけとらんかった?」
 佐里より聡い楓が、そっと愛子に訊いた。しかし、愛子の手元に言いたかった言葉はなくなっていた。
「べつに、なんでもない」
 曖昧に濁せば、楓も愛子の意向を汲んでくれた。
 滅多にない日和も、期間限定の桜を愛でるよりも、この友人ふたりのそばにいたいと、強く思う心がある。愛子は貰ったプレゼントをかざした。もう一度、アホや、と、その拙い字の魔法に苦笑する。その横で、楓も当事者でありながら同感して笑った。
「後日、ちゃんと日にち決めて誕生日会しようね」
 愛子が見やれば、延々と続いていく道が映る。巡りゆく季節のほんのひとかけらに、暖かな記憶の色がともった。その春の光を、自ら歩く歳月に重ねていく。
 自分の生を受けた春という季節が、途端に愛しくなった。そして、華の溢れる世界に出逢えたことを、愛子は誇りに思った。



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