* さよならは言えない *


「姉貴、いつまでソレ見てんだよ」
 直哉が椅子を引きながら、ソファに寝そべる理紗へ声をかけた。ダイニングテーブルに彼が置いたばかりのマグカップは二つ分、姉の言葉を律儀に受け取った結果だ。なかはブラックのコーヒーで満たされている。
「……コレはね、何度でも見るもんなの」
 理紗は熱いうちに飲み物を手にしようと身体を起こした。ずっと横になって眺めていたのは、リビングを陣取る大型テレビだ。この位置に移動しても、液晶画面はよく見えた。
 向かいにいる直哉は姉からひととき目を離して、大学から持参してきた書類をテーブル上に並べていた。再来月に大学を卒業した後、そのまま同大学院へ進学するらしい。理紗はこの実家に住んでいないので詳しく知らないし、訊くつもりもない。高校まで暮らしていた土地だが、すでに五年以上離れている。それ以前に、地方都市の大学事情は高校時代から範疇外だった。
 用意されたコーヒーはインスタントものではない。香りを吸い込むだけでもホッとできる。理紗は今の気持ちを込めて大きく息を吐いた。直哉のそばにあるマグカップのなかは色が違っている。ブラックで飲む習慣のない彼は、いつもコーヒーに牛乳を足している。
 カフェオレを見ると思い出すものがあった。理紗はテレビを見つめて、もう一度息を吐いた。
「……何ずっと心気くせえ顔してんだよ」
 弟の声に、理紗は頬杖をついた。
「いろいろあるんですよ」
「いろいろあんなら、自分の家帰れよ」
「ここもあたしのおうちだもん」
「出てった身だろ。親父とケンカして」
「パピーは、明日まで出張だってマミーが言ってたもん」
「うぜえ」
「うざくて結構」
 テレビ音声から理紗は液晶画面に顔を戻した。そのまま視線を固定する。実家にある42型は映像に迫力があって、良いスピーカーを内蔵しているせいか音もクリアだ。それこそ、劇団で使っているカメラの質の悪さも鮮明に教えてくれる。理紗が三巡目させているDVDは、彼女自身の所属する劇団の公演内容だった。今の場面では、準主役が舞台に出て演技している。それを理紗は何度も目に留めている。科白も全部覚えている。この台本を、彼女と一緒に読んでいたからだ。
 映像越しの彼女を見つめる。この公演には理紗も出ていたが、脇役にまわっていた。別の舞台と兼用していて良い配役を渡されなかったことを気にしているわけではない。第一、再来月から主役を担う舞台が決まっている。
「明日、帰るんだろ」
 顔を上げて訊いてきた直哉を、姉は無視した。自分のペースを譲らない彼女の放心に、彼は気づいたのかテレビのほうへ視線を向ける。理紗と直哉は四歳違いの姉弟だが、仲が良くお互いの性格もよくわかっていた。
「姉貴、」
 理紗は画面を凝視することをやめない。脳裏に何度でも焼き付けておきたい人物が舞台でしゃべり動いて感情を見せる。
「その役の女に、なんかあんの? 役でも取られたのかよ?」
 準主役に的を絞った問いに、理紗はようやく弟へ視線を向けた。血を分けただけ鋭い、と、少し感心した。しかし、理由は違っている。
「役は関係ないよ」
「じゃあ、なんなんだよ。同じ劇団なんだろ」
「そうだねえ」
「姉貴と同じくらいだろ。ライバル?」
 彼なりに心配したか気になったのかもしれない。理紗が見つめている女性は、どちらか言えば可憐な雰囲気のあるひとだ。天然で理紗以上にマイペースで、考えていることが読めるようで読めない。
 先日、目の前で泣かれた。
「ライバル……ライバルねえ」
 復唱すれば、直哉がカフェオレをすすりながら、とりあえず友達なんだろ、と、決めつける。理紗は苦笑した。
「ともだち、か、」
 そう単純に思うことができれば、どれだけよかっただろう。友達として失えないと思えたらならば、どれだけ楽だったか。理紗が見つめ続ける画面のなかの準主役には、理紗がよくわからない、と、言われた。理紗自身も、どうすればいいのかわからなかった。
 自分のものにしたい、としか思えない。
 ここまで一人の人間に本気になったのははじめてだったのだ。佳菜にスキだとも言っているし、したいことはしている。佳菜もそれを受け入れてくれている。互いの負担にならず、自分たちの夢を最優先にしてここまで来たのだ。それにも関わらず、佳菜を欲しいと思う気持ちが抑えきれない。無理に抑えれば、佳菜から理紗が遠くなった気がする、と言われる。
「ともだちだったら、よかったのかな」
 理紗は、らしくなく俯いた。テレビ画面では、いまも佳菜が声を出して動いている。何度見ても同じだ。今朝、佳菜から携帯電話に一通の連絡が来ていた。それを理紗はまだ返せていない。本当は今日帰るつもりだった。明日から本格的な稽古がはじまる。
 黙った姉に、普通ではない様子を感じたのだろう。知らないことにしようと判断したのか、直哉がテーブルに向きなおる。その瞬間に理紗が口を開いた。
「佳菜、かわいいと思う?」
「え、カナ? 誰?」
「だから、あたしが熱心に見てる子だよ。同い年なんだけど。男から見てどうよ」
「……まあ、男受けする感じと思うけどな。俺の好みではない」
「あたしの好みなんだよ、それ」
「は?」
 姉の告白に、直哉が凝視した。この期に及んでカミングアウトする内容ではなかったが、いずれ気づかれることだろうと理紗は自分にため息をついた。性癖が暴かれても自分は変われない。
「佳菜、あたしのストライクゾーンなの」
「どういうことだよ」
「そういうことよ。女しか受けつかないの、あたし」
 唖然とした直哉の顔を見て、もう一度深く息をつく。女しか受けつけないが、今や女や男のくくりはどうでもいい。理紗は、一目見たときから佳菜を気に入っていた。あちらもそう思っていたし、周囲からも双子のようにしっくりくると何度も言われている。そのとおりだ。出会えた運命に感謝している。むしろ、出会わない運命がもう想像できない。
 テレビ画面から佳菜がいなくなった。理紗は、それに気づいてとても寂しくなった。今朝彼女から届いたメールには、いつ帰ってくるの、と、書かれていたはずだ。実家へ帰省する前に泣かせてしまったことを、泣いた本人はすでに引きずっていない。理紗だけが、この想いをどう対処すればいいのか混乱しているのだ。
 ただ、佳菜のことを失いたくない。
 佳菜は特別なのだ。この先、どのような関係に変化しても、サヨナラを言うつもりはない。それだけは断言できる。
「マジかよ……」
 長い絶句の後に直哉が吐露する。親に言わないでよ、と、念は押さない。彼の性格からして、姉の秘密は秘密のままにしてくれるだろう。
「ごめんね」
 ショックからいまいち現実に戻りきれていない弟を見ながら、理紗は猛烈に佳菜に会いたくなった。あの柔らかい肢体を抱きしめたい。どうしても抱きしめたい。においを嗅ぎたい。
 明日は午前中に戻ろう。佳菜に会いに行こう。用のなくなったテレビを消して、理紗はそう決めた。



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