* 夜事。 *


 年末年始にこれほどまで雪が降るのは珍しい、という地元の人たちの言葉を聞きながら愛子はここ数日の雪かきを手伝った。雪の降らない地域に住む愛子には疎ましいというより神秘的にも思える白い重みは、地上に蓄積するとわが身を守るようにカチンカチンに凍っていく。この地の夜はまるで冷蔵庫だ。年末に降った雪もまだ解けていない。
 雪は雨以上に人の行動を振り回す。珍しく続いた雪は、一気に降り積もる大雪ほどの混乱を起こすことはなかったが、愛子が芽衣紗の家に訪れた翌日は列車ダイヤは乱れていた。正月から三が日は晴れたが、三日の夜から朝にかけてまた積もる雪があって、曇りの中、愛子は年末のときと同じように雪をかく道具を手にしたのだ。芽衣紗は愛子に連れられて渋々家の前に出て親と同じように手伝っていた。その様子を母がひやかしまじりに褒めた。
 ようやく、明日は全国的に晴れる。明日は愛子が沖縄へ帰る日だ。彼女にとって、雪の風景は見納めだった。それが切なくて、日中は雪かきを手伝ったあとは、芽衣紗を連れて白がより美しい土地を求めて歩いた。手にしているスマートフォンで足跡を撮った。キツネのような足跡も発見して、芽衣紗とどんな動物か想像しながらその跡を追った。冬眠している生き物も多いのだろう。動物も植物も寒さに耐えるために静かな眠りについているのだ。沖縄では花の多くが冬や春に咲く。夏は日光が強すぎて生物がやけどをしてしまうわけだ。寒くてもダメ、暑すぎてもダメ。ほどよいくらいが、一番いいよね、という結論に二人は至った。
 最後の夜も強い風の音がする。ときどきこの土地で響く音を少し名残惜しく聴きながら、愛子はパジャマ姿でおおきめのダンボール箱と持参したバッグに向かっていた。土産は全部ダンボールへ、洋服も使わないものはダンボールへ、少し持ってきた勉強道具はダンボールじゃないほうへ。バッグに入れるものは行きと違って少ない。郵送できるものは詰め込めるだけ詰め込むのだ。
 暖房の効いた芽衣紗の部屋には日本地図があった。これ以上おさめるものはあったかな。そう思いながら、愛子は壁に貼られた地図を見上げた。沖縄とココ。とても距離があった。芽衣紗は毎日この地図を見ながら、沖縄へ想いをはせているのだろうか。また強い風が吹く。愛子はこの土地の空気にわずかな潮のにおいもしないことを改めて感じていた。雪は真水だ。海水は雪にならない。
 ドアが開く音がした。愛子は彼女を見るために振り返った。
「準備終わったの?」
「うん、朝もちょっと確認するけどさあ。このダンボールの、送ってって朝おばちゃんに言えばいい?」
「いいよ。お母さんがするから置いたままでもいいって。愛子が行ってから送るって言ってたよ」
「わかった。もう寝る?」
「うーん、おかあさんには寝なさいって言われたけど。明日早いから」
 芽衣紗のトーンがわずかに落ちたように聴こえた。愛子の滞在は明朝に終わる。今日は二人とも、次はまた夏、とは約束しがたい状況にあった。今年の四月で中学三年生になるからだ。翌年の高校受験が否応なしに控えている。
「そうしよっか」
 なんて応えながら、愛子はもう一度日本地図を見た。
 今年の夏休みは芽衣紗が沖縄に来られないかもしれない。でも、次の年末年始になれば、受験直前の愛子はもっとここへ来られないかもしれない。会いたいと思わなければ会えないくらい、遠い距離だ。同じ日本なのに、車も電車も使えないくらい海を隔てた遠い距離だ。
 芽衣紗は愛子の視線の上を行く。歩いてきた彼女は、日本地図の前に立った。
「ねえ愛子、見て」
 彼女は沖縄本島を手のひらで閉じ込めた。ぺったりとくっついた左手の中指の爪先に、今度は右手首の縁をあわせる。飛距離を伸ばすように彼女の右指が動いた。芽衣紗は地図上でこの地を容易に見つけて人差し指で印を結んだ。
「こうすると、けっこう近いよね」
 その言葉に愛子は立ち上がった。同じことをしてみようと、芽衣紗が手を離した場所に手のひらを重ねる。愛子の手のちいささでは、この県に到達するのはギリギリだった。でも、ちゃんと届いている。その横を芽衣紗の右指がトコトコと二足歩行で渡って行く。二人は顔を見合わせて笑った。
「愛子って、なんか沖縄の海、うしろに見える感じだよね」
 布団のうえに座りこんだ、芽衣紗が言った。
「なにそれ?」
「漫画とかで、バックに花しょったりしてるコマとか、あるじゃんか。そんな感じであのエメラルドグリーンしょってるみたいな」
 雰囲気で言われても、ピンと来ない。自分が沖縄育ちだから連想されるイメージなのだろうか。それならば、自分も芽衣紗にたいして感じていると口を開けた。
「あたしも、メイちゃんのこと雪の妖精みたいに見えるけど、そんな感じ?」
「ええっ、なにそれー」
 愛子のもつ芽衣紗のイメージに、彼女は照れるように声をあげた。
「だってそう見えるもん。肌の色白いし」
 芽衣紗は色白で、沖縄の日光ですぐむけてしまう柔らかい素肌をもっている。愛子は彼女が海で泳ぐときに日焼けの面で苦労していることを知っていた。真夏の快晴に、芽衣紗は七分丈になりそうなくらいおおきなTシャツを水着の上から着て、わざわざエメラルドグリーンの海を泳ぐのだ。
「そうかなあ。わたしは、愛子の小麦色のほうが羨ましいけどね」
 照れたように芽衣紗が応えながら、パジャマを脱ぐ仕草をはじめる。寝る合図だ。芽衣紗には、汗をかくからと寝るときはパジャマを脱いで半袖Tシャツになる習慣があった。夏はカップつきのキャミソールを着て寝ているから、芽衣紗の脱ぎ癖は冬限定のものだろう。脱ぐ行為は前回の冬にこの地へ滞在したときも見ていたはずだが、……今回もあたりまえのようにパジャマを脱ぐ初日、愛子だけが驚いていた。
 去年より芽衣紗の胸がだいぶ発達していたのだ。昔はお風呂から着替えまで全部一緒だったが、初潮がはじまる前から互いなくとなく肌を見せないようになっていた。Tシャツ越しのたっぷりした乳房を目の当たりにして、愛子は芽衣紗の裸体を意識するようになった。
 実際、数日前に温泉で裸になった彼女を不審に思われない程度に凝視したくらいだ。その発育のよさに、愛子は自分の身体と真剣に比べてしまった。自分の胸は薄い。まだまだ薄い。今後の発育について不安になったが、互いの母親同士は姉妹でどちらもそれなりにバストはある。成長の時間はまだまだあるはずだ。そうポジティヴに考え直した。
 芽衣紗は張りのある二対の乳房を愛子へ無意識に披露しながら、今宵を終えようとしていた。愛子は豊満なドキドキと妙な人恋しさにかられていた。芽衣紗と、次はいつ会えるだろう。今回の滞在で彼女は、一度も「この夏も行くよ」という台詞を口にしていなかったのだ。
 高校生になればまた確実に会えるのだろうが、そのときに自分たちはどんなふうに変わっているのだろうか。少しは大人になるのだろうか。何が変わって、何が変わらず残っているだろう。芽衣紗は、胸のおおきい雪の妖精だ。大人の女性に近づいている。雪のように決してとどまらず姿を変える。
「ねえ、メイちゃん」
「なに? 暖房もう消すよ」
「ちょっと、お願いがあるんだけど」
「なに? 電気も消していい?」
 愛子の言葉に芽衣紗が暖房を切りながら訊き返す。
「その、おっぱい」
 部屋に響いた単語に、芽衣紗が驚いて愛子を見た。
「えっ? ……触るの!?」
 表情を見て、愛子がしたいことがわかったらしい。声を裏返らせて聞いてきた芽衣紗へ、慎重に頷いた。
「うーん、ダメ?」
「えー、えー、ちょっとなら……いいけど……電気消していい?」
「いいよ」
 暗闇になる。戸惑うように動かない芽衣紗が拒否をせず止まっている。愛子は近くにいる彼女を探した。目をこらすより、手を伸ばしたほうがいい。あたったところには、予想していた丸みがあった。両手でつかむ。愛子の広げた手におさまった。
「まっ、ちょっ、痛い、愛子」
 その声で、彼女がまた明確になった。
「痛かった?」
「痛いよ、強くつかまれると。ほら」
 薄く見え出した彼女の手が、愛子の胸元に当たる。両手で触られてドキッとした。
「あ。も、メイちゃん、まって、くすぐったい」
 手を離した愛子に、芽衣紗は薄く笑ったようだ。
「寒くなるから、寝よう」
 彼女が自分のベッドに行こうとするところを、愛子は引き止めた。
「今日はメイちゃんもここじゃダメ?」
「……ここの布団で? いいけど」
 芽衣紗はすんなり承諾して愛子のかけ布団をめくった。昔はよく一緒の布団で寝たものだ。それを思い出したのか、芽衣紗の動きは自然だ。愛子はその横を滑り込んだ。そのついでに、芽衣紗の胸にタッチする。
「えっち」
 愛子のいたずらをからかうように言う。
「でも、今のは痛くなかったよね」
「うん」と、彼女は応えた。愛子はぬくもりを補うように、芽衣紗へ身を寄せる。彼女の乳房は母親のように柔らかい感じはしない。しなやかで白く綺麗だ。もう一度、両手でそっと触れる。包むように撫でる。芽衣紗の腕が愛子の胴にまわって、ぎゅっと抱きしめられる。雪にはにおいがない。芽衣紗のように甘いにおいはしない。
 この乳房も、身体も、芽衣紗の全部が自分のものになればいいのに。愛子ははじめて、そう思った。
「また、来てね」
 芽衣紗が切ないような声でささやいた。次を約束することができない。でもまた一年半経てば、高校生になったらきっとまたお互い行き来できるようになる。けれど、そんなやり取りはいつまで続けられるかわからない。  結局のところ、未来に保証はないのだ。
「メイちゃん、好きだよ」
 約束はできないから、今は想ったことだけを素直に言葉にした。芽衣紗は、ふふ、と笑って「私も」と言った。
「同じ夢が見れるといいよね。夢のなかでメイちゃんと」
「うん。くっついてたら、同じ夢、見れるかも」
 笑顔のまま愛子は目を閉じる。翌朝、ひとつの布団で眠る二人を芽衣紗の母親に微笑ましく見つけられた。



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