* CANTARELLA *


 得体の知れない圧迫感に、佳菜がはじかれたように振り向いた。地面に立っているというのに、身体を押しつけられているような重圧を感じる。しかし嫌いな重さではなかった。その感覚が、次第に佳菜が見ていた景色を霧散させていく。無意識下の脳裏で、すでに骨組みもわずかな映像の記憶を留める力はない。あったはずのものが瞬く間にどこかへ流れてしまうのは、それが『夢』である証拠だった。
 佳菜の意識がリアルな世界へ向く。睡眠時に表れる夢という現象を、佳菜はあまり信じていなかった。周囲の女友達は、夢で見た話や夢占いなどに手を出して盛り上がっていたものだが、佳菜は興味が持てなかった。夢占いをされても、ほとんど夢を見ないのだから仕方がない。もしくは、夢を見たという意識すらほぼないのだから、覚えているわけもない。
 だからこそ、意識が浮かび上がってくる間際に佳菜は思った。私も夢を見るときがあるんだ。
 しかしそれも、目を開けば忘れてしまうものだった。


 佳菜が目蓋を押し上げて見たものは、暖色の淡い光と、その灯りが伸ばした大きな影だった。
 自分の身体に圧迫感をもたらしている不自然な影は、ひとつの瞬きでより鮮明に存在を際だたせた。人が逆光で影をつくっているだけだ。息遣いが間近に聴こえる。誰かが乗り上げている、と佳菜は漠然と思った。そして、その相手が男ではないことにも気づいていた。肌のあたりが柔らかい。
 仰向けの佳菜と、不自然な影の眼が合った。光に慣れない虹彩は、やがて人の輪郭をかたどる。ベッドに乗り上がっているのは、理沙だ。かすかな甘いコロンのにおいを間違えるはずがない。
「……な、に、」
 詰めていた息とともに、佳菜は上擦った声を漏らした。気がつかない間に、身体を硬直させていたらしい。圧迫感が途端に抜ける。理沙にその様子が伝わったようで、屈託のない表情を佳菜に見せた。
「なにって、ヨバイ、的な?」
 はじめから佳菜を起こすつもりだったのだろうか。迷いのない指が、佳菜のくちびるをなぞる。佳菜を組み敷く状態の理由が「ヨバイ」だったとして、その「ヨバイ」とはどういう意味だったかと、佳菜はぼんやり考えた。感覚的にはなんとなくわかるが、明確にはいまいち思い出せない。
 そういえば、何時くらいなのだろう。明るさは薄く絞られた程度の照明だが、その灯りがまだ映えている。
「カナ、眠い?」
 理沙が肌を寄せるように、耳許でささやいた。眠いというより、うつらうつらする心地で、どのように説明すればいいのかわからなかった。
 それよりも、なぜ理沙は「ヨバイ」などと言い出しているのか。佳菜はそればかりが気になった。ここは彼女の家で、先にベッドに潜り込んだのは佳菜だ。シングルのベッドだが、お互い細身の体型で、寝相はさほど悪くはないからいつもそうしている。特に今は秋から落ちる気温に沿って、夜は寒い。佳菜は理沙の体温と一緒に寝たかった。理沙はその願いを喜んでつきあってくれている。
 先刻までノートパソコンに向き合って作業をしていた理沙だったが、ようやくひと段落着いたのだろう。彼女の声は、いつもより少しだけトーンがのんびりしている。本人も眠気を感じているのだ。
 その理沙が、佳菜の視線を強く意識している。しかし再度応えを乞うことはなく、彼女は触れた。佳菜の肩の輪郭をなぞっていく。服越しに感じる理沙の指は佳菜の肌よりも冷たい。まるで佳菜の体温を欲しているようだった。夏でも理沙は冷たい手をしているのだ。そして佳菜はそれの指がとても好きなのだった。
 一方の理沙は、その冷たさを紛らわすために、佳菜に触れているだけなのかもしれない。そう思うと、佳菜の指が動く。
 掛け布団を剥ごうとしていた理沙は、前触れもなく抜け出した佳菜の手の動きに身を止めた。佳菜が寝ぼけながら伸ばす指の行方が、理沙の胸元に向かったのに気づいたのか、少しだけ不思議そうに彼女は佳菜に顔を近づける。
 その首許に佳菜は触れた。指先ほど、理沙の体温は落ちていない。人肌という言葉が似合う温かさだった。寄せるように手で押せば、理沙は「なあに?」と、言いそうな表情で佳菜を見つめた。佳菜は少しだけ身を浮かせて、その口許にくちびるを合わせた。
 そして、少し乾いた皮膚を潤すこともなく、触れるだけですぐに離す。
 大きな意味もなく、したくなって試したキスはささいな感触で、佳菜は重力に導かれるまま、頭部をトスンと枕に押し付けて手をはずした。鈍い目蓋を伏せて再度開けば、不可解な様相が佳菜の目の上で広がっていた。
 理沙が頬を紅潮させて、固まっている。
「……リサ?」
 佳菜は覆い被さるように両手をついて固まる理沙の顔に、瞬きを繰り返して訊いた。その声は自分のものながら、眠気を色濃く孕んでいるように佳菜には感じられた。おそらく瞳をきゅっと閉じて一〇秒数えたら、あっという間にリアルな世界を手放しているだろう。妙な自信があった。
 問われた声に、理沙は一テンポおいて反応した。照れた表情を隠す様子もなく、勢いよく掛け布団を剥いで押し入ってきた。外気の冷たさが流れ込んできたと思えば、他の人肌とともに密閉される。
 突然のことに身を引いた佳菜へ、理沙はすかさず掴まえて抱きしめた。佳菜は肌の温度が馴染む様を感じながら、驚きの醒めた腕をそろりと理沙の背にまわす。
 理沙が、こんな強い抱擁をしてきたのははじめてだ。
「たまんないよ」
 ポツリと耳許でこぼれた、理沙の一言を拾う。
「ん?」
 閉じていた目を薄く開けると、目の前に理沙の嬉しそうな顔があった。照れていたと思っていた表情は、どうやら嬉しくて仕方がないという表情だったようだ。
「ううん、なんでもないんだ。ほんと、」
 独り言で意味はないと理沙からちいさく伝えられ、佳菜は眠るための暗闇を引き込んだ。その外では、佳菜の髪をなでるやさしい指が続いている。
「カナ、眠ろう。おやすみ」
 理沙のくすぐったい声に、佳菜は柔らかな意識の中で頬を緩ませた。
 そして、理沙が傍に来るまで、夢を見ていたことを思い出す。『夢』という現象に興味はない。しかし、次に夢が見れるのだとすれば、こうした感じがいいのかもしれない。そう少しだけ、佳菜は思った。



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