* 沖のはな 01[前編] * |
「必要なものは、こんな感じかな」 遥香がつぶやいた言葉は、折り目の擦り切れた紙の上に落ちた。 数日前にプリントアウトした大切な持ち物リストを元に買い揃えた品々は畳上に広がっている。明後日からはじまるボランティア活動に先がけ、準備には余念がなかった。リュックに積めてしまえば、あとは出発するだけだ。現地の状況は実際に行ってみなければわからない。 遥香にとって、明後日訪れる場所は知らない土地だ。テレビ映像では、この三ヶ月間で幾度となく目にした地域だが、彼女は一度もその地に降り立ったことはなく、容易に推し量ることもできなかった。そこは同じ国でありながら、どこか荒れ果てた異国の地のようになってしまっていた。 三ヶ月前、日本で悲劇が起きた。大きな震災に見舞われ、地震の震源地にほど近い地域が甚大な被害を受けた。 日本は天災の多い国のひとつだ。遥香もそれくらいは知っていたが、母国で起きた広範囲に及ぶ凄惨な光景をリアルタイムで見たのははじめてだった。確かに過去に起きた国内の大惨事を映像で見たことは何度もある。ただ、どれも遥香の生活する立ち位置とは異なるところで起きたものだという意識があった。 しかし、今回の天災は身近に感じられた。震災発生時、彼女が住む地域も大きくゆれたせいもある。たまたま一人家にいた遥香は尋常ではないゆれに驚いて、這うようにダイニングテーブルの下へ逃げ込んだ。そして、ゆれがおさまってから急いでテレビをつけ、震災被害の大きさを知ったのだ。テレビのチャンネルは、その後一週間国営放送のままで固定された。毎日、毎時間、震災で混乱した母国を注視した。ただ事ではないほど緊迫した状況が続いていた。 彼女は、そのときのことを鮮明に覚えている。誰もいない家でテレビを前にして長いこと唖然としていた。母親は、大きな地震が発生して一時間もしないうちに帰宅してきたが、それまで携帯電話は一切つながらず、遥香はその間一人で流れる映像と対峙した。身動きできず、テレビの流す映像を見つめていた。目の前にある事実を認めたくなかった。 被害を受けた地域の以前の姿というものを、遥香はほとんど知らない。それでも、震災によって跡形もなくなっていることは見てすぐわかった。震災が起きてからというもの、各テレビ局は毎日その話題を細かく伝え、遥香は映し出される惨状から何度も釘付けにされた。三ヶ月の間、彼女の胸中には形容しがたい感情が渦巻き、考え事をする時間も増えた。その結果が、現地へ手助けに行くという決意として現れた。 彼女が積めはじめた荷物は、キャンプに行くときと類はよく似ている。持ち歩くリュックも登山用で、遥香の背中をすっぽり覆う大きさだ。キャンプ体験は数度あるが、大きい荷物を背負って行動するのはこれがはじめてになる。彼女はそれぞれの体積と取り出しやすさを考えながら、購入したばかりの寝袋を一番奥に押し込んだ。かさばる長靴は、別途に持っていくつもりだ。すべて汚れることが前提となっている。 遥香が要領よく荷物をまとめる和室は、家内で最も物が置かれていない部屋だ。引き戸が締められているせいで、隣にあるリビングのテレビ音よりも窓を打つ雨の音のほうが際立つ。 この数日、遥香の住む街では雨が降り続いていた。どうしても在住地の天候に気が傾き、彼女は用心して雨合羽を二つ用意した。現地の天気予報も、昨日から細かく確認しているが、山間と海沿いでは気候が異なり、天気の移り変わりも著しい。滞在中は雨に降られないことを祈るしかなかった。はじめてのボランティア作業で雨が降れば、慣れない作業にさらなるハンデをつける。皆の足手まといにはなりたくなかった。 引き戸の窓に動く影がゆれ、まもなく戸が開けられる。キッチンに立っていた母親は、娘の様子が気になったようだ。エプロンの前で手を拭いている。 遥香は顔をあげて彼女を見た。娘が天災に見舞われた地域へボランティアに行くと決めて、最初に賛成してくれたのはこの母親だった。 「ハルちゃん、用意はどう?」 「ほとんど終わったよ。あとは行くだけ」 大学やアルバイト先にも話をつけ、ボランティアをするうえで必要な保険にも加入した。被災地で活動するのは実質三日だ。少ない日数かもしれないが、遥香には学生身分ながら放置できない生活がある。長期で現地に行ける余裕は当面ない。それに、はじめての災害ボランティア活動だ。内容も実際に行ってみなければわからないというのに、慣れない場所で長く滞在することなど、遥香には考えられなかった。闇雲に自身の体力を過信したくないのだ。 被災した地域は、必要とされる活動が日々異なる。事実、遥香がインターネットで登録した団体は、ボランティア活動に長けていたが、活動内容は毎度現地に赴かなければわからないとのことだった。それを遥香は了承して初のボランティアに向かうわけだが、非力な女子大生にどれほどの活動ができるのか、多少の不安はつきまとっていた。 ……でも、なんでもいいからボランティアがしたい。手助けがしたい。 遥香が生まれる以前から、大きな被害をつくる天災は日本上で幾たびも起きていた。しかし、身に迫って感じた災害は、遥香にとってこれがはじめてだった。母親は、あなたが物心つく前にもこうしたことが起きたのよ、と、青白い顔をして教えてくれたが、娘にとってこのショックは大きかった。はじめて、自国のことを本気になって考えた。それは遥香にとってひとつの転機となった。 遥香にとって日本は自分の生まれた国である以上に、一番文化に興味を持てる国でもあった。そう強く思うようになったのは海外の留学生と交流した高校時代だ。留学してきた北欧の少女は半年間クラスの一員になった。遥香は彼女から、外国のおもしろさよりも、自国と外国の違いや日本文化や国民性のおもしろさを学んだ。 大学では比較文化研究の分野に進んだが、遥香は他の学生と違い外国から見た日本に興味を持っていて、いずれ大学にいる間に留学をしてみたい、という、淡い願望があった。今は、母国で起きてしまった惨状をこの目で見て、手助けがしたいと思っている。 インターネットでボランティアの心得を読んだが、テレビなどで流れる映像や写真よりも、実際の風景はさらに過酷だという。現地へ行って、肌で感じなければ気づかないことはたくさんある。そう、現地へ行った人たちが自分の言葉で書いていた。それは遥香にとって、再度ボランティア活動に志願する勇気をつけてくれた。 メンバー入りを果たした団体は、ボランティアにしては大所帯で行くことになる。活動レポートを見ると、女性の参加者が多いようだった。未経験者も歓迎されていたことから、遥香はすぐに応募メールを送った。了解のメールはまたたく間に届いた。対応の良さにも安堵した。 活動以外の宿泊についても、基本的には寝袋を必要とする雑魚寝のスタイルだという話だが、専用の宿泊施設が提供されるということは若い女性にありがたいことだ。活動中はどういったことでも文句を言わず引き受けるつもりだが、活動後の時間はなるべく気持ちの落ち着けられる場所にいたかった。 性別は関係ない、と、胸を張れるほどの体力を遥香は持っていないし、夜道で痴漢にあったことや、一人になったカラオケボックスで知らない男に入られ恐怖を感じた経験もある。まず自分の身を守ることを先決にするとだけは決めていた。小柄な体格に重ねて、ボランティア未経験者という存在を我ながら考慮して、彼女は身丈にあう団体を探し出したのだ。 行くと決まった今も、まだ現地に行かなければ活動内容も宿泊状況もわからないというのは、多少不安がつきまとう。遥香の周囲には、本格的なボランティアに従事した経験を持つ人がいなかった。自分が一度行って体験しなければ、今後ボランティアをするにしても勝手がわからないのだ。 遥香はこの機会を手放すつもりはなかった。両親は賛成したものの、一人娘の行動に少し心配した様子だった。彼女はなるべく一人で用意を続けた。金銭も援助は受けるものの二〇歳になった娘は、もう子どもではない。 「薬とかも持った?」 母親は、リュックに全部収まったのかと感心した面もちで、遥香に言った。 「うん。保存食みたいなのもちゃんといれたよ」 「したら、足りないものはないのかしら?」 「ないよたぶん。出発は明日の夜だから、なにか忘れててもまだ余裕あるから、なんとかなるよ」 「現地はあの状況で、なかなか買えないでしょうしね。それにしても、明日も天気、ここは雨だって。あちらでは降らないといいわね」 窓を打つ雨音を意識する母親に、遥香は手提げ用のショルダーバッグをいじりながら、障子へ目をやった。 「あっちも、降ってるみたいだからね」 今日の大学で、友人たちからも同じことを言われた。今日は降ったり止んだりを繰り返すしつこい雨模様だ。明日夜の集合場所に行く間だけでも止んでほしい。現地に着けば、携帯電話で新たに天気予報を確認するつもりだ。 「あちらは山と海が多いから、どうなのかしらねえ」 「行ったことないことだからね」 「私も、よ。自然が多くて良い場所だったみたいだけど」 母親が少し目を伏せる。過去形になってしまったことが悲しい。 遥香の友人の中には、一人だけ被災地の近隣県出身者がいたものの、遥香がボランティアへ向かう地域は訪れたことはないと言っていた。遥香がボランティアへ行くと決定した旨を話すと、その子にかぎらず皆は一様に、すごいね、えらいね、と、口々に言った。 元々ボランティア募集を探す前から、災害地へのボランティアに対する意欲を、遥香は話題のひとつとして彼女たちに話していた。その反応は上々だったが、遥香に便乗して、ボランティアをしてみたい、とまで、言ってくれる友人は誰一人としていなかった。 災害ボランティアは敷居が高いと思っているのか、あくまで他人事なのか、そうした時間的、経済的余裕がないせいなのかはわからない。彼女たちは、遥香と同じように野外活動に慣れず、身なりを気にするふつうの女の子たちだ。ボランティアは良いと言いながらも、実際はあまり乗り気でない友人たちを無理に誘ったところで、無駄に骨を折るだけだった。それを遥香はわかっていたし、一緒に行くことになったとしても、責任は持てない。被災地へ、遊びに行くわけではないのだ。遥香自身は、友人たちのうわべだけの反応を見て、早々から一人で行こうと決めていた。なにをするにも、自分が先に行動を移してからのほうが説得力はつくだろう。 ボランティアで活用する団体の集合時間は、明日の夜六時だ。簡単な研修の後、夜行バスで現地へ向かう。さらに着いた日の朝から早速メイン活動がはじまるということで、体調管理には絶対に気を配らなければならなかった。 遥香は旅行の折り、何度か夜行バスを活用した経験がある。現地へ着いて朝から元気よく動くスタミナには自信があった。正直な話、夜行バスは居心地が良い交通手段と思えない代物だが、時間を有効活用できる利点もある。遠県から被災地に向かうボランティアツアーの多くは夜行バスを使用している、と、遥香はインターネット上で知った。ただ、遥香の周囲で夜行バスに乗り慣れている女子は少ない。ボランティア自体、周囲で誰もしたことがないのだ。 用心した遥香が、前もって災害ボランティアの心得をインターネットで検索して読んでも、感覚はいまだつかめなかった。ボランティア団体のホームページで活動の流れも記されているし、現地の状況もテレビなどが伝えている。 だが、文面や映像だけで伝えきれないことがたくさんあることを遥香は知っていた。だからこそ、被災地に行って活動したいと思ったのだ。ある程度の覚悟を決めなければ行ってはいけない場所だとも思っており、そう気負うせいで、不安もあらわれる。 「晴れるといいわね。荷物はかなり重いの?」 「寝袋と長靴があるから、けっこう重いよ。でも、登山もこんな感じだと思うし」 遥香が立ち上がって、母親を前に品を詰めたリュックを持ち上げる。彼女の母は若い頃に登山サークルに籍を置いていた。リュックは母親の持ち物だ。父親よりもアウトドアの勝手をよく知っている母親から、遥香はいくつか助言をもらっていた。 「確かにね。なんとか持って行動できそうね」 「うん。長靴を別にしたから、リュックの中にはまだスペースがあるの。ショルダーバッグを入れようと思ったけど、やっぱりこれは肩からかけたほうがいいよね」 「そうね。ちょっとくらい、スペース空いててもいいんじゃないの」 母親がそう言うとすぐ思いついたように娘を見た。なにかひらめいたという表情をしている。 「あ、そうだ、いいものがあった」 そう言葉にすると、母親が唐突に和室を離れていった。遥香が不思議そうな顔でリビングへつながる先を眺めていれば、聞き慣れた着信音が足下で鳴り響いた。畳に携帯電話を置いていたことを、彼女はすっかり忘れていた。 メールが届いたことを軽快に知らせてくれたとおり、遥香は腰を下ろして画面を見る。今夜も仕事で出張している父親からのメールだった。 『明日の夜も帰宅が遅いから、会えないかもしれない。予約したホテルの場所と新幹線の切符を忘れるなよ』 そのような文面が載っていた。彼には、ボランティアをするついでに観光して来いと言われている。その準備も遥香は兼ねて行なっていた。 遥香が登録したボランティア団体は、活動終了後に再度バスで上京するルートが設定されていたが、現地解散も許されていた。その融通さを利用し、遥香は活動を終えてから、近隣の土地を観光するつもりである。観光は被災された地域の中でも、復興の邪魔にならないところを父親と相談しながら決めていた。 ボランティアの宿泊施設は、被災地にいくらか距離を置いている。被害のある場に迷惑がかからないよう、ボランティア団体側も滞在拠点地に考慮していることを、彼女は調べていくなかで学んでいた。そのうえで父親には、被害を受けた観光地へ邪魔のないよう赴くこともボランティアのひとつになるだろう、と、説かれていた。元々被災地へ往復することだけを考えていた遥香だが、父親の考えに賛同して、帰宅時のルートを変更した。観光といっても、気軽な一人旅だ。ホテルに泊まった翌日は荷物を預け、土産物を買いがてら気になるスポットを見回ればいい。ボランティア活動後の良い気分転換になるだろう、と娘も考えていた。 プライベートでも段取りが細かい父親に、娘は素早く返信をする。本当は父親が旅行したいようだったが、仕事が忙しく休めないようだ。母だけでなく父も、娘を送り出すこと以上に、今回起きた天災の惨状を気にしているようだった。彼の場合は仕事上、日本経済を念頭に苦心しているのだろう。 遥香は次いで、夕食前にメールをくれた友人にも簡単なメッセージを返した。明日は昼まで大学の講義に出席する予定だが、その日に会えない友人も多い。さらにボランティアへ出かけている間に、ひとつ提出が必須となっているレポートがある。それを同講義に出ているもう一人の友人に託さなければならず、そのことで連絡する必要があった。レポートは今日完成させており、自室に置いてある。 ボランティアに向かうまでに、心配ごとは無くしておきたい。休憩もかねて一時部屋へ戻ろうと遥香が腰をあげれば、母親が和室に戻ってきた。 丸いクッキーの大缶を、両手で抱えている。 「ハルちゃん、ちょっとお願いがあるの。これ、持っていけないかしら?」 そう切り出した彼女が、箱の蓋を開けた。その中身を、遥香はよく知っていた。 病気を機に去年から同居している父方の祖母が、指先のリハビリを兼ねてつくったものだ。カラフルな千代紙が、直径一五センチほどの奥行きある缶一杯に詰まっている。そのかたちはすべて鶴を模していた。日本には鶴の折り紙を千羽にまとめ、慰安や見舞いとして贈る風習がある。 遥香は母親の気持ちを察して頷いた。 「うん、いいんじゃない」 祖母もこのたびの震災をよく知っている。彼女は当日デイホームに出かけており、施設であの日は大騒ぎになったと鸚鵡返しのように何度も話していた。祖母の日課となった鶴折りはテレビを見る最中に行なわれる。おしゃべり好きの彼女はすでに就寝しているが、姑と嫁の間で話がついているのだろう。 遥香が妙案だと思ったのは一瞬だった。とっさに賛同する言葉を発したが、すぐ彼女は考え直した。 母親は娘が肯定したことで、話を続けている。 「かさばらないかと思ったんだけど、そのリュックに入りそうじゃないの」 確かに折り鶴は日本的な美しさを持ち、千羽揃えば慰労をかたどるものとなるだろう。 しかし、残念なことに遥香の祖母は鶴に祈りを込めて折るような人ではなかった。孫の彼女は、そのことを思い出したのだ。 遥香の祖母は、生粋の都会生まれ都会育ちで、裕福な家庭に育った。そのせいか、社交的で交友関係は広いものの、人にたいする情が孫や嫁よりも淡泊で、自分主義なところがあった。人にあわせることが得意で、本音より建て前を重視する。愛想がとても良い一方で、その鬱積を陰口というかたちで、身内にまき散らす悪いクセを持っていた。それに想像力も乏しく、テレビで得た情報をそのままでしか受け取らない。常に自分のことを棚に上げて意見を述べる性格だ。 長男の一人娘ということで、孫の遥香は祖母からとてもかわいがられていたが、遥香自身も成長するにすれ、祖母の腹黒いともいえる部分を疑問視するようになった。すべての部分で質が悪い性格をしているわけではない。身内の悪口を言うことはなく、遠巻きに接していれば面倒見の良いおばあさんなのだ。うかつに下世話なことを口にしなければ、遥香も彼女のことを好きでいられる。しかし、祖母には、悪口を言いはじめるスイッチがあるようで、祖母の悪い部分が出てくると、遥香はなるべく遠くへ逃げて反面教師にしていた。 遥香は、そうした類の人間を全否定することはできなかった。感情的に人の好き嫌いを分別するような年頃は過ぎていた。彼女の世界が広がると同時に、祖母と似たような性分は多いことも知るようになった。早くからこうした類の人に出会って、対処法を知ることができて良かったと思えるほどだ。しかし、そうした性格を理解できても、心底で好ましいと思えることはただの一度もなかった。 「おばあちゃんが毎日せっせとつくっているものだし、お昼にね、この鶴をハルちゃんが持っていったらいいんじゃないかって話していたのよ。おばあちゃんも、うれしそうだったし」 母親は娘に有無を言わせないよう、無意識に言葉を続けている。かたちの上では小さな美談だが、祖母の真の性格を知っている遥香からすれば、本気で鶴に祈りをこめたのかが疑問だった。どちらかというと、デイホームに行ったときの話題にするために了承したとしか考えられなくなっていく。 事実、最初にボランティアへ行くと家族に話したとき、賛成も反対もしなかったのは祖母だけだ。両親は手を挙げて賛成してくれた。血を継いでいる遥香は、反応の薄かった祖母が隠していた本心を簡単に暴くことができた。彼女の本心は反対したかったのだ。心配性で潔癖なところがある祖母だ。なにを理由に反対したかったのかも、孫は察していた。単に賛成する息子たちを見て、なにも言えなくなかっただけなのだ。 震災の映像が流れたときも、大変だねえ、イヤだねえ、こんなことになっちゃって、と、言いながら、本人が意識なく不謹慎な発言をしていたことを、孫の遥香は覚えている。パンがないならクッキーを食べればいい、という、滅んだ王家の姫君に似たような言い種をした祖母に、孫は反抗を通り越して内心呆れながら、隣の席に座って聞いていた。 想像力が乏しい人には、何度忠告してもわからない。諭されたことを理解できず、ただ責められたことだけを感情にまかせて反論し、実際に悪いことに遭遇すれば、ただ愚痴をこぼすだけなのだ。 「おかあさん。ちょっと待って。おばあちゃんがつくったっていうのはわかるんだけど、……それって、形式的なものだよね」 遥香の言葉に、母親が真っ直ぐ見つめてきた。 母が手に持つ、その鶴たちに罪はない。しかし、それらを指先で生み出した人に、傷ついた人々を想う気持ちも祈りもない気がした。孫の時分が称することもおかしいが、遥香の祖母は孫以上に世俗的なものの考え方をする人なのだ。 それに、今の時代になって被災地に必要なものは、こうした漠然としたものではなく、もっと現地にあう実用的なものなのではないかと彼女は思った。特に遥香やその家族は自分たちで稼げる立場にいる。両親も遥香自身も、募金は災害の起こった当初に何度もしていた。介護認定を受けた祖母にそれは無理だとわかっているが、形式的なものをわざわざ持っていく気にはなれない。その点を母親は案の定突いてきた。 「あなたの言いたいことはわかるわよ。でも、今のおばあちゃんにできることって、これくらいしかないでしょ?」 「……わかるよ。でも、おばあちゃんは本気でそう想って折ってるとは思えない」 言い倦ねたことを、遥香はとうとう吐露した。途端に、想像ついていた言葉が返ってくる。 「ハルちゃん、お世話になっている人に、その言い方はないでしょ」 遥香は祖母にかわいがられている。幼い頃から亡き祖父とともに多くの金銭援助をしてもらい、なにかある度に旅行へつれていってくれた。そう言われてしまうと、一番立場の弱い遥香は黙るしかなくなる。 眉を寄せた遥香に、母親は少し困った顔をした。母親にとって遥香の祖母は姑にあたる。祖母は社交的で愛想の良い人でもあり、家族の悪口を言うことは絶対にない。ただ、家族以外の陰口は延々と陰で吐き続ける。家族しか知りえない裏の顔。それを幼い頃から聞いている遥香は、陰口と愚痴を叩く人間がこの世で一番嫌いになった。 遥香のほうが正しいはずなのに、年功序列で屈さなければならないことが辛かった。しかも、その祖母の血を遥香は引いている。祖母を否定することは自分を否定することにもなっているのかもしれず、遥香は祖母の非難を大きく口にすることはなかった。それに、世間には似た人種が大勢いる。 「ママも、おばあちゃんのそういうところはいいと思ってないわよ。でも、その点だけで、表に出すのも家族の前でだけじゃない。それに、そんな人なんて世の中にいっぱいいるのよ。おばあちゃんの根は、お人好しで気遣い屋だってあなたも知っているでしょう」 「……そうじゃなかったら、とんでもない性格になるよおばあちゃん」 娘の返す言葉に母親が苦笑すると、和室の掛け時計は十二時のチャイムを知らせた。祖母はすでに自室で就寝している。 「そうね。でももう、八五をこえた人に無理を強いることはできないわよ。テレビでそういう映像見て、かわいそうって思うだけで、他人事で終わる人はたくさんいる」 それは、祖母を見ていればよくわかる。うわべだけの人間がいることは仕方がない。成長していくほど性格を正すことは難しくなるのだ。成人したばかりの遥香ができることは、反面教師にすることだけだ。 「……わかってるよ」 「これ、かたちだけでもどう? 最悪持って帰ってきてもいいから」 母親は蓋を閉め、折り畳まれた鶴の入った缶を娘へ差し出した。本当は気が乗らない。こんなものをもらってなんになるのだろうという気持ちが正直あった。しかし、祖母がこの提案を事前に聞いて一度了承してしまった手前、持っていかないと言い退くことも遥香の心情には引っかかる。 半ば押し切られたかたちで、娘は黙って缶を受け取った。思ったよりも、重量は軽い。折り鶴しか入っていないのだ。しかし、形容できない重いものが詰まっているように感じられた。 リュックに入らなかったら、置き去りにするつもりだった。しかし、その缶は母親と娘の前で皮肉にもぴったりリュックの容量に収まっていく。結局、遥香はその重みを背負うこととなった。 【中編に続く】 |