* 夏時間 *


 化学準備室の扉を閉めた恒平は、すぐそばの階段を下っていた。視線を落とせば、中一階の踊り場に開け放たれた窓から外が見える。高台にある彼の高校は、海に面する市が一望できる場所として地元でも有名だ。夏の風が横を抜ける。明日から夏休みだ。海のにおいを感じるのは、景色の奥に海が見えるせいもあるだろう。
 屋内まで届くかけ声や笛の音を聞きながら、玄関口を目指す。ホームルームを一時間以上前に終えた校内で、恒平とすれ違う者はおらず、学校に留まっているのは運動部に在する連中くらいだ。
 恒平も昼食時を少しすぎた時間帯に空腹を感じながら、土足靴の置かれる玄関へ行き着く。自宅は自転車圏内だ。広い一軒家には、母親が幼い妹と在宅しているはずだ。
 げた箱から、スニーカーを取ってはきかえる。休みの間に内履きを洗うから、と、今朝登校前に母親から言われていたことを恒平は覚えていた。ポケットから登校前に渡されたビニール袋を取り出して、脱いだ内履きを入れる。肩にかけていたバッグを下ろして、開けた中に押し込んだ。ノートや参考書が詰まっているのは、今しがた職員室で担任の教師から学習教材を借りたためだ。一学期最終日にもかかわらず重いバッグに辟易するが、文句は言っていられない。これらの借用を依頼したのは恒平自身だからだ。
 屋外へ出れば、夏の日差しで体感温度が一気に上がった。梅雨は数日前に明けたばかりだが、その終盤に雨が降ることは一度しかなかった。クラスの皆は、夏休みと期末考査の答案返却にテンションを上下させながら今日までの学校生活を乗り切った。テストが明けてからの休憩時間は、夏休みをどう有意義に過ごすという話題で持ちきりだった。恒平もクラスメイトと出かける予定がある。
 校舎玄関から数段降りると、舗装されていない土に靴底があたる。花壇で通路がつくられ、フェンスを隔てた向こう側がグラウンドだ。右奥にある正面門へ恒平が顔を向ければ、一人の女学生がフェンスに張り付いているのが目についた。
 この時間に制服姿の同校生がいることは珍しい。部活動組は、それ相応の服に着替えて活動している。しかも、強い日差しの中でグラウンドを見つめている。
 セミロングの髪が日光に当たって茶色に光る。高校には密かに髪を染めてきている生徒も多い。しかし、彼女の色彩は染めているにしては光沢があった。天然で色素が薄い人間を、恒平は一人だけ知っていた。
 自宅の近所に住んでいる、幼なじみの宮都だ。
 生まれたときから一緒で、後ろ姿からでもすぐわかる。最近はすっかり疎遠となっているが、去年は高校受験の参考書をもらったし、なにより家族同士で仲がよかった。母親から宮都の話を聞くことは多々ある。
「宮都先輩」
 フェンスにいる彼女に、恒平は声をかけた。
 幼なじみでありながら、先輩、とつけたのは、彼女がひとつ年長だからだ。
 中学からは縦社会なの、呼び捨てしないでよね。宮都は中学校に進学した途端、恒平にそう忠告した。弟分と化している恒平は素直に従っている。宮都は怒らせると怖い。
 振り向いた宮都は、学年があがって少しだけ大人びた顔立ちになっている。しかし、髪型同様、中身も昔からあまり変わらないことを恒平は知っていた。
「なんだ、恒平じゃん。まだ帰ってなかったの」
 つまらなそうな第一声だった。視線を外して彼女の肩を越す。野球部のかけ声が聞こえ、奥でテニス部が活動中だ。陸上部とサッカー部は敷地を離れて走り込みをしているのだろう。運動部がいくつも集まったところで、すべてを許容できる広いグラウンドだ。この高校の自慢のひとつでもある。
「今から帰るんだよ」
 先輩後輩の上下関係をわきまえろと、以前より彼女から諭されているものの、言葉遣いまでは直す気はない。今更敬語を宮都に使っても、気持ちが悪いだけだ。
「あんた、午後から予備校?」
 彼女は続けて訊いてきた。恒平は中学校からその手の学習塾を使ったことがない。突然何を訊いてくるのかと、恒平は思いながら彼女の前に立った。
「まだ行ってない。夏期講習の申し込みは明日する予定だけど」
 身丈が頭一つ分以上違う。気づかない間に、自分はさらに背を伸ばしたようだ、と、恒平は思った。会う度に「背ぇ伸びたね、あんた」と、感嘆していた宮都も、恒平が百七十五センチを越えてから何も反応しなくなった。それ以上の高さは、彼女にとって同じようなものなのかもしれない。
 まだ成長しそうな身長は、あと一センチで百八十台に到達する。恒平は、今以上の長身を望んでいなかった。日本で生活するには不便となる。
「ほんと勉強好きだね。イッコ上の私たちですらまだ行ってないのに、早すぎ。つか、今回の期末テスト、全教科満点だったんだって、キモすぎるんだけど」
 宮都が好成績を軽蔑するような口調で恒平に言う。彼は、宮都が自らの成績を知っていることに驚いていた。この高校は生徒の成績を壁に張り出すようなことをしない。さらに、テスト返却が終わったのは前日の話で、恒平は両親にテストの出来具合について話していなかった。元々成績は通知票を見せるだけで許され、息子が無事成人してくれればいいという考えの両親に半放任されている。
 宮都が恒平の成績を知っているのは、教員が公言したせいかもしれなった。担任の教師に、自分の成績を言い広めるのはやめてほしいと頼んでいるが、他の教員は彼の願いをくむことはない。学年トップの成績は、名誉なのだ。恒平はそうした名誉のために勉学に励んでいるわけではなかった。
「誰から聞いたんだよ、それ」
「うちの担任が言ってたんだよ。その頭で、さらに夏期講習行くんでしょ。私の夏の予定なんて、家の手伝いとテレビで甲子園見ることくらいしかないのに」
 なら、宮都センパイも一緒に夏期講習行くか? と、訊いたところで、全力で拒否されるだけだろう。言うだけ二倍返しする宮都のやり口をよく知っている。
 恒平は、黙って彼女を見つめた。彼女の光彩は栗色に近い。いつ見ても、瞳がとても綺麗だ。小学校時代の恒平は、この色彩に憧れたこともあった。
 見つめられていた彼女はため息をついて、目を離した。フェンスに手をかけてグラウントを見つめ直す。その瞳は、恒平を見ているときよりも熱がある。野球部に目線が向かっていることを恒平は訊かずともわかっていた。
 宮都の夢だった。は小学校高学年から、高校野球部のマネージャーになって甲子園を目指すと豪語していた。中学に上がる寸前でそれを断念したのは、海難事故で片足を悪くしたせいだ。三学期のすべてを病院の一室で過ごし、小学校の卒業式にも出られなかった。不遇な状況にも彼女は泣かなかった。しかし、その後遺症は足だけでなく性格にも色を落としている。
 今の彼女は、何の支障もなく歩行できるが、長い距離を走ることはできない。気候の寒暖で足の調子が左右するという話を、彼女の母親から聞いていた。彼女が体育を休んでいるところを、恒平は窓から何度も見たことがある。
 野球部のマネージャーになっても足手まといになるだけだから、と、宮都は夢を叶えることをしなかった。表に出さない彼女の苦悩を、恒平はよく知っていた。
「あーあ。あんたみたいにタッパがあって男だったら、スポーツしてたのに。なんであんたはスポーツしないの。宝の持ち腐れよ」
 宮都は恒平に会うと、かならずこうして嘆いた。こうしたときは黙っているのにかぎる。
 彼女は活発な少女で、ミニバスチームとソフトボールチームを兼務していた。幼い頃から、「私が男だったら、」という発言を恒平に繰り返し、男ならばスポーツのひとつでもしろと訴えられ、小学校時代には同じミニバスチームに在籍する羽目になったほどだ。
 宮都は言い出したら聞かない。実際に内気だった恒平がスポーツをはじめたことで社交関係を広めたのだから、彼女の強いアドバイスは理に叶っていた。
「ねえ、恒平」
 宮都が、また恒平に視線を向ける。
「なに?」
「またバスケでもしないの」
 小学校のミニバス時代を持ち出されても、恒平にとっては、すでに遠い過去の記憶である。
「バスケだったら、まだ剣道のほうがいいよ」
「中学は剣道部だっけ。もう、スポーツ盛んな高校なのに、なんで私もあんたも帰宅部なんだか」
「帰宅部でもいいだろ」
「ガリ勉くんはね。あんた、センセーたちが噂してたわよ、医学部志望だって。冗談だと思ってたけど、あれあんた本気だったの」
「そりゃ本気に決まってんだろ」
 元から要領がいい恒平だが、学年トップをキープするならばそれなりに勉強しなければならない。志望大学はすでに高校受験中に決めていた。先生たちには悪いが、在学している公立高校の授業だけでは足りない。それを担任はよく理解してくれているのが幸いだ。
 恒平の本気に今まで気づかなかったという表情で、宮都が恒平に向いた。呆れた顔に変わっている。
「なら、なんでもっと頭良い進学校に進まなかったの。無駄じゃん、ここにいても」
「家から一番近いからいいんだよ」
 宮都の質問に即答すれば、彼女が「バッカじゃないの」と、つぶやいた。しかし、唐突にまた表情を変えた。
「あ、もしかして、弥生子がここにいるから?」
「違うに決まってんだろ」
 女子特有の詮索するようないたずらっぽい表情に、即答する。彼女の発想に少し呆れていた。弥生子は宮都の小学校時代からの親友で、幼い頃は宮都と同様に弥生子ともよく遊んだ。確かに恒平は弥生子のことが好きだったが、それも遠い昔、小学校時代のことだ。
 しかし、宮都はその返答を無視するようだ。
「今、弥生子待ちだけど、なんなら一緒に帰る? お姉さん、恒平のためなら取り持つよ」
 半分からかった言いぐさだ。恒平は、いいよ、と、拒否した。宮都と話していてもキリがない。
 早く帰ろう。
 彼女に視線を戻して口を開く。その瞬間に、制服や肌に冷たいものが当たった。水滴だ。しかし、雨が降る空ではない。真っ青の快晴だ。
「ちょ、なに、あ! 弥生子!」
 宮都の声で、彼女が見上げているほうを見た。二人が立つ正面校舎の二階窓で、弥生子が手を降っていた。空いた片手にそれなりの大きさの水鉄砲がある。
「恒平、久しぶり」
「けっこう濡れてんだけど!」
 間髪を入れない宮都に、弥生子は涼しい顔をしてもう一度引き金を動かす。水が落下中にたくさんの滴に変化して、恒平と宮都に当たる。逃げる余裕はなく、眼鏡が濡れる。
「もう、やめてよね」
「夏だし、すぐ乾くわよ。気持ちよかったでしょ? あと少しで終わるから待ってて」
 弥生子は悪びれることなく、教室奥に戻っていく。文化祭実行委員だったはずだ。宮都より背が高く美人だが、ときどき突拍子のないことをすることは知っている。待ってて、という言葉の中に恒平も含まれていることに小さくため息をついた。
 この二人に、幼いときから散々振り回されていたのだ。
「恒平、眼鏡拭きなよ」
 宮都がハンカチを渡してくる。彼は素直に受け取って、眼鏡を取った。
「お腹すいたねえ」
 つぶやく彼女をぼやけた視界で見下ろす。
「そうだな」
 弥生子が放った水しぶきがきらめいて、見慣れている相手がキレイに見えたことは、心の内にしまっておくことにした。



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