* ENDROLL *


 かなしいほど、わかっているんだよ。
 這わせる手とか崖っぷちの冷静さで込めた吐息とか、そんなささいなことですら自分たちを苦しめる行為にしかならないということ。背徳が恍惚感を呼ぶのは、はじめのうちだった。三年も続けば絶望と懇願を繰り返した。
「ね……え、待って」
 甘く咎めるような声は、ユウキにも確実に届く。孤独を不安がる子どものように、後ろから抱き竦めた手で上着の中の肌を探っていた。ヒカリの制止はいつも言葉だけだ。肉体は脆い。首すじに埋められたくちびるを見つけようとする瞳は、何か言いたそうにしていたが、とうとう諦めてユウキの塞ぐ指を舌で受け止めた。
 どうせ言葉は何の効力をもたない。
 彼女との逢瀬を重ねて、ユウキは思い知っていた。
 どの単語もフレーズも、所詮完全な答えになってはくれないのだ。直肌に滑る官能はどれも正直だった。幾度と交わした行為はこの瞬間にも快楽を反芻させ、じっとりと熱をもつ。
 ヒカリの温度をこの身体で覚えてしまった。ヒカリの肌のぬくもりをただひたすら恋しいと思ってしまった。それが、どれだけ今と未来を苦しめる結果になっているのか、……ユウキは沈黙を譲らず、彼女の持つ残酷な肢体に痕を残す。
「ねえ、ほんとに、」
 自分の身体のように知り尽くしている彼女の左手は、そっとユウキの胸元に触れ、もう片手は支える腕をあやすように掴んで滑る。
 左の薬指にしがみついた細い銀の輪。 現実を直視するような愚かな間。息をつめたように吐いた。身体同士はこんなにも一緒にいたいと訴えているのに、でも、それだけでは自由にはなれない。
「最後よ」
 彼女の紡いだのは最早言葉ではない。呪文だ。何も失いたくないがための呪詛だ。ユウキはこの数時間のために手を重ねて頷いた。これが悲劇だとしても、どうしようもなく求めていた。いつもその呪文を待っている自分と、言わせている自分を罪深さに胸が痛む。手の内で裸体を晒す彼女はどういう想いで受け入れているのだろう。
 互いのために犠牲を払ったくちびるに、ゆっくり自らのくちびるを縫い合わす。ユウキはそのまま口づけに没頭できるように想いを倒していく。 その中で、当たり前のように外される左指のリング。
 現実を繋ぐものが指からこぼれ落ちたら、楽園へおちる合図だった。一番の負い目を隠すと、躊躇うヒカリは失われ、枷を外したように満たされたいと肉体を広げてくれる。その瞬間がユウキは猛烈に好きだった。
 知り尽くした匂い、脈動、薄い皮膚と膜。理性を易々と吹き飛ばす甘く艶めいた声。乱れた呼吸をする、その喉元に蜜の気配がして舌の表面を押し当てる。一度手が、この肌に吸いついてしまったら、とめられない。もう半年も触っていない身体。もう忘れることができたと思っていた。でも、いつも結局は振り出しに戻っていた。
 逃げ切れないのはおそらく自分だけなのだろう。ヒカリは銀の枷をはめると、目つきが変わる。だから今の瞳を貪るように見つめるのだ。彼女の眼球を舌で舐めたこともある。舐められたこともある。それは涙よりもより複雑な味がした。
 二人で見つけた最後のプロセスを紡ぐために愛撫を繰り返す。どこかの哲学者が言っていた。『愛撫は、愛する者がただの他者であることを思い知らしめる焦燥そのもの』。そうかもしれない、と、ヒカリの肌に触れるたびに思う。ひとつになりたい。ひとつになれない。こんなに焦がれているのに、ヒカリは決して自分のものにはならない。
 当たり前のように下肢を広げてゆくヒカリの震える腰に口づけて、その足首をつかむ。余計な現実を押しのけて此処で唯一必要なものを繋ぐ瞬間。ユウキはそれが重い未来に更に重量を与えるのだと知っていても、至福だと思う。
 その一方でこれが最後だと決意するたびに、いっそこのままヒカリをぶっ壊してしまいたいという衝動に駆られる。感情のまま快楽のまますべてを手中で閉じてしまって、そして自分も消えてしまう。きっと最上の幸福と地獄に浸れるだろう。ヒカリを失うくらいなら、それくらい赦されるはずだ。そう何度も思っても理性が許さない。
 愚かな芽生えを完全に振り切らせる涙が滑る。ユウキはそれを見て目を覚ますのだ。深呼吸で自分を迎え入れるときに必ず落とすヒカリの涙。普段ではあり得ないくらいの切ない表情でこぼすこの涙が生理的なものではないことを、もう学習してしまっていた。ヒカリ自身は、ユウキが気づいていると未だ知らずに躊躇いもなく零しているのかもしれない。
 それだけ、此処は灼熱だった。互いの関係はすべてを苦しめ、それでいてこの快感は誰からも得られないくらいいとしすぎた。だから、この瞬間に強く誓うのだ。不規則に伝う涙をそっと掬い、これで最後にしようと決意しながら身体を動かすのだ。
 重なった瞳の潤みは、体内にいる自分の質量に耐えるように吐息を漏らして、ユウキに何か言おうとして、腕を強く引いた。言葉はなかった。無理な体勢に屈むと、彼女は表情を歪ませて自分から口づけた。息が儚い。ヒカリは余裕なく微かな大気を貪る。ユウキはとめずに這わせる。それが何かの誤魔化しでも、ヒカリが求めてくれたかたちを残し続けかった。
 息のつまる関係が途絶える。身体同士は、精神とは別個の存在になって、ただ最高の歓喜の味を得る方法を知っている。身体が動けば未来も今もいらなかった。
 ユウキが他愛なく願える立場ならば、もうヒカリ以外の何もいらなかった。

 なぜ、こんなに愛し合っていても、あなたと結ばれることができないのだろう?

 静寂と吐息のつめたい質感は、現実という苦々しい世界をまた一層に染めてゆこうとする。それがあまり虚しくて、ユウキはヒカリを抱き締めた。許される限りの時間を惜しみながら、呪文のように呟く。気を緩めば泣きそうな感情を制す。
「……本当に、最後にしよう」
 背後からそっと受けた悲痛な重みに、ヒカリは身じろぎしなかった。言われる前から、とうにわかっているのだ。もう何度もそうだった。
 容赦ない睡魔は日常を思い起こさせる。ヒカリは、このまま寝てしまえば、次に目覚めたときは完全に現実を取り戻しているだろう、と思った。目を覚ますときはいつもどおり、此処で独りきりだ。
 だから、この身体を抱き竦む手をそっと絡めた。夢と混同して解けてしまうまで、このぬくもりは自分のもの。たとえそれが罪だろうがすべてを苦しめようが、この若い男の身体を刻みつけておきたい。その想いに何の穢れがあるのだろうか。
 ヒカリはただただユウキが愛しいのだ。ただただ、出逢うのがあまりに遅すぎたのだ。背けていても成り立つくらいの感情なら良かった。
 もう、ここまで来て限界が見えている。
「本当に、」
 最後まで言わなくても、ユウキは「うん」と頷いた。瞳を閉じたヒカリの首もとに、ユウキは痕を残すことなくキスを送る。痕はすでに心奥へかなしいほど刻まれている。報われないと知るほど、深く深く心を血まみれにせんとナイフがえぐる。
 暗闇の中でユウキの手が離れ、今度は事務的にヒカリの左手を取った。その意図を知っていた。だから、ヒカリは目を閉じた。
 現実への片道切符。そして、また何もなかったかのように仕事場で接して、笑い合って、言葉を繋いで。すべては終わることがなく、少しづつ戻れないはじまりが待っていることさえも気づいていても、誤魔化しきれるかぎりは共犯の呪文で何もかも曖昧にしてしまえばいい。二人の想いも、お互い知らない振りを演じ続ける。
 本当にこれが最後になるだろうか。また互い、現実の中で懇願しながら絶望するのだ。前に進んでも地獄だ。断ち切っても胸が裂かれて死んでしまうかもしれない。ヒカリの耳元に、ユウキがくちびるを寄せる。何も紡がれない言葉。心の中で言っているのかもしれない。ああ、想っている「言葉」が私と同じであればいい。
 彼女は最後まで目を閉じていた。リングはゆっくり填められ、そして、ヒカリからユウキの手が離れた。



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