* 独白(或いは私室)【第6話・最終話】 *


 三階にはいくつも扉があった。私は迷わず一番奥のドアノブに手をかけた。ラベンダーのにおいは、姉が好きなもののひとつだ。母は彼女の気が落ち着くよう、かならず姉に彼女の好きな香りを持たせた。白を基調にした部屋の本棚には、ドライフラワーが逆さになって飾られている。
 まだ生きていた頃の香りが残る、詩帆の部屋に私は立っていた。部屋主を失った室内をよく見ようと目元を拭っても、涙で視界がぼやけた。
 幼いときから、悲しいことがあると、決まってここへ行き着いた。姉は泣く私を許してくれた。大丈夫だと頭を撫でて慰めてくれた。彼女は正気を失うようになってからも、私を静かに受け入れた。この部屋で、私だけを受け入れてくれた。
 部屋に残るのは、残骸だ。姉の使っていたベッドに近寄って膝を折る。私は整えられた掛け布団をかき集めた。抱きしめて息を吸う。姉のにおいがした。
 温もりも優しさも、後は記憶の中に埋もれ、二度と触れることはできない。そして、時が経てば影もかたちもなくなるのだ。ベッドに乗り上げてうずくまった。私は布団を抱えて泣いた。
 ただ一人、私を認めてくれたひとだった。
 まっすぐに私を見つめてくれるひとだった。誰よりも肉親として、人として愛していた。
 しかし、姉と生きていた世界はこれで終わるのだ。


 人は死んでも、心の中で生き続けると言う。
 けれど、それはきれいごとだ。
 私は姉に生きてほしかった。
 ずっと、ずっと生きていてほしかった。


 胸が引き裂かれそうになるほど痛かった。いっそ、引き裂かれるまま私もここで潰えたかった。これからのことなど考えたくもなかった。それでも、考えなければならない。たくさん考えなければいけないことがあった。
 明日、姉が出棺する。それが、私をこの世に引き留める最後の砦となっていた。
 ……何時間経ったのか。かすかな雨音が聞こえていた。
 私は布団に顔を埋め、深い呼吸繰り返しながら、その音に耳を澄ませていた。長い間泣いたせいで頭が重い。しかし、眠りたくなかった。徹夜のまま姉の葬儀に向かいたくなかったが、眠って気づいたら朝になっているという事実に立ち会いたくなかった。このまま夜が明けてほしかった。
 明日はどうか晴れてほしい。姉に晴天を見せたい。
 ドアを叩く音が聞こえた。了解を得ず開かれる。私は顔を上げた。
 先刻、言い合いをした相手が居た。母親は久しぶりにこの部屋を訪れたはずだ。姉は、両親を自室に入れることを拒んでいたからだ。
 言葉を発しない娘のそばに立ち、ベッドを見下ろした。母親の目元は腫れ上がり、瞳は真っ赤に充血している。その顔のまま、無理してほほえんでいた。
 先ほどのことはなにも言わず、腰をかがめて手のひらを差し出した。ちいさな鍵が乗っていた。
「詩帆ちゃんにね、時が来たら渡してって言われていたの。どんな時かは、怖くて聞けなかったけど、……今、渡すべきだと思ったから」
 そう言った母の声は気丈だった。早くから覚悟をしていたのだろう。私はその鍵を受け取った。指で触れたそれには見覚えがあった。
 離れていこうとする母親を引き留めた。
「お、かあさん、」
 声がうまく出せない。振り返る彼女に、私は唾を飲み込んで情けなく笑いかけた。
 どうあろうと、この人は私の母親だった。
「返事、少し待ってて」
 母の顔が少しゆがむ。にじむ涙を抑えている表情で頷いた。
「お父さんと交代して、詩帆ちゃんのところに行ってくるね」
 そう返した母親は、でていく間際に言葉を落とした。

 詩帆ちゃんは、真琴を一番大切にしていたからね。

 私は彼女の私室で、一つの小さな宝石箱を見つけ出した。
 今にして見れば、ずいぶんチープなものに見える。鍵付きの宝石箱は、私が小学校五年生のときに詩帆姉さんの誕生日プレゼントとして贈ったものだ。三千円もしなかった。塞ぎがちだった彼女を元気づけようと、母親からもらっていた小遣いを貯めて買った。当時は高価な買い物だった。
 鍵穴に裸の鍵を通す。ゆっくり回転させれば、カチリ、と、音が鳴った。
 紅色の蓋を開けば、花柄のハンカチがおさめられていた。なにかを包んでいるようだ。取り出して中を見る。
 ちいさなにび色の鍵が、折り畳まれた一枚の紙とともに添えられていた。この鍵は見たことのないかたちをしていた。私は紙を開いた。姉の直筆で、本の所在位置が書かれていた。
 久しぶりに見た姉の字体は美しかった。事務的な言葉が載っている紙と鍵を大切に扱いながら、私はベッドからフローリングの床へ脚を下ろした。指示通り、本棚へ向かう。
 姉の部屋にある本棚は、キリスト教にまつわる本と絵本のみで構成されていた。その中で、一番下段の中央に、他とは違う装丁の厚い本を見つける。引き出せば、それが革でできていて、ふつうの本でないことがわかった。本のかたちを模しているだけだ。
 書物のかたちをした、鍵付きの入れ物だった。手元に持ってちいさく振れば、その表紙で内部のものがカタカタと動く。
 私はただならぬ予感がして、その場に座り込む。細くちいさい鍵を手早く穴に差し込んだ。厚みのある本のかたちは、長い間閉じられていたせいか、空気に抵抗しながらゆっくり開く。
 その中には、片面をきつく綴じ文庫型に装丁された白い本があった。カバーのない本をよく見れば、文房具店で見たことのある、文庫版の厚いメモ帳だ。
 姉の字で、英語のタイトルが付けられていた。その名を読む前に、私は最初のページをめくる。
 白紙だった。
 めくってもめくっても白紙が現れる。
 それは、姉のためらいのようにみえた。鍵をかけ大切に保管されている品に、なにも書かれていないわけがない。
 私は少し怖くなった。姉は私になにを見せたくて、この鍵を渡したのか。
 数十回近く紙をめくり、文字の透けるページが目に留まった。芽生えた恐怖を押し退けて、私はその一枚を白日に晒した。


  あからさまに責めるのは、
  ひそかに愛するのにまさる
  憎む者が口づけしてもてなすよりは、
  愛する者が傷つけるほうが真実である
                箴言 27章 5,6


 明らかに聖書からの引用と取れる言葉が、姉の字で書かれてあった。私は心の中で復唱して、一息吐いた。文字のあるページは続いていた。
 めくった紙は、真琴へ、というくだりではじまった。
 彼女の遺書とも取れる言葉が溢れていた。姉は自分がこの世からいないことを前提にして、文庫のかたちを模した手紙を私に残していたのだ。
 悲しまないでほしい、どうか未来を生きてほしい、苦労かけたことを謝る言葉ばかりが記されていた。正気を失っていた姉らしくない文章の書き方だった。この本は、姉がおかしくなってから書かれたものであるはずなのに、内容はあまりにも理性的すぎた。
 言葉を読み砕くごとに、別種の恐怖が私の脳裏を襲っていた。気のせいだと思いたかった。


 もし自分がいなくなれば、この世界は崩れてしまうでしょう。
 それを守り続けるのか、すべて新しくはじめるかは、他でもない真琴自身が決めることです。  きっと貴方なら、わたしのような方法ではなく、もっと良い方法で幸せになれると信じています。
 わたしの、自慢の妹だもの。


 そう続けられた後のページを、私は読むことができず閉ざした。そのページに透けて写る次の見開きは、黒いペンで塗りつぶされた跡が続いていたのだ。
 最後に読んだ部分には、大きなためらいの行間があった。


 わたしは、本当は、


 そう書かれ、次のページへ続いていた。
 続く言葉が容易に予想できた。


 わたしは、本当は、狂っていなかった。
 わたしは、本当は、いなければよかった。


 本当に姉が書こうとした言葉は、わからない。知りたいとも思わなかった。
 この本の存在を、私は認めたくなかったのだ。しかし、目の前に在った。私は読んでしまった。姉は、私にこの本を託したのだ。それは紛れもない真実だった。
 私は姉の本を閉じた手で、顔を覆った。
 姉さんは、たった一つだけ誤算をしていた。
 それは、遺された者の痛みを計算していなかったことだ。
 私にとって、彼女が狂っていようがいなかろうが関係なかった。彼女はただただ、私の姉だった。どんなかたちであれ、私の大切な姉だったのだ。
 他に方法はなかったのか。もっと早く知っていれば、私の力で彼女を救えたのではないか。過ぎた話に答えを求めても無駄だった。
 姉は後数時間経てば灰になる。独りで本当に逝ってしまう。
 私はもう、この世界には居られない。
 指の隙間から、姉の遺した文庫のタイトルが見えた。サンクチュム。口にして、聞きなれない言葉だったが、おそらく『聖域』を意味する。
 彼女が頑なに守り続けた聖域は、空虚な残骸となった。
 私たちはもう、留まることが許されなかった。



 季節は何度も循環する。桜が咲く前は、きまって姉のことを思い出した。冬が終わろうとするときは、私の胸が悲しさで軋む。
 姉が亡くなって、三年経った。今は桜の花びらさえ失い、どの幹も若葉に満ちている。
 あのできごとがなければ、私達家族は前に進むことも、後ろを振り返ることさえできず、ちいさな世界に埋もれていたことだろう。
 姉と最後に過ごした葬式の日は、すべてを知った私が棺桶にすがっていた。もうとうに無くなっていた彼女の聖域を、それでも失いたくないと号泣した。
 周囲は、姉を失った妹を見て、嗚咽を詰まらせた。
 しかし、そんな単純な悲しみではなかった。私のこの世で一番大切にしていたものがなくなったのだ。どんな世界でもかまわない、生きていてほしかった。
 本当に姉は私にとってかけがえのないひとだったのだ。
 姉さんは自分を壊してまでも、この家庭というちいさな世界を壊したくなかった。狂ったようなこの世界への依存心が、彼女を追い詰めた。私は、彼女の脆弱さを否定できなかった。姉の弱さを支えるほどの力も、当時の私にはなかった。
 あの後、私は両親に、姉は本当に正気を失っていたのか、と、何度もしつこく訊いた。彼女のかかっていた病院へも訪れて医者に問いただした。
 皆総じて、答えはイエスだった。正気かどうかは、本人の自覚と異なる部分で判定されるものだ。遺された私は、遺された者たちの言葉を信じることにした。
 姉が私に最期に伝えたことは、自分で道を選んでほしいということだ。彼女はどこかで、自らの選択した方法に深い罪悪を感じていたのかもしれない。いろんな感情に飲み込まれて、姉はもがいていたのだ。
 ……それでも、生前の彼女にとって、私たちと生きた日々が幸せであったと思いたい。
 今はすべてが変わった。そう、妹である私は断言できる。
 私は親の離婚を賛成した。親権の問題はあったが、私はなるべくどっちつかずのまま自活していきたいと訴えた。
 三人で暮らせないのならば、私がどちらを選んでも意味はない。私は両親のどちらにつくほうがいいのか、選びたくもなかった。両親に優劣をつけたくなかったのだ。両親は選択を放棄した私の代わりに、それらの点を丁重に処理してくれた。私はその書類に承諾した。
 私の願いはかなって、大学に通う今は、三人バラバラの生活を送っている。これで本当によかったと思えるのは、私だけではないだろう。
 これが、私の選んだ道だった。
 ときおり、詩帆姉さんが命を賭けて守っていた世界が猛烈に恋しくなるときがある。そのときはいつも、母親に引き渡された喫茶店へ足を運ぶ。
 改札口をすぎて、高校時代に通い慣れた駅を降りた。姉が生きていたときに毎日通った道を歩く。
 ほら、ガラス張りの店がすぐに見えてくる。
 一瞬ガラスが反射した向こう側に、姉がほほえんでいるような気がする。そこに行けば、昔通り彼女が立っている。
 その切ない錯覚を何度も味わいながら、彼女の守っていた世界を垣間見るように、私は透明な扉を開ける。
 足元に柔らかな感触がした。
「……シホリ」
 名を呼んで、すがる黒猫を優しく抱き上げた。アルバイト店員とともに、キッチンカウンターで動いていた母が、それに気づいて手を一瞬休めた。
 今は、ちゃんと私の目を見てくれる。
「おかえり」
 ここに、もう私が住むことはないだろう。
 それでもいい。
 それだけが、家族のかたちではないのだ。
「ただいま」
 私は母の言葉に、そう返してほほえんだ。



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