* Romantic *



 春の暖かさが増していた。木立の新緑や地に咲く花々は、昨日の景色をより鮮やかに変えていく。それは一方で、悩む男を置いてきぼりにして、自由を掴んでいくような心地を岡林にもたらしていた。
 いや、それでも、青を隠した花曇りの空があるか。
 交通手段を選ぶときに見上げた、煮え切らない空の色を岡林は思い出した。脆い東京の空でも、ここから何十キロ先の空の下には自分の育った土地があるわけだから、空の配色はそんなに大差はないのかもしれない。この間、友人が高尾山で流星群を見に行ったともいう。都会の空も捨てたものではないのではないか。
 ……それでも、高尾山の話を聞いたときに、岡林は真っ先に思い出したことがあった。
 東京の空も捨てたものではないかと思いながら、そんな言葉を否定するようにリフレインしていた寂しく紡がれた声だ。それは、何年も前のちいさな記憶だった。
 上京してきて一年すぎたくらいだったか。今よりも寒い季節、二人で歩いた都心の夜道、その白い息が何度も落ちていた。ひと時だけ一緒に住んでいた相手だ。あの夜の途中で、彼がつぶやいたのだ。
 星が足りない、と。
 あのときの、何か補えきれないことが苦しいような表情と、無防備な言葉がひどく哀しくて印象的だった。彼のそんな表情ははじめてで、自分はそのとき何か、気の利いたことを云おうと必死に返す言葉を考えていたのだろう。結局は的外れなことを云ってしまって、「なんだよそれ」と、結果的には笑んでくれた気がする。困ったような瞳は、そのままで。
 各々がよりよい位置にいようと、向上しよう、互いを補おうと思っていても、どこかで歯車が狂うときがある。そんなときの記憶だったのだろう。どれだけ悩んでも自分の力ではどうしようもないときがあるのだ。
 しかし、そう気づけたところで、易々と吹っ切れられないことも多い。彼自身、とうにわかっていて悩んでいたのだろう。だから安易な慰めなんていらなかっただろうし、そんなものを彼が欲しがっていたわけじゃない。
 ただ一言だけ、彼に云ったと気がする。
 そんなおまえを俺は嫌いじゃない、と。
 ものの考え方も違うし、性格も違うけども、人として好きだと言った覚えがある。
 そのとき彼は、どんな表情をしていただろう。
 一面に瞬く星があれば、心に巣食う重さはとれるのだろうか。
 それは、思い出すには遠すぎた記憶なのだろうか。


  *  *  *


 来月お披露目となる舞台の、稽古前の控え最中だ。雑誌を読みながら、バイブ振動が騒がしい携帯電話を、手探りでわし掴んでから岡林は気がついた。
 ジーパンのポケットに自分の携帯電話がある。ならば掴んでしまったコレはなんだと見覚えのない形状のボディを眺めていれば、その様子を見ていたらしい桜澤がていねいに答えてくれた。
「オカちゃん、それアサちゃんの忘れ物」
「……ああ、あいつのか」
 そういえば、そんなようなフォルムをしている気がする。その朝倉の所持物は、飼い主を待つ子犬のように途切れなく震えていた。そういやヤツはどこへ……と口開く前に、桜澤も気づいたのだろう。
「アサちゃん? 煙草きらしたって今さっきでかけてったけど」
 確かにバッグも残っているとなると、そんなところだろう。意図的に携帯電話を置いていったのかもしれないが、振動が途切れまた主張しはじめる健気なボディを放っておくのも悪い気がした。
「ちょっと、コンビニいってくる」
 とりあえず悩むなら動け。そんな風に、急かしさえする携帯電話を握り締めた。空いているポケットに財布を突っ込む。
「あ、いってらっしゃい」
 朝倉の携帯電話を岡林が掴んだ瞬間から、桜澤はそうなると予想していたのだろう。岡林が放棄した雑誌を自分のところに引き寄せた。
「なんかほしいもんある? 」
「うーん……じゃ、ミネラルウォーターおねがい」
 いってらっしゃいの声を背中でもう一度聞いて、岡林は外に出た。夕刻迫る時間帯のせいか、来たときよりも少しだけ寒い。右手には、まだ震え止まない携帯電話。
 まるで持ち主にそっくりだと、岡林は思った。


 煙草を買いに行く程度ならば、遠出はないだろう。いつものコンビニに決まっている……と思った通り、朝倉はコンビニ内の雑誌コーナーにいた。パラパラと品定めしているところに近づくと、すでに来ることはわかっていたように視線を向けた。
 窓越しから、姿が見えていたのだろう。
「なんかあった? 」
 呼び出しに来たとでも思われたらしい。「そうじゃねーけど」と返せば、朝倉は「なんだ」なにもないのかと目線を雑誌に戻そうとする。
「コレ、」
 そのままフェイドアウトするとでも思っていたのか。岡林の声にまた視線を戻してから、突き出されていた手に気づいて不思議そうな顔をした。岡林が手を開くとそれが何かすぐわかったようで、雑誌を置く。
「わざわざ? 」
 岡林の生真面目さに呆れるような声で、朝倉が携帯電話を受け取った。それが妙に癪にさわって「ブルブルうるさかったんだよ」と応える。朝倉がすぐ着信履歴を見て、バツ悪そうに操作しながら「ほんとだ」と呟いた。
 どうやら持っていかなかったことを、今更後悔しているようだ。それでも着信の相手に早々返事するつもりはないらしくジーパンのポケットに収めてなかったことにしてから、雑誌コーナーを離れた。岡林もなんとなしにそれを見届けて、桜澤に頼まれたものなどを揃えていく。
 レジに向かうと先に朝倉がいて、店員にほしい煙草の銘柄を指差していた。隣に買うものを転がすと、朝倉も気づいたようでちらりと視線を送ってくる。そして店員にもう一度、今度は別の煙草の銘柄を指示した。すぐに岡林のよく吸う煙草の銘柄が、ピアニッシモメンソールの上に乗せられる。あいかわらず抜けない、変な気の遣いまわしの傍にミネラルウォーターと、ガムにコーラと、ワンコイン。
「お金足んないんだけど」
 鈍い金色の500円玉が全財産だといわんばかりに、朝倉の買うものと岡林の買うものの間に鎮座している。朝倉の、岡林が残りの金額をだすのは当然だろうという表情に呆れたものの、結局なにもいうことはできず「これも一緒にお願いします」と、財布を取り出した。


 少し冷えた風の合間をぬって、朝倉が煙草に火をつけた。
 コンビニにいる時間が思った以上に長かったのだろう。一向にグレイの曖昧さから抜けない空が、それでも夜を導く気配を醸し出していた。夕陽はきっとこの雲の上の上にいるのだろう。
 けれど、今はどこまでも遠い。
 アスファルトを踏みしめながら、道はどこまで続くのだろう、と、岡林は思った。どれだけ、この歩いている道は続いてくれるのだろうか。
 そのためにはもっと、何か自分は変わらなければならないのだろうか。何か失っていかなければならないのだろうか。遠回りすることで見えてくることもあって、早く着くとこがすべてと思ってはいない。進むことで得るものも、確かにある。
 それでも、進むだけ、何かしら失っていくことにも……変わりはないのではないだろうか。
「なぁ、」
 携帯電話の時刻を見ていた朝倉へ、無意識に声をかけていた。くわえ煙草のまま、なんだ? というように岡林を見る。自分の中で消化する闇で終わるはずだったものを、表に出したがっていたことに、岡林自身気づいて我に返ったものの、呼びかけてしまったのだから仕方ないと重い口を開いた。
「どの道が一番長いんだろうな」
 時折、誰も裏切らずに望む生き方で円満な、……そんな道はどれなのだろうと考える。けれどその道に進むための条件として、失っていくものもあるのだろう。その先の長い道が、良い道だとも限らない。妥協の末かもしれない。でも、きっと妥協の末だけでは、長くは続かない。
 ならば……、そう、結局考えたところで、どうしようもない話なのだ。自分でもわかっている。答えのない感傷論だ。
 隣で、紫煙がのぼる。
「……どんなになっても、また拾い集めればいいんじゃん? 」
 前を向いたままの朝倉の一言に、岡林は数秒考えて首をかしげた。自分の言い回しも、何を示しているのかわからない言葉だっただろうが、これもこれでよくわからない。
「なんだよソレ」
 とりあえず筋が通ってねーよ、というニュアンスで呟く。
 そして、呟いて思い出した。
 それは、あのときに自分が送った言葉だ。
「昔、同じようなこといわれたんだよ。今のおまえみたいな気分のときに」
 淡々と、朝倉は応えて空を見上げた。あのときと同じ仕草で、雲の先の瞬きを見つけるように。
「……ヒロの、」
 息の白さは、あのときのような寒さのせいではない。煙草を吸いながら、ライトのついた外灯を見て視線を落とす。確かめる足元の影。細い首。喉仏がゆっくり上下する。
「そういうとこひっくるめて、おまえのこと、嫌いじゃないよ」
 そう言った朝倉は、岡林を見て微笑んだ。
 覚えてんだろ? そんときのことも全部。そんな言葉が聞こえた気がした。あのときよりも、強く穏やかになった瞳。
 あれは遠く過ぎた記憶だった。
 けれど、それは共有された記憶だったことに、岡林は今更ながら気がついた。朝倉はあの夜道のちいさな出来事を覚えていたのだ。自分と同じように。
 うぬぼれかもしれない。それでも、あのとき岡林自身がつなげた言葉は、朝倉の暗闇を引き裂いたのかもしれない。そんな効力をもってくれたとは、そのとき思いもしなかったけれど。
 長いこと忘れていた感情があった。自分ではどうしようもないと思ったとき、互いのかけた何気ない声と、救われた多くのもの。
 その度に、彼とともに描いてゆきたいと思ったのだ。その感覚をもう幾度となく体験した。そして今も、新鮮な気持ちで……以前より強い気持ちで思う。
 それはまるで、恋にも似ているのかもしれない。
 吸殻を取り出した携帯灰皿にねじ込んで、朝倉は軽く腕を伸ばした。一テンポ遅れた岡林に気づいてか一服に満足したのか、機嫌良さそうに呼ぶ。
 その響きに、岡林は今一度ちいさく誓う。
 声がかたちのないものならば、言葉が見えない光なら、変わらず傍にいよう。そしてまた、放たれる言葉の輝きが巡り、いつか自分のものになってくれればいい。彼を、そして多くの人を満たすものになればいい。

 それは違えることも、潰えることのない夢だ。
 それだけで、救われるのだ。