* みず遊び *



「なによ、もう! 寒い、寒すぎる、信じられない、」
 信じられない! と、多岐は何度も愚痴を繰り返した。冷たい夜風はびゅうびゅう体当たりしてきて我が身を縮こませる。山の麓の屋敷へ奉公に来て、最初の冬が訪れていた。遥か南の港町で育った多岐にとって、これまでに感じたことのない寒さとの戦いがすでにはじまっているのだ。雇われの身でありながら、あまりの寒さに起床が苦痛となっているのである。朝は誰かしらに蒲団を引き剥がされて起きることが定番となった。
 一番若く新米でありながら、慣れない寒さに毎度呻いている多岐の姿に、先輩女中たちは「今からこんなようで、雪降る頃はどうすんのさ」と、何度も呆れている。多岐の生まれ育った港町では冬でもこの寒さはないのだが……この土地ではあと一月もしないで雪が降るようになり、その頃は今よりも寒いのだ、と、彼女はさらなる恐怖を聞かされていた。多岐は雪を見たことがない。山に囲まれた街へ奉公に来て、雪の降る様を心待ちにしていたのであるが、今以上の極寒が伴うのならばナシだ。
 雪が降ったら、いっそ死ぬかもしれない。
 そう思えるくらい、文字通り背筋の凍る不安を一日一日と背負いつつ、多岐は木枯らしの吹く夜を歩いていた。
 今日は朝から屋敷の主である旦那様の具合が優れない。そのせいもあって、いつもは務めにない夜中の井戸汲みをはじめて任された。普段は日暮れ前に晩使うぶんを大瓶に溜め置いている。しかし、病人が出たことでいつもの蓄えでは足らなくなってしまいそうなのだ。多岐は持ち場から離れてすぐ、桶二杯分だけでもいいから、と、先輩女中に桶をふたつ渡されていた。
 井戸は少し遠く、裏山に面していた。その奥から深い森が立ち上っていく。山中に篭もる地下水を井戸へ引いており、水の美味さはお墨付きだ。
 ここの屋敷の人たちは皆、この山に神様がいると信じていた。
 この町はとても肥えた土地が多く、地下水も豊富だ。それらはどれも山の恵みから生まれたものだと彼らは知っていた。山への敬意は擬人化された。特に毎日使用するのは水で、井戸側に山の神様をまつる祠があった。毎朝女中たちはこの祠へお供え物を置いて神妙に手をあわす。多岐も強制的に、朝の行事に参加させられていた。
 山の神様など、多岐は信じていない。
「夜の井戸汲みのときも、先に必ず祠に手をあわせるのよ」
 これだから数分前に、先輩女中からこういわれたことも寒さですっかり失念していた。寒い寒いとぶつぶつ言葉をこぼしながら、多岐は震える脚でたどり着いた。風は強いが、白い月はまん丸で夜に緩い光を与えている。肩に乗せていた吊り棒を降ろして桶を置いた。
 そして月を背に、多岐は井戸を覗いた。あまりに暗くてよくわからない。手際よく済ませようと、水汲み桶の縄を地中に落としていく。何かに当たる感触があった。
「うん、しょ。……ああ、寒いの、なんの、」
 独り言のあとに力を込めて、落とした水汲み桶を引き上げる。いつもより重い気がするのは、寒さのせいに違いなかった。桶はいくらかして、地上へ出てきた。
 水汲み桶に、白いものがてんこ盛りに乗っていた。
 多岐は目を疑った。井戸には普通、水しかないはずだ。多岐は不可解な桶を凝視した。どう見ても石だ。井戸から石が山盛りに出てくるとは、聞いたことがない。
 変だ。明らかに変だ。
 多岐はより間近で見ようと桶へ顔を寄せた。キラキラ光っているが、石にしか見えない。妙に綺麗な小石が水汲み桶に沢山詰まっているのだ。
「なにこれ」
 多岐が呟いた途端、桶から小石が一気に溢れ出てきた。彼女は驚きのあまり両手を離した。桶が井戸の奥へ落ちていく。カーンと力強い音が大きく鳴り響いた。
 ギャーーーッッ!
 同時に、奥から断末魔の叫びが聞こえてきた。その声に我を戻した多岐は、途端に真っ青になった。
「ギッ、ギャーーーッッ!」
 多岐は、一目散に屋敷へ走った。
 何も持たず息絶え絶えに戻ってきた多岐に、釜戸の側にいた先輩女中が呆れた表情を向けた。
「早いと思えば水桶、持ってきてないじゃないか」
 水桶? そんなことはどうでもいい。それどころではない。
 混乱した多岐は、気を高ぶらせ奇怪な事情を説明する。狼狽する生娘の話を聞いた彼女は、口許を押さえて笑った。
「あんた、そりゃ山の神様にからかわれたのよ。祠に手あわせなかったんでしょ。それに石みたいなのは氷よ、氷。たまに山の神様が恵んでくれる贈り物さ。あんた、ちょっと神様に気にいられたんじゃないのかい?」
 最後のからかうような言葉に、多岐は愕然とした。信じる信じない以前に、嬉しくない。
 こんな山の神様になんて、好かれたくない!
 多岐はそう、心から思う。隣で先輩女中が、面白おかしいようにそんな彼女を見つめていた。
 明日の朝には、この話が皆に知れ渡ることになるのだろう。