* ほしの挿話 *


 短冊に願い事を書いて飾る季節も終わってしまった。
 広がる夜空に揺らぐ風はぬるく、星の瞬きは頼りない。月がやたら明るいせいもあるだろう。梅雨前線のせいで、肝心の織姫も彦星も肝心の七月七日には見られなかった。
 綾芽は行儀が悪いことを承知しつつ、窓の縁に白い足をかけた。自室の窓を開けたせいで、終始冷房のかかっている部屋もぬるい湿気で夏らしい。立派な二階建ての広い日本家屋で、紺色の瓦屋根は少し急だ。窓の外側は、人が落ちないように木枠の板が横から二本生えていたが、綾芽がこの家に住むようになってすぐ、この板が簡単に取りはずせることを学んだ。今は風情のために木枠はなくしてあって、窓から外へ出入りが自由になっている。無論、ここから侵入する不届き者はいないし、瓦屋根の傾斜は少し急なのだ。気軽に窓外へ出ると瓦で足を滑らせて地面まで真っ逆さまに落ちるだろう。打ち所が悪かったら死んでしまう。
 綾芽はいつものように、用心しながら窓の縁に腰かけた。片手はかならず縁をつかんで離さない。危ないのはわかっていても、この体勢になって家の敷地を眺めるのがとても好きだった。空と緑の感じ方が、鳥に近くなるからかもしれない。
 いつ眺めても、澁谷家は広い面積をもつお屋敷だった。綾芽は元々ここの家の子どもではなかった。だから、この景色は当たり前のようで当たり前ではなく、十年経っても眺め飽きない。
 綾芽の姓は、森藤といった。森藤綾芽が澁谷家に事情があって引き取られたのは七歳のとき、はじめて見る大人たちにドキドキしたけれど、兄も一緒だったから怖くはなかった。九歳離れた兄の森藤雅士は今、この母屋ではなく隣の別邸に住んでいる。この位置から左斜め下に見える離れの家だ。身寄りのない二人を引き取ってくれた澁谷家の長である澁谷幸四郎の、有能な秘書のような執事みたいなことをしていて、綾芽はなるべく日に一度、そちらへ顔を出している。
 ……深夜二時なら、おじいちゃまも兄さんも眠っている。というか、皆寝ているはずだ。
 だから、安心して瓦に裸の足裏をつけた。これが日中や夕食後なら、親代わりのおばさまに見つかってキャーキャーと叱られる。
 左側にある離れの別邸は、ここの母屋のように過剰な盛り土をされていないから二階建てでも高さがないように見えるが、実際は一般住宅とおなじくらいの広さがあった。あちらはリビングなどを抜いて3部屋。母屋は個室だけでも7部屋ある。単純に母屋と外壁に囲まれたこの敷地が広すぎるのだ。
 澁谷家は昔からこの地域で一番の大地主だったという。その名残がこの土地の広さであり、今も潤沢な財政を保っていることは、無条件で赤の他人であるはずの綾芽と雅士を引き取ったことからも伺える。
 幸四郎の独断で引き取られたことは知っていたが、そのわりに綾芽は澁谷家の住人からとことんかわいがられていた。分家の親戚方からも明るくてかわいい子だと気に入られている。一方、兄のほうは少し疎まれていると気づいていたから、なるべく明るく楽しくをモットーにして皆と接することにしていた。それが窮屈だと綾芽は思っていない。もともとそれが本性だったからだ。
 ……いくら考えたって、しょうがないものもあるよね。
 織姫と彦星が見られなかったのもしょうがない。今年がダメでも来年がある。どうしても七夕の日にその二つの恒星が見たかったのであれば、晴れている場所を日本中で探して行けばいいだけの話だ。日本中が曇りなら、外国に出ればいい。義理の姉といえる存在の澁谷茜は今アメリカの大学にステイしている。
 中高と澁谷家の計らいで海外へホームステイさせてもらったことのある綾芽からすれば、そういう発想も困難ではなかった。七歳から澁谷家の住人として対等に扱われているのだから、すっかりこの家の考えに染まっている。
 ……それが、いいことなのか、わからないんだけど。
 足をブラブラさせながら、透明な静けさに葉を揺らす敷地の全貌を眺める。外塀の内側にそびえるいくつもの木が、この屋敷に重厚感を与えている。一ヶ所だけ桜の木だ。春はこの地域で一番に桜の蕾を綻ばせる。今年も美しく咲いていた。
 別邸があるところは家が建つ前、日本庭園があったそうだ。今は別邸の部分に温室がくっついてあって、年中洋モノの花が咲いている。おじいちゃまが建築士に頼んでつくらせたそうだ。綾芽は別邸に温室が食い込む斬新なつくりを気に入っていた。
 代々ここ家人は植物が好きだったのだろう。敷地全体が豊かな緑に包まれていた。綾芽が暮らすようになって、花の類も増えたらしい。蜜を求める虫たちや小休憩に訪れる小鳥も多く、まるで秘密の花園のようだ。
 綾芽はこの家に引き取られたときから、この幸福を眺めるのが好きだった。夜中一人で澁谷家のつくる小宇宙を眺める。その日々を送る中で、こうした小さな秩序は自分だけでなくたくさんの人を豊かにするのではないかと、自分以外の人たちのことを思うようになっていた。澁谷家のような個人住宅を量産するのは不可能に近いが、公共施設や保育園や別邸のような温室があるのは素敵だ。植物と人間の住居の在り方。それをもっと学問として学んで、かたちにしたい。
 ……おじいちゃまの用意した短冊には、書かなかった。けれど、兄にもおじさまやおばさまにも幾度となく話して、綾芽の好きなようにすればいいと言われている。おじいちゃまも、きっとわかってくれるはず。
 左隣の窓が開く音がした。隣の部屋か生まれるかすかな振動へ応えるように、綾芽は窓縁に両手をかけて、少しだけ上半身を前に出す。顔を左隣の部屋へ向けた。
 開けられた窓から、綾芽の動きにあわせたように同い年の男子がひょっこり顔を出す。
「まだ綾芽、寝ないの?」
 柔らかい話し方と裏腹に、彼はすぐに脚を伸ばして綾芽と同じように瓦へ足をつけた。
「うん。実幸は? なんかしてた?」
「友達から借りたままだった漫画、読み忘れてて今まで読んでた。これで終業式前に返せるよ」
 そう言って、大きなあくびをする。綾芽は彼を見てフフッと笑った。
 実幸は澁谷家の末息子で、綾芽より誕生日が遅いこともあり、絵に描いたような少しゆったりした弟キャラだった。血は繋がっていないが双子のような姉弟のような関係で、昔はよくテスト勉強も一緒にしていた。今は実幸が文系クラス、綾芽が理系クラスを選択したせいで、同じ私立高にいても接点が少ない。でも、家に帰ると実兄よりもよく会って話す。
 窓際で屋敷の全貌を眺める綾芽の癖を、いち早く気づいたのは実幸だ。はじめは、亡き実父とどこにいるのかわからない実母のことを想ってたそがれているのかと心配された。彼はおそらく、一番この家でやさしい性格をしている。
「綾芽は? テストの点がまずかったとか?」
 少しからかうような言い方だ。ハーフパンツから出された脚が、綾芽と同じようにブラブラと揺れる。
「そんなまずくなかったもーん。それは、実幸じゃない?」
「おれは、今回は思ったよりできてたもーん。そろそろ大学のこと考えなきゃだろ。ヘンな点取ったら塾に送り込まれるよ」
 綾芽の真似をしながら答える。良家の子らしく、のんびりしたところはあるが、押さえるべきところはきっちり押さえているようだ。澁谷家の子息として、ある程度のレベルの大学は行かなければならないという認識はあるらしい。
「そうだよね。それで、どうするの実幸は?」
「なにが?」
「大学」
 二人きりで静かに話せる深夜の機会だから、こうして訊いてみる。姉の茜よりも甘い顔立ちで、中学時代まではときどき女子に間違えられた彼だが、高校になってから男らしさが出た。それでも、百七十センチにようやく到達したと子どものように大喜びしていたのをこの間見たばかりだ。
「それ、そっくりそのまま綾芽に返すよ」
 少し大人びた視線で言う実幸が、綾芽には少しかわいく思える。血縁もなく、養子縁組をしているわけではないから、好きあっていれば恋愛できる仲だ。しかし、綾芽には同い年の二卵性双生児くらいの感情しかない。ただ、実幸の前では、素直でいようと思う。
 お互い高校二年生だ。家風的にも進路は早々定まりはじめている。綾芽はこの家に加護を受けながら、一番自由も得られる贅沢な身の上だった。親代わりである実幸の父母に言われている。特権を最大限に活用しても、それを私たちが厭うことはない、と。それが彼らの本心であることは、末息子の実幸の育ちの良さを見ればわかる。
「わたしね、行きたい学部があるんだ」
「うん、なんかそんなこと言ってたね」
「それね、東京にあるんだ」
「東京じゃなきゃ学べないってやつ?」
「そう。わたしと兄さんとお父さんは、もともと東京に住んでて、それでいろいろあってここに引き取られてきたわけだし……東京はまっさらはじめての土地じゃないじゃん。それもあって、大学を東京にするのもいいなって、でも、」
 そうすることで、この澁谷家という小宇宙の秩序が失われてしまうのではないかと少し不安になる。親代わりのおばさまは、綾芽のことがとても好きで似合いそうなワンピースをいつもデパートで探してプレゼントしてくれる。おじいちゃまは綾芽の描く絵が好きで、専用のバインダーまでこさえている。企業の社長をしているおじさまも理解力のあるひとだ。やさしい実幸も実兄も残して、自分ひとりこの家から離れるのは、本当に申し訳ないような気がする。
 もし志望するところへ行くことになれば、金銭面はなるべく負担にならないよう奨学金などを活用したいとも思う。上京するとなると、考えることは山盛りだ。
「でもって、なんだよ」
 実幸は少しムッとするように言った。
「やりたいことが決まってるなら、それをすべきだよ。綾芽なら、できるだろ。お母さんとかになんか言われた?」
「ううん。綾芽ちゃんは好きにしなさいって」
「なら、好きにすべきだよ。たぶん金銭面もうちならどうにかなるって、おじいちゃんは綾芽のこと大好きなんだから」
「うーん。そうだけど……実幸はどうするの?」
「おれ? そうだなあ、残ると思うよ。うん、ここの国立大行く」
「今、決めたよね?」
「んー、おれのことはいいよ。……おれは綾芽の味方だから。好きなことしとけよ」
 そう言って、彼は左隣の別邸を見る。味方だから、という言葉は綾芽だけのことをさしたわけではないと、綾芽にはすぐにわかる。森藤兄妹の味方だということだ。
 実幸は兄の雅士と今はほとんど接点がない。実幸は実の祖父であるおじいちゃまを苦手にしているから、別邸に行きたがらない。だが、雅士のことは、不思議と気にかけているようであった。ときどき、綾芽から「雅士さんは元気?」などと訊いてくる。
 彼が実の兄姉とも、綾芽とも違う、なんともいえない感情を雅士にだけもっているようなのは、中学のときから雅士の実妹として勘付いていた。同じ敷地でも、綾芽と澁谷幸四郎以外はほとんど接点を持たない兄という存在。
 雅士と実幸は、どこか性根が似ているのかもしれない。雅士は物静かで表情をあまり動かさないひとだが、とてもやさしい。言葉にも態度にも出さないが、彼なりに綾芽を全力で守ろうとしているのはよくわかる。
 大学もこの家から通う、と実幸が今決めて言った。それを疑ったり非難する立場に綾芽はいない。正直、どちらかはこの家に残ったほうがいいと思っていたのだ。そして、綾芽自身が行きたいところへ行くためには、実幸の協力が必要だった。……でも、それは自分にとって都合がよすぎるとも思う。
「気にするなよ。それに、まだゼンゼン先の、一年半以上後の話だろ」
 味方になってくれる実幸が、綾芽の感情を察するように念を押した。綾芽は頷く。同級の彼のやさしさと賢さに救われてきた。そして、これからも、そうなのかもしれない。ポジティヴな綾芽を取り戻して、すべて良いように受け取った。
 ……だから、そのぶんだけ私もこの家に明るさを持ち込みたい。
「ありがとう。まだ確定ではないけど、そうなったときはよろしくね」
「いいぜ。まかせとけよ」
 男前に振舞ったつもりだったようだが、ハーフパンツにキャラクターのTシャツを寝巻きにする実幸は、やはり綾芽にはまだまだ子どものよう見える。身長が伸びたとはしゃいだり好物を幸せそうに食べる実幸と重ねれば、余計おかしくなって笑ってしまった。
「なに笑ってんの」
「うふふ、」
 湿った緩い風が吹く。それは青い夏のにおいがする。裸足の二人はそれからも小声で、短い夜を窓辺に瞬かせた。



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