* 優美 *


 住宅地と畑に囲まれた総合病院で、遊衣の祖母が手術を受けた。
 心臓の肥大とかなんとかでそれなりに時間のかかる手術らしく、早朝から娘たちにあたる遊衣の母とその妹が付きっきりで待ちぼうけていた。患者が高齢ということもあり、手術のリスクは低いものの予定時間はオーバーした。高校生の遊衣は、母から電話で集中治療室に祖母が移動した旨を聞くと、義叔父に車を出してもらって病院を訪れた。
 四国の夏の日差しはとても強い。遊衣のいる高松は特に乾燥しやすい気候で、風が通れば多少涼しくなる。今は関東に住んでいる遊衣だが、小学生までは四国に住んでいた。母方の祖父母は元々香川の人間で、遊衣が永く住んでいたのは愛媛の松山だ。四国から出た者からすれば、出て何年も経つと県と言うより地域のくくりでも懐かしく感じる。愛媛と香川は遊衣にとっては双方ともホームといえた。
 関東に引っ越してからはじめて四国の地に帰省した、四日目。母親が祖母の計画的な入院と手術の世話のため、実家に滞在するというので遊衣もそれに便乗した。大阪で大学生をしている兄も手術日の翌々日にこちらへ来るという。車の中で遊衣はメールを送った。兄はメール無精なので、返信は夜くらいになるだろう。
「おねえちゃん、それみして」
 隣で座っていた従妹の帆澄が、ちいさな手を携帯電話へ伸ばしていた。携帯電話の液晶が気になったようだ。帆澄はまだ四つの子どもだが、借りたものをめちゃくちゃに操作をする子ではない。昨日会ったときも、携帯電話を見たいと言って触らせていたが、待ち受け画面をじっと見つめていたくらいだ。なにか押したいときは、「ここ、おしてええの?」と、ちゃんと伺ってくれる。
「いいよ」
 遊衣はバッグに入れず、帆澄に手渡した。窓を眺めると家々に重ねて青々とした小麦畑が広がる。たまにちょっとした山みたいな丘みたいな森がある。ざっくりと讃岐平野の風景が味わえる。毎年渇水の不安が拭えないが、この夏は有難いことに断水の心配がないらしい。
 今日は珍しく朝から叔母の家に待機していた。昼は近所のうどん屋さん。帆澄が大好物のおでんも食べた。母親たちから連絡がないと病院に向かえない約束になっているのは、隣で眺めているツインテールの女の子が起因していた。帆澄が騒ぐから病院に行かせたくない……というわけではない。
 今回のことで遊衣も知ったが、叔母夫婦は一人娘の帆澄の扱いを慎重にしている面があった。  それというのも、彼女は生まれたときから目に見えないものと遊ぶ癖があるようなのだ。しかも現在進行中で、どうやら叔母いわく「帆澄には霊感がある」ということだった。叔母は霊感云々というより、見えないものと当たり前のように遊んでいる娘の姿が嫌らしい。
 確かに普通ではない。しかし、お宮参りから初詣まで、行こうものなら半分の確率で原因不明の悪寒と高熱を出して倒れる帆澄に何度も遭遇して、叔母もわが娘に霊感か何か特別おかしいところがあると信じるようになったようだ。今では叔母によって、寺社へ行くことはたとえどんなにちいさいところでも禁止されている。帆澄ママからすれば、寺社の前すら通らせたくないらしい。
 そして、叔母が次に帆澄を向かわせたくない場所が病院だった。特に霊安室がありそうな大型の病院は、なるべくかからないようにしているらしい。もうひとつは先祖代々の墓であるが、夫婦共々土地を持った家系なので、幸いにも片方は住居の敷地内に墓があり、もう片方(つまり遊衣の母方)も寺以外のところにお墓が設置されていて一応墓参りはできている。
 娘に備わってしまった霊感について、母親である紗江は歳の離れた姉の綾子に長々と愚痴っていた。霊感なんてあっても何ひとつ良いことはない。小学校に上がったらいじめられるかもしれない。本人は自分の感覚があたりまえだと思っていて、注意すると喧嘩になる。この間、とうとうママ以外にそういう話をしないでちょうだい、と泣いて頼んでしまったという。母親に泣かれたせいで、帆澄は最近おとなしくなっているらしい。
 叔母の話を母親と聞いていた遊衣は、霊感とかそういうものにたいして拒絶感はなかった。遊衣の友達にもその傾向が強い子はいる。本人たちが見えているというのだから、きっとそうなんだろうし、正夢の話も後で不思議にピタリと当ててくるのだ。本人は特別な能力だとは思っていないし、いくらか普通のひとより勘が長けているのだけなのだろう。ただ、叔母が心配しているように、ひとにうす気味悪がられたりいじめのようなものを受けるのは否定できない。遊衣の友達も、やはり霊感的なもののせいで他のクラスメイトから避けられている節があった。
 車は三十分かけて総合病院に着いた。駐車場から三人で降りて正面玄関を通る。帆澄の父はおおらかな性格だ。見えたら見えたでそのときはそのとき、という考えらしく、受付に話をした後は躊躇いなく娘を集中治療室の階まで連れて行く。遊衣は従妹のお守り役だった。返してもらった携帯電話はちゃんと電源をオフにして、バッグの中に戻している。
「遊衣ちゃん。帆澄と、ここらで待っとってくれん?」
 帆澄の父親に言われて遊衣は頷いた。幼い帆澄は、遊衣と手をつないできょろきょろと首を動かしている。彼女の父は、扉を開いてきた看護士と話しはじめた。
「ほずみちゃん。……なにか見えてる?」
 帆澄はまるで聞こえていないような素振りだ。妙に落ち着きのなく頭と身体を動かす彼女に、遊衣も異変を感じた。  父親が看護士と一緒に中へ入る。閉じようとするドアを凝視しはじめていた帆澄が、閉じた瞬間に「あっ」とちいさく声を発して、顔を横に向ける。何かが廊下の向こう側へ行こうとしているのを追いかける目の動作だ。遊衣がつられて見ても、そこにはなにもない。
 帆澄の手が離れた。見ていた方向に駆けていく。  電光の灯った長い廊下の中央で、幼い少女は立ち止まる。反響しやすい空間に、帆澄の会話がこだまする。しかし声がちいさく高すぎて聞き取れない。
 遊衣は、はじめて帆澄の問題行動の現場に遭遇して困ってしまった。叔母のために、「ほずみちゃん、よくないよ」と引っ張ったほうがいいのか。
「ほんま?」
 明るく幼い声が響いた。帆澄の表情も明るくなっている。頭を頷かせるタイミングは相づちそのものだ。しかし、彼女の周りにかたちを成す生き物はいない。見えないものと明らかに話が弾んでいる様子は遊衣を戸惑わせたが、やはりこのままではよくないと帆澄のそばに行こうとした。
 すると、ドアが開いて大人三人が出てきた。手前にいる遊衣よりも、奥の廊下で突っ立っている帆澄に三人ともまず気が向いた。特に叔母の表情は驚愕そのものだった。
「ほ、帆澄!」
 叫びに似た呼び声を背中に感じた帆澄は、母親の姿を振り返って笑顔になった。すぐ向きなおって、バイバイと何もない空間へ朗らかに手を振って四人のところへ駆けてくる。
「あなた、またなにと話してたの!」
「うん。ゆうみちゃん」
 さも当たり前のように、人名のような単語を口にした。さすがに、遊衣も生々しさを感じて背筋が冷たくなる。
「ほずみとおんなじくらいなんかなあ。こんくらいの、かみしとって」
 帆澄が両手で鎖骨あたりに線をつくる。髪の長さだろう。容姿の説明から、帆澄と同じような年齢でセミロングの女の子なのだろう。
 遊衣は叔母がヒステリーを起こさないか不安になって、彼女を見た。しかし、当の紗江は絶句したままだ。
「ゆうみ……?」
 その声に、遊衣は自身の母を見た。すると帆澄の補足がはいった。
「ほずみのばあちゃんの子どもやって、いいよった」
 遊衣はハッとして、母姉妹を見直した。帆澄の父親も、ピンときたようだが黙っている。姉妹は真剣に顔を見合わせていた。二人の仲でひとつの憶測が一致したのだろう。
「紗江。ゆうみって、まさか、あの、優美なんじゃない?」
「優美……優美って! 帆澄、優美を見よったの? 優美を!」
 綾子のふるえる声に、紗江が帆澄に問いかける。それは、母が子に向ける表情というよりは、より尊い者を試すような目の動きだった。娘は気にせず、ありのままを伝えた。
「うん。おかあさんはだいじょうぶやって。おおきくなったあやこおねえちゃんとさえちゃんにゆっといて、だって。……ママとあやこおばさんとちがう?」
 帆澄の確認に応えず、姉妹は突然泣き出した。綾子の娘の遊衣と紗江の夫は、理由に気づくと言葉も出せなかった。
 この姉妹にとっての『優美』という単語。  過去に遊衣は、母親の古いアルバムで見せてもらったことがあった。  綾子・優美・紗江の三姉妹と集中治療室にいる彼女たちの母が写る一枚の写真から、遊衣は自分にもう一人『優美』という叔母がいたことを知ったのだ。優美は五歳のときに流行り病で亡くなった。紗江のほうは生まれて間もなかったから覚えていないようだが、綾子はかわいがっていた妹を失ったことが本当にショックで、数日間学校に行けなかったと話してくれた。優美は快活でおしゃべりな子だったという。
 泣いている母親の脚に、帆澄が駆け込んでくっつく。紗江は涙を拭いて腰をかがめると、娘を抱きしめた。ごめんなさい、と紗江は謝った。それは帆澄だけに向けた声ではない。
「優美って名前聞いて、一瞬でもおかあさんを連れて行ってしまうのかって……思ってしまって。そんなお姉さんではなかったんよね、優美ねえさんは」
 代わりに帆澄が頷いた。何度も頷く。
「優美は、まだここらへんにおるの?」
 ハンカチで頬を押さえる綾子の声に、帆澄が顔を上げた。
「ついててくれる? って頼んでくれる? おかあさんも病院にいる間は、さみしいだろうから」
「うん。ゆうみちゃんはおかあさんにとうぶんついとるって……ほずみも、あしたここにきていい?」
 彼女の返す言葉に、紗江は現実に戻ったのか心配顔になる。しかし、旦那から「いいんじゃないか。見たとしても身内だろう」という擁護がはいって、明日も訪れることになった。実際に手術後の容態は安定しているようで、問題がなければ明後日までには一般病棟に移れるらしい。
 遊衣は、母親と手をつなぐ帆澄を見ながら、彼女にそういう力があってもいいのではないかと思った。彼女のおかげで、こうして一同の胸には純粋に手術が成功したという想いとともに、優美がいるという安心感が無意識に生まれたのだ。
「ねえ、明日病院行く前に、みんなでお墓参りに行かない?」
 受付前の広いロビーで綾子が提案する。優美のお骨がおさめられた墓は近所にある。誰も異議を唱えなかった。帆澄に「優美に食べたいもの聞いてくれる?」と重ねて訊けば、彼女は大人びた表情で「ええよ」と笑った。



... back