* 揺り籠はひとつ *


 静けさを保つ路地に曲がり、寝息とともにずり落ちてくる身体を背負い直して勇介は黙々と歩く。コイツはいつもいつも、と心の中でつぶやく。いつもいつも酒の席で、俺がいるときを見計らうように酔って寝落ちる。わざととしか思えない。
 とはいえ、先刻まで彼女の言いたい放題に散々付き合わされていた人間にしてみれば、いまやお荷物と化した彼女を背負うほうが、楽なことだった。まして痩せ過ぎた八重子の身体は容易い。
 コイツはいつもいつも、ひとを人力車みたいに使いやがって。
 そう愚痴っても無駄だ。八重子の奔放さは直らない。全体重をかけて眠っている幸せ者は、多分夢の中でも酔いに任せて身勝手に振る舞っているはずだ。どこまでも迷惑なヤツだと時折立ち止まって、勇介は体勢を整える。
 大体こうなること自体、はじめからわかっていたことだった。彼女が自分をサシで酒場に連れ出すのは、よほど酒を煽りたいときにかぎる。今回もアルコールの力を借りながら、勇介に自分のくどくどしい語りを聞いて欲しかったのだろう。その意図はわかるが、勇介にとって正直関わりたくもないできごとだ。どうせ散々好き放題した後、始末をつけるのは正気のままでいさせられた者しかいない。恰好の相手といわんばかりだということは、勇介自身もわかりきったことだった。
 だからこそ、最初は読み終わらない小説がどうのこうのと言い訳を受話器越しにつくっていたのだ。けれども、相手のしつこさに負けて渋々自宅を後にしてしまうとんだ悲劇。自分の勘が的中したのはいうまでもない。八重子はアルコールによって薄く赤らめた頬と憎めない笑顔で、嬉しそうに意気込んだまま延々と愚痴を喋り続けて、我が侭を言いまくって、最終的にうっとりとした睡魔に襲われた。お決まりのパターンである。全部酒のせいにできるなんて、羨ましい存在だ。
 眠りそうなギリギリのところで店を素早く出て、終電に近い地下鉄に滑り込んで……なんとか席に座れた直後にのしかかってきた身体が、この後のことをしっかり教えていた。
 ……しかも、意識朦朧のくせして、鍵だけはちゃっかり預けてるわけだからな。
 そうしてふと見つめた右手に収められているそれは、ついさっきまで彼女の手中にあった。力のない手で握られた鍵は勇介が早々に抜き取ったのだ。背中越しに感じる熱。その体温の熱さは子どものようだ。八重子は女の身体をしているのに、勇介はこれまで一度も雄的なものを駆り立てられたことがない。好みがどうこういうより、彼女をなにか特別な友愛をわけた同志として想っているからだろう。そこに肉欲も情愛もなかった。
 エントランスホールを抜け、エレベーターに乗り込む。真夜中はどこの住人も活動を慎んでいる。まるで、世界で二人きりのような錯覚すら覚える。身体に伝わる優しい鼓動。耳元にかかるかかからないかの微かな寝息。ささやかな風がアルコールの匂いを飛ばす。勇介は彼女の家の前で鍵を取り出した。
「八重子、着いたぞ」
 ……家の中へ入っても、彼女は虚ろなまま相当居心地の良かったらしい背中から、なかなか剥がれようとしなかった。仕方なく勇介は寝室まで彼女を連れて行き、精一杯の慎重さでベッドに身体を沈めて掛け布団をかけた。すっかり熟睡している様子を見て……コイツは、俺をオトコだと思ってないんだろうなあ、と、先ほど自分が八重子について想っていたことをそのまま心の中で問いかける。それは妙に寂しいが、妙に安堵感もある。もし八重子が男だったら、勇介が女だったら……同性同士であればもっとしっくりいく関係だったかもしれない。妙な気持ちにはならないのだろう。
 言葉にできない不思議な感情は、この室内にも浸透している。ここは彼女が親から譲り受けた家だ。勇介は仲間たちの中で最も古参だった。八重子とは私立中学校で知り合ってから長い間柄で、彼女が親と同居していたときからたびたびここへ遊びに来ていた。互い一人っ子で遠い親戚同士という偶然もあって、両家の親も親しくなっていたのだ。兄妹というには同級で出会いも遅かったが、それに近い感情があった。
 この部屋には、時間に囚われない安らぎとノスタルジーがあった。微かに灯していた明かりを消して、勇介は静かに彼女の眠る寝室を出た。この後はどうしようか、と時計を見やる。終電はとっくに終わっている。徒歩で帰宅しようと思えばできるが、いまから一時間も歩きたくはない。リビングのソファーを借りることにした。
 幾度となく繰り返されてきたことだ。八重子が望むかぎり、幾度となく。ソファーをベッド代わりにすることにも慣れた。このまま起きていても明日の仕事に響くだけだと照明を消して、自分もそれなりに一応床につく。様々なことを流れに任せて考えながら、カーテンから洩れる月の灯りを眩しく目を細めて見やり、そしてゆっくり目蓋を閉じた。


 出逢ったばかりの彼女が、夢の中にでてきた。制服を着た八重子は、なにか必死に話している。なんの話かわからない。でも、夢の中で聞いている自分はそれをよく知っているような気がした。ふと、コーヒー豆の産地について語っているのだと気づく。
 中学生がコーヒー豆? 当時の八重子はそういう話をしなかった。コーヒーよりも乗馬が好きな子で、勇介も珍しい共通の趣味に惹かれたのだ。遠い思い出の中に、置き去りとなってしまった共通項だ。
 目を覚ますと、朝の光に満ちていた。勇介は被っていたタオルケットを剥いで身を起こす。コーヒーの香りがした。
「ゆうちゃん、おはよー」
 キッチンのほうから八重子の声がする。二日酔いには縁遠そうな響きだ。
「おはよう」
 そう応えながら、彼女の顔を遠めで見る。
「今コーヒー淹れてるよ」
 元気そうな表情を見て、勇介は掛け時計を探した。時間には余裕があるようだ。朝七時。
「ミルク頼む」
「ラジャ。仕事、昼からだよね?」
「ああ、でも飲んだら帰るよ」
 タオルケットを畳んで、カーペットへ足の裏をつける。彼女がマグカップを二つ持ってきた。勇介が空けたソファースペースへ、当然のように腰を降ろす。服装は昨夜と同じ。彼女はブラックだ。受け取ったカフェオレに口をつける。慎重にならなくていい温度で、砂糖が入っている。甘さが染みる。うまい。
「ねーねー、今度さ。久しぶりに乗馬しに行かない?」
 隣で八重子が言い出した。勇介は夢の中のできことを思い出した。夢のシンクロでも起きたのか? それは問わずに、彼女を見る。
「……負ぶわれて、馬に乗ってる気分になったのか?」
「なにそれ。ゆうちゃん、今からお馬さんゴッコするの?」
「勘弁しろって。そうだな、久しぶりに……でも、道具ないけど」
「そんなの、現地で借りればいいんだよ。そしたら、いつにしようか」
 早速日程を合わせる会話が弾む。勇介は八重子に問われるまま答えた。来週の午前中に決まる。雨天なら、また翌週。その間に、カフェオレは空になる。勇介が立ち上がると、八重子は飲みかけのコーヒーを置いたまま見送る体となった。
「ゆうちゃん帰ったら、まずお風呂だー」
「いいよな。俺は地下鉄に乗るとこからだよ」
 勇介のちいさな非難を、八重子はアハハと軽く笑う。
「そうだね。……まあ、いつも、……いいや」
 スニーカーを履く勇介を見ながら、彼女はそんなふうにもにょもにょと言葉をもらす。向き直した勇介は、少し呆れた顔をした。
「礼いうの、止めるなよ」
「そういうと、よけい言いにくくなるんだよ」
「じゃあ、礼はいらねえよ」
 それに、ふふ、と笑う。出会った頃と変わらない笑い方だ。
「ま、これからも宜しくね。じゃ、気をつけて帰ってねー」
「ああ、またな」
 出て行く彼に名残惜しさを微塵をみせず、八重子は手を振った。玄関ドアが閉まるのを見るまでもなく、勇介も歩きだす。どうせまた近日中に会うだろうし、携帯電話があればいつでも連絡を取り合えるのだ。
 それに、二人は互いペースをあわせなくても、どこかでいつもかみ合う場面がでてくることを知っている。
 そうやって、もう一〇年以上ひとつの感情でつながっているのだ。きっと一生この調子で、八重子と関わっていくんだろうな、と、勇介は思いながらエントランスを出る。
 ……こんな感じで、一生そばにいるんだろう。



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