* 独白(或いは私室)【第4話】 *


 キリスト教をとても愛していた人だというのに、終焉の先は菊に飾られた白塗りの木棺だというのは、皮肉としか言いようがない。


 私は、目の前に横たわる現実を眺めていた。
 洗礼を受けて、信仰を続ければいい。姉には何度もすすめてきた。それにも関わらず、彼女は最後まで拒否した。なりたくてもなれない状況があるかのように、戸惑った表情をして黙り込んだ。
 迎えた事実は、戒名を与えられ、仏教の下で永久の眠りを保証されるだけだ。
 花に囲まれた式がはじまるまで、私は長いこと棺の中を見つめていた。姉は穏やかに眠っているようだった。本当にただ寝ているだけのような死に顔を直視して、私は涙をこぼすことも悲しみに暮れることもできなかった。
 ただ単に、驚くだけだ。
 なぜ、大きな木のうつわに姉が入れられて、周囲の人たちが泣いて、お経を唱えるお坊さんがいて、……そして、私はこの状況をどう受け入れるべきなのだろう、と、一人で呆然としているのか。
 心が宙に浮かんでいるような感覚にとらわれていた。滑稽だ、と、もう一人の自分が何度もつぶやいている。
 姉は、冬の朝に逝った。
 一昨日のことだった。高校を経由して、私のところへ連絡が届けられた。それから、どうやって救急病院へ駆けつけたのか記憶がない。私は鞄を抱えて駆け出していた。タクシーを呼ぶという先生の配慮をもっと冷静に聞いていれば、もっともっと早く病院へたどり着けたのかもしれない。
 だが、一報を聞いたときはすでに、姉はこの世の人ではなくなっていた。
 両親から聞いた姉の死因は、交通事故による即死だった。
 死の直前、家に沿う二車線の車道を歩いているところを、通行人が目撃していたという。彼女は死の間際まで遊歩道の上をきちんと歩いていたのだそうだ。
 精神的におかしな部分を持つ姉だったが、一人で出かけること自体は家族も姉自身も慣れていることだった。彼女が一人で外出することは、特別危険なことではなかったのだ。
 しかし、私たちは忘れていた。彼女は精神をきたしてから、いろいろな概念が欠落してしまっている。  死、というものにたいしても、姉は恐怖感を持っていなかったのかもしれない。私たちは常識に囚われて、こうした推測をしてこなかったのだ。
 姉は、自分を犠牲にして人より儚い命を助けた。その引き替えに、彼女は車にはねられた。
 幼い野良猫の命を助けるため、自らの命を差し出したというのも愚かな話だ。しかし、私には「姉らしい」としか、感じられなかった。あの人は自分の理念を貫いたのだ。そう思えるからこそ、悲しみを抱かないのかもしれない。
「真琴、」
 母親の声に、ハッと気がついて私は顔を上げた。
 通夜は終わっていた。ごく内輪の式に訪れた親戚は少なく、両親も急なことに、無理をしなくてもいい、と、いろんな人へ向けて電話越しに制していた。喫茶店は一週間臨時休業となり、その間にできるだけ物事が終えられるよう、両親は手早く葬儀の手配を行なった。私は横たえられた姉の姿を見るばかりだった。
「大丈夫?」
 喪服を着た母の声が嗄れている。彼女の顔を見上げれば、目が赤く化粧がはげている。私は頷いた。
 自分がどういう表情でいるのかさえ、わからなかった。言葉がでてこない。涙すら浮かんでこなかった。
 これがどういうことなのか、うまく咀嚼できないのだ。
「詩帆ちゃん、なんだか寝ているみたいね」
 母の言葉に私は俯いた。そこで姉が眠っているのでなければ、彼女に模した精巧な人形だ。そうとしか思えない。棺の中は沈黙がおさまっていた。
 鼻をすする音がする。母親がまた泣き出したのだろう。
 しかし、私にはひとつの疑問が芽生えていた。
 両親の泣く表情には、かすかな安堵が含まれているようにも見えたのだ。
 気のせいだと思っていた。しかし、その疑念は拭えない。通夜の終始、頭の中でちいさなシグナルのようにゆらゆらとちらついていた。
 娘が苦しまずに逝ったことを良かれと思ったのか。長女は両親の中で、長い間大きな負担となっていたせいか。姉らしく亡くなったとでも思っているのか。
 それとも、もっと他になにか秘めたことがあったのか。
 どれをとっても、両親が考えていることを良いように取れなかった。私は最早、ただ一人残された娘なのだ。この人たちは、いまだに離婚話があった事実を次女の私に話していなかった。姉が受け止めるよう押しつけられたものを、今度は独り残ってしまった私が見なければならないのかもしれない。
 私たち家族は、どうなるのだろう。
 漠然とした不安を抱えて、また私から離れていく母親の背中を見た。
 きれいにあつらえられた葬儀室の退室時刻は、サービスの行き届いた式場の配慮から制限されていない。今夜は交代で両親が死んだ姉に寄り添うこととなっていた。私は明くる早朝から姉のそばにいるつもりだ。翌日には、彼女の身体が骨と灰になる。


 実感がない。

 このフォルムが火に焼かれてなくなるということが信じられない。しかし、それが現実なのだ。ならば、せめて姉の姿を焼き付けたくて立ち上がった。
 私は木棺を覗き込む。木蓋はまだ閉められておらず、白装束を着た姉が瞼を伏せていた。
 かけがえのない愛しいひとを亡くした。それを、私は素直に悲しむことができない。
 触れば体温があるように思えて、首許に指をあわせた。
 抜け殻だった。どの部分を触っても、生きていないことは明確だった。組まれた両手に、そっと手を重ねる。青白くなってしまった身体に、私の体温が届けばいいのに。目を閉じて願った。
 無理な話だった。
 悲しみよりも虚しさが襲った。
 人は、こんなにもあっけなく死んでいくのだ。
 一昨日の私は、このひとがこんな簡単に死ぬものだと思っていなかった。私たちの世界は、もっと長く続くものだと思っていた。
 世界は、あまりにも脆い。
 私は瞼を開いた。手を離し、触れていた部分を見つめた。彼女に熱が通う気配はなかった。
 右手首の奥に、茶色い線が隠れているのが目についた。
 すべてが白いうつわに、汚れでもついたのだろうか、と、私は姉の手首に触れる。内側が、妙にざらついていた。
 嫌な予感がした。
 固く組まれた手の袖を、そっとめくった。生気のない白い腕が現れた。
 私は、生前の姉が一貫して長袖を着ていたことを思い出した。もとより姉は半袖を着ない人だったが、高校の制服を通さなくなった頃から、長袖しか身につけていない。私はそれを、極度の寒がりで冬を苦手としていたせいだと思っていた。母親も姉自身も、そのように言っていたのだ。
 詩帆姉さんは、小学生のときから極度の寒がりなのだ、と、私の頭の中で幼い頃からインプットされていた。
 だから、はじめて目にしたものに愕然とした。
 彼女の右腕にあったのは、おびただしい傷跡だった。姉は左利きだった。彼女にとっての利き手も確認したが、跡はない。ひきつれた右の傷跡は、刃物で裂かれた古い傷だ。
 私の知らない傷だった。あまりにもひどい跡を目にして、息をすることも忘れてしまった。
 薄く真白の腕の皮膚が、傷に負けてボコボコと醜くうねっている。ここまで執拗な姉の傷跡を、私は見たことがなかった。手で口を覆う。吐くようにむせて、私は息を吹き返した。
 自傷の痕だ。間違いなく自傷の痕だった。
 母親が、姉の手に届く範囲に刃物を置くな、と、禁じた理由は、これだったのだ。私はずっと、姉が脚を刺そうとする癖があったからだと思いこんでいた。
 彼女が昔、ハサミの両刃でふくらはぎの皮膚を切ったのを見たことがあるせいだ。血に溢れ、中の肉が見えた状態に当時の私はひどく驚いたが、姉は「この中身が気になって、見てみたかった」と、平然とした顔で言っていた。疑問を解消したかっただけで自傷行為ではない、と、私はそれで思いこんでしまったのだ。
 姉に自傷という観念がないのだと、勝手に決めつけていた。
 私は、自分のために、そう信じていたのだ。
 

 姉は、本気で死にたいと思ったことが、あるのだろうか。

 ふと、その疑問が頭に浮かんで血の気が引いた。ない、とは言い切れなかった。
 しかし、自傷行為をする人は、死ぬためにするのではない、と、本で読んだことがある。本気で死にたいのであれば、もっと確実な方法を使うはずだ。
「真琴」
 母親の声に、私は慌てて姉の袖を戻した。そして焦ってした自分の行為をあざ笑いたくなった。
 私たちは家族なのだ。なぜ姉さんも、おかあさんもおとうさんも、それぞれに秘密を持って同じ家に暮らしているのだろう。
 私は他に、彼らのなにを知らないのだというのだろうか。私がどこかでこの家の中で疎外感を抱えていた理由は、きっとそこにあるはずだ。
 歩いてきた母親へ、その疑問を今ぶつけなければならないような気がした。私は振り返る。
「真琴、話があるの」
 部屋に戻ってきた彼女は、とても神妙な顔をしていた。母親の先ほどの泣き顔からは考えられないほど固い表情に、意気込んでいたはずの私は、途端になにも言うことができなくなって息を詰める。
「おうちに帰ってから、いいかしら」
 有無を言わさない口調に、娘の私は頷くことしかできなかった。



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