* トオン *


 先刻まで時間隔を失うほど没頭していた趣味の曲作りに見切りをつけて、双葉はフローリングに座ったままデジタルな景色を見つめていた。
 音はもう、自分で描いたもの以外は聴きたくない。それで消音のままテレビを絵画のように眺める。液晶画面の中身に本当は飽き飽きしていた。流れる番組はどれも同じに見えるのに、それでも双葉は腑抜けたように瞳に解かし込む。電灯を消した空間で息を潜ませる。なるべく無心で、目の前にあるテレビに全神経を走らせるのだ。それは、独りきりになると開く心の隙間を闇で埋める作業にも似ていた。
 繰り返す日常は社会のスピードと変わらない。人から見れば、双葉の生活も地位も恵まれているほうだと言われるのだろう。それでも何か足りないと思ってしまう。現状を物足りなく感じるのはただの贅沢なのかもしれない。
 救急車のサイレンで、ハッとしたように双葉は顔を上げた。すぐに舌打ちして、近くあったクッションを抱き込んだ。リモコンを取って画面を消す。もたれかかっていたソファにごろりと横になった。騒がしい色がなくなって静かな闇が訪れると、とたんに胸がざわつく。テレビがついているときのほうが、闇に溶ける感覚は強いのだ。
 本当の孤独は、まだ好きにはなれない。独りでいることが好きと言いながら、本当は孤独が恐いのだ。
 きっと、心がまだ強くないのだろう。
 双葉は目を閉じる。独りになるとときどきやってくる。無意識に過去を引っ張り出して、世の無常を思いながら女々しく悲観する自分だ。何もかも放り出したくなる。どこか遠くへ行きたくなる。その衝動を抑えるために、息を詰めて闇をまとう。心にできた傷と空洞を見つけてしまう。光と闇の格差に怯えてしまうのだ。
 これが、生まれもった性なのか、自分がいままで歩いてきた道のりのなかで拾ってきてしまったものかは、いまだ見当がつかない。人格を覆えされるほどのショッキングな出来事は、この人生で一度も起こっていない。しかし、気づけば、騒がしい闇に埋もれる夜を必要とするようになった。
 長く一人で抱えていた。手に負えず表現できない感情だ。外圧に関係なく訪れる鈍い心の痛みを、数年前、同じように抱くひとを見つけた。どこか共通の感性でつながっていると、出会った瞬間に感じたのだ。
 だから思う。今、彼女は双葉と同じように闇のなかで目を閉じているのだろうか。どのようにこの痛みを対処しているのだろう。あの子は今、どこにいるのだろうか。自分と同じように、どこかで痛んでいるのだろうか。

 この、耐え切れぬすべてのものに。

 玄関のインターホンが鳴って、双葉は目が覚めたかのように我に返った。
 自分でも気がつかない内に眠っていた。時計を見やると、とうにメトロの終電も終わっている時間だ。友人を部屋に泊めることの多い双葉は、オフにしていた携帯電話を見る。誰からの連絡もない。気のせいかとため息を吐けば、また呼ぶ音が響く。
 こんな時間に、アポなしでやってくる人間なんてかぎられている。
 先刻まで、脳裏に描いていた人物が筆頭にあがる。双葉の友人のなかでも、変わった部類に属する子だったが、抱えている部分がとてもよく似ていた。それほど頻繁に会う仲でもないが、その存在は妙に安堵感を与えてくれた。
 彼女ならば、機嫌を損ねる要素には達しない。双葉はフローリングに脚を下ろし、玄関に向かった。一応、玄関小さい穴から確認してドアの鍵を開けた。通路の蛍光灯の明かりで一瞬、世界がかすむ。その存在は、やはりとてもよく知っている人物だ。
「メールくれればよかったのに」
 双葉はつぶやいた。年下の理沙は無表情で黙ったままだ。それを訝しくも思いつつ、このままではよくない、と、双葉は理沙を招き入れた。理沙は言葉の代わりに、軽く会釈してなかへ入る。鍵を閉め、すっかり暗くなっていた部屋に双葉が明かりをつけようとした。
 その最中、冷たい手に突然強く腕をつかまれた。そして強引に引き寄せられる。双葉は唐突なことに一切の状況把握ができず、気づいたときには身体を壁に押しつけられて、くちづけを交わしていた。
 不意打ちの行為は深さを増した。抵抗する術を失ったまま、口内を散々犯される。女の力でも、体勢が悪すぎて振りほどけなかった。わずかに、くちびるが離れた。首を引いて、双葉は咳き込むような荒い息を続ける。
 抵抗よりも驚きが勝った。どうして、こんなことをするのか。
 彼女は相手を間違えていない。半ば放心する双葉にもう一度浅く口づけ、そのくちびるを今度は双葉の首すじに落とす。片手は強く双葉を壁へ押さえ込んでいる。彼女は双葉より背は高いが同性だった。もう一方の手が、双葉の肌に触れようと上着の中を探って腹を撫で上げる。その体温に驚いた皮膚はビクリと震え、双葉は彼女の手を引き抜こうとした。
 しかし、双葉はその抵抗を自らやめた。
 違う。
 服のなかにある理沙の手でブラジャーのホックを外され、直接胸を弄られる。その感覚に息を殺して、また強く、違うんだ、と、思った。
 そういうことじゃない。
 行為を進める理沙の顔が、闇にまぎれて見えないからこそ抵抗してはいけない。だが、このまま流されてしまってもいけない。傷つくだけだ。どちらを選んでも、互いは後悔して傷ついて、失っていくのだ。
 理沙がどんな意思で、双葉を抱こうとしているのかはわからない。同性を性対象として求めれたことははじめてだ。しかし、これは欲望を吐き出すためではない。そう、双葉は気づいていた。
 双葉の抵抗しなくなったことで、理沙は力を少しゆるめた。その瞬間をとらえて、双葉は両手を動かす。突き放すためではない。受け入れるためだ。彼女の胴へ手をまわす。
 深く抱き締めて、背中をなでた。彼女のものになるように、何度もなでた。
 気持ちが同じものになるように、独りではないことを動作で伝える。彼女の吐き出したい悲しみの行方は知っている。双葉もやり切れず、胸のなかに仕舞っているのだ。身体を探っていた理沙の手が離れ、双葉の背にまわった。頭は肩に埋めたまま、彼女は動かない。双葉は深く呼吸をした。自分でも驚くくらい、穏やかに微笑んでいた。
 こんなにも温かい。
 体温はこんなにも温かいのに、人は皆、孤独なのだ。
「なんにも言わないで、いいから」
 謝罪の言葉は絶対に聞きたくない。同じ心の痛みならば、容量ならば、理沙の行為は切ないほどわかるのだ。先刻の闇に埋もれようとした自分を思い出す。深みにはまってしまったら、きっと自分も今のように誰かを求めてしまっていたのかもしれない。誰かの体温を探していたかもしれない。だからこそ、理沙の向けた孤独の矛先が自分であってことに安堵した。
 彼女の欲するままに流されてしまえば、どれだけ楽だっただろうとは思う。しかしそれは、傷を舐め合うことにしかならない。
 双葉の台詞に、理沙はかすかに頷く。さらに縋るように、腕に力を込める。
 やがて彼女の手も体温も、いつか本当に大切な人と出逢って、いつか守るべきものを見つけて、互い離すことになるのだろう。
その時は、迷いもなく幸せであればいい。
 かぎりなく想う自分の幸と、ぬくもりの先にある幸を双葉は目を閉じて祈る。
 自分も含めてみんな、幸せであればいいのに。
 今はただ無条件に思った。そうであれば、こんなふうに苦しまなくてもいい。
 暗闇に浮かぶ部屋の一室は、目に見えるかたちでしかない。だから、漆黒のなかで息を潜めて痛みをわけあう。少しして理沙の頭が動いた。囁きにも近い言葉が聞こえ、双葉は少し困ったように微笑んだ。うん、と、深く頷く。
 アリガトウという言葉をくすぐったく受け止めながら、いつか自分も誰かに使う言葉なのかもしれないと戒めた。
 どんな哀しんでも、疲れ果ててしまっても、きっと朝は来る。それを、二人は知っているのだ。
 世界は平等に朝を与えてくれる。双葉は、理沙のぬくもりを抱いて夜が明けるのを待っていた。



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