* みつばち *


 母のあしらえた庭は、二十畳ほどの広さがある。昆虫たちの楽園であった。その敷地の半分は、完璧主義の父のもと日曜大工で木製のテラスに替えられている。庭にはティータイムができるように専用の簡易テーブルとチェアが用意され、必要なときに必要なアイテムでもって季節折々の庭を味わえるようにつくられていた。年に一度か二度はバーベキューパーティーが行なわれた。十数年前から庭の用途は変わらない。
 私の父と母は双方とも道楽を上手に愛すことで価値観を一致させ、居心地の良いところをつくる努力を惜しまないひとたちだった。その点では融通の利かなさや持ち前の強固な価値観に二人の子どもたちが振り回されることもあったが、そのぶん享受されたものも多い。
 この庭は、春がとりわけて素晴らしかった。低木をふたつ育て、その周辺でパンジー、クレマチス、デイジー、蘇芳、牡丹、名前も覚えきれないほど多くの花々が咲き誇る。それらが素晴らしいと思うのは、純粋に美しいから、というよりも、私の天敵である蚊がまだ大発生しないからであった。外で日光浴とともに読書をしていても、後で痒みに苦しむことはない。初夏以降になると、一時間も庭にいれば十箇所以上も蚊にずっぷり刺されて、無残な女の皮膚を露呈することになるのだ。
 四月下旬は、そんな憎き蚊たちがまだ現れない。窓越しではなくじかに庭を堪能できる素晴らしい一時だ。それを逃すことなく、今年最後の寒波が離れた翌日に私は庭へ出た。アンティーク調の重いテーブルを設置して、椅子も用意する。そして読書に選んだ一等好きな本と(『鏡子の家』というやつだ)、友人から好意でいただいた紅茶をポットに淹れて持ち込んだ。
 正午を大きく過ぎた太陽と植物と空気と、可能なかぎり五感で得られるように私は椅子にもたれて本を開いた。厚い小説の半分を占める第一部を昨夜読み終え、今日は終いまでページをめくるつもりである。読み進めてから、私は思い出したようにポットを手に取った。ちいさなカップへ紅茶を注ぐ。花と草と土のにおいが庭には満ちていて、飲み物の匂いは鼻を近づけなければわからない。
 太陽の手前で雲が横切るのを背中越しに感じる。日光はたちまち弱くなる。この甘い一人きりの時間は思ったよりも短いものかもしれない。私は活字をなぞることに没頭した。頭の中で登場人物が動きまわる。しかし、嗅覚と触覚は鮮やかに土と植物と日差しの在処はここだと教えていた。私の中と外で相反する世界を上手に咀嚼しながら、やがて聞き覚えのある音に聴覚が鋭く反応した。
 私は活字から視線を上げた。耳からわずかな危険を察知した。動く羽の音を探すまでもない。それは近づく。蜂だ。花々が咲き誇れば必然的にやってくるミツバチだった。
 一匹の彼はなぜか花たちの傍には興味がないようだった。私を見つけた途端、私のまわりをぐるぐると視察するようにまわりはじめた。私はミツバチが嫌いではない。ただ、刺されるのは辛い。蚊とはまた違った不安な面持ちで本を離して彼を見つめた。
 言葉が通じるのならば、花はあちらだよ、と、教えてあげたい。しかし人間の理性や視覚より、ミツバチの本能のほうが正しくあり自然の摂理にかなっている。ならば、なぜ私の周りをうろうろするのか。低空飛行で足元に近づき引き返していくミツバチに身を硬くして考えた。喉が渇いたように感じて、そっとティーカップを手にとって口許へ近づけた。
 途端に、私はハッとした。ミツバチを探す。
 まだ彼は、何かを求めるようにうろついている。
 花ではなく、一等強い甘いにおいがミツバチを惑わしているのだ。だがそれに、彼のほしい実体はない。
 私が見つけたのは紅茶から発される香りだった。友人がくれたフレーバーティーには上品なストロベリーの匂いがまぶされていた。それが香料だとしても、高価な茶葉なのか香りは本物のイチゴに近い。
 この庭に、イチゴは植えられていない。けれど、ミツバチは探しているのかもしれない。彼らの嗅覚は正確だ。自然の道理にかなっている。それをゆがませることができるのは、人間くらいしかいないのだ。それに気づいて、私は少し申し訳ないような気持ちになった。だが、それと等しくミツバチが愛しくなった。敵意を持たせないよう、じっと見つめることにした。
 ようやくミツバチもここにイチゴがないとわかったのか、何度かテーブルの下を往復した末、そっと離れていった。
 彼と私の想いが、同じかどうかわからない。ただのミツバチと言ってしまえば、それまでだ。彼は何も考えず私の周りをまわっていたのかもしれなかった。それでも、私はその健気な身を好んだ。
 想いが同じであればいいと思った。
 視線をテーブルに戻せば、読みかけの小説が置かれている。ミツバチは花と花にそれぞれの関係を結び付けていく。私にとって花は間違いなく書物だ。だから、また手に取った。
 そして、ページを開く。黒い班入った大理石の炉棚のそばで、彼らは話しているところだった。



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