* あい繋ぐ星に【第1話】 *


「好きだから、別れるんだ」

 鼓膜を突き抜けた言葉に、千野明史はグレープフルーツサワーのグラスを落としそうになった。昭和然とした店内に不釣合いな台詞。心臓は爆発したようにバクバクとわめく。
「あ、また出てんのか」
 大学時代からの友人である斉藤雄哉も振り返る。壁にかけられた液晶テレビに映るのはドラマ。場違いな台詞は演技。でも、俳優の声が明史の心を突く。
「さっきまでオッサンたちがうるさくて聞こえてなかったけど、アイツのドラマやってたんだな」
 ワイシャツを緩く開襟させた雄哉がてらいなく呟く。目眩に似た記憶の浮上を留めるべく、手にしていたジョッキを一気に煽った。
 ……焼き鳥も他のメニューも美味かったのに。早くテレビを消してほしい。
 この居酒屋を選んだのは美食家の雄哉だ。彼からイタリア旅行の相談があると言われ、仕事帰りに店の最寄り駅で落ち合った。ゴールデンタイムも半ばを過ぎ、客が一巡した七月の熱帯夜。
 涼しい店内でモツ煮をつついてアドバイスや近況を話しつつ、学生時代の友人は気楽だ、なんて思う気持ちはドラマのせいで吹っ飛んだ。干上がる喉がアルコールを欲している。先ほどまで騒がしい店内だったが、こんなことならうるさい酔っ払いに居残ってほしかった。
「織茂もすごいよな。こないだ連ドラにもでてただろ。しかも主役で」
 出てきた彼の名に、わかっていても心はビクつく。店員を呼ぶ雄哉をこっそり睨んだ。
 ……あんまり、アイツの名前を出さないでほしい。
 けれど、聞きたくない名前も、その声も姿も世間には溢れているのだ。明史は見つけてしまうたびにざわめく胸を抑えてきた。
 今、テレビドラマで演じている旬の俳優。
 織茂櫂人。
 明史にテレビを見る習慣を失わせ、自分と生きる世界の違いを決定づけた男だ。
 綺麗な鼻梁とかたちの良いくちびる、人を惹きつける力強い瞳。整った美しい容貌に加えて一八〇を越える背と長い手足をもつ彼は、はじめ雑誌の専属モデルとして世間に登場した。芸能界でも格好良さは折り紙つきで、俳優業に移行した今でもドラマや映画に出れば話題になる人気ぶりだ。
 モデル出身らしいクールさと甘さをもち、昔から女優やモデルとの噂も少なくない色男。この前も、年上女優との半同棲スキャンダルを電車の中吊り広告で見つけ、明史はなんともいえない気分にさせられた。
 最近大人の色気まで出てきた彼の本性を、……明史はよく知っていた。同じ学生アパートに住んでいた頃、毎日のように櫂人と一緒にいたのだ。
「大学時代の織茂なんて、今は微塵も感じさせないよな。このドラマでは悪役してんの? 珍しいな、恋愛ものが多いのに。でも、アイツが悪役かよ」
 雄哉がそういうのもわかる。大学にいたときの櫂人は、スタイルの良さと顔だけが取り得だとからかわれていた。そして、その長所をフルに活用できる世界へ本当に旅立ってしまった。
「食堂で飯食った後に財布忘れて泣きついたり、レポートの提出期限を間違えて単位落したりするヤツなのになあ。他にもおもしろいエピソードあったよな!」
 追加注文して、雄哉がテレビの中の櫂人を見直す。
「料理させると壊滅的だし、大事な眼鏡踏み潰して死ぬほど凹んでたこともあったし。千野はよくフォローしてたなあ」
 ……せめて別の番組にしてほしい。雄哉も飲みすぎだ。
 視線を下げてワイシャツの袖を捲り直す。元々、雄哉のハネムーンの相談がメインだった。イタリアのオーガニックケアブランドの提携事業に長年携わっている明史は、現地の観光スポットや食にそこそこ詳しい。それで、はじめてのイタリア旅行に出かける友人の力になればと話をしていたわけだ。
「懐かしいわ。まあ、今思うと、放っておけないって思われて浮名流すのもわかる気がするけど」
 雄哉は明史の気持ちも知らず、織茂の出ている雑誌のことや、女優との交際の噂も話し出した。
「斉藤、」
 酔っていつも以上に饒舌になっている彼をさすがに諫めようと口を開く。するとタイミングよく店員がやってきた。砂肝串、ししとう串、ナスの揚げ浸し。すると、雄哉が空いた皿を進んで片しはじめる。ガサツだった雄哉が会うたびに気遣いを見せるのは、二年付き合っているという恋人のおかげか。少し感心しつつ、明史は切れ長の瞳を上げてジャスミンハイを受け取った。
 CMに移って少しホッとした。ついで店員に、ニュース番組に替えてくださいませんか、と言いたかったが……それはできなかった。
「千野、今呼んだよな? なに?」
 新しい取り分け皿を渡してくる雄哉に手を差し出しながら、わずかな間に言葉を探す。
「いや、その、けっこうチェックしてるんだなと思って」
 さも自然を装った。自分の声を聞いて、動揺は隠せていることに安心する。彼は大きな頷いた。
「してるしてる。すっかり遠いお星のゲーノージン様になっちまってるけど」
「そっか」
 ……確かに、遠い星の存在だよな。
 沈み出す気分に雄哉の声色が同調する。
「しかも実は、織茂のこと」
 タイミングよくテレビから櫂人の声が聴こえてドキッとした。向かいで、友人が大げさな溜息をつく。
「俺のカノジョが、よりによって大好きなんだよ」
 やはり彼も純粋に応援しているわけではないようだ。
「だから、アイツの動向を知りたくなくても知っちゃうというか。カノジョに俺が織茂と大学のとき友達だったってことは言ってないけどな。言ったら面倒くさいだろ。乗り換えられてもイヤだし」
「まあ、うん」
 深刻な悩みのように吐露する様子に、なんと答えればいいか迷う。さらに、次の言葉には明史も視線を泳がせた。
「とか言って、織茂のほうも女優とかモデルしか相手にしないに決まってるけど。俺は嫌なんだ」
 ……ああ、その気持ちはわかる。
 ザワッと胸が疼く。楽しかったのは彼がスカウトされる前までのことだ。その後は、辛い想いばかりだった。
 櫂人が唐突に中退してからは、彼の話題を徹底して避けてきた。友人たちの間でも、織茂は一般人である自分たちから縁を切りたかったのだ、という暗黙の了解が広がっている。
「遠いヤツになって、よかったのかもな」
 彼が明史の気持ちを代弁して呟く。今まで雄哉が話題に出してこなかったのも、櫂人の消え方に良い印象がなかったせいだ。
「連絡先も、もう知らないしな。千野は知ってる?」
「オレも知らない」
「だよな。あっちは、もう友達だと思ってないだろ。もう八年経つんだ。織茂は俺ら一般人のことなんて忘れてるよ、きっと」
 本心を述べた雄哉が「俺は普通の幸せで十分だ」と結論付ける。
「そうだ、結婚の招待状だけど。来月中には送る予定だから」
 自分で見つけた幸せな話へ戻す彼に、明史は苦笑いをかみ殺しながらジャスミンハイを飲んだ。



 テレビの中で役に徹する織茂櫂人を残して、明史と雄哉は店を離れた。
 ……いまだ根にもっているオレのほうに、問題があるんだろうな。
 乗換駅で手を振った雄哉。上京してから明史のことを唯一下の名で呼んでいた男の活躍を見てしまったせいか、動揺した自分が情けない。最寄り駅を降りて大きく溜息をついた。
 火照る首筋をすり抜けるぬるい風が、今より少し若い彼の声を連れてくる。
 ――明史がいるから、俺はカノジョをつくらないよ。
 学内で女の噂が立つたび、櫂人が言っていた言葉。モデルの仕事をはじめて、女優と最初のスキャンダルが出たときも同じように言い退けていたが、もう信じるには限界があった。眼鏡とボサボサの髪だった男は、原石を磨かれてあっという間に世界を隔てたのだ。
 ……こうなってよかったんだ。
 冷静に思っても落ち込んだ気分がやってくるのは、当時、明史が櫂人に恋していたからだ。
 飽きないヤツで、放っておけないヤツだった。素直さと愛嬌があって、今思えば根っから人の集めるオーラを持っていたのだろう。思いのまま行動して人の気持ちをつかむ櫂人にワクワクハラハラして、世話焼きのかまい癖がエスカレートした。
 そして、櫂人をかまう内に芽生えてしまった愛情は、彼が芸能界に入ってから苦しみの温床となった。仕事が上り調子になると、明史に家事を任せるだけでなく膝枕などの癒しまで求めるようになった櫂人。自分は都合が良いだけの人間に思えて悲しくなった。
 ……別に付き合ってたわけでもないし、アイツにとってオレはただの友達だったはずだし。オレも同性で、告白する勇気なんてなかった。
 でも、嘘をつく勇気はあった。
 『広い部屋に移って明史と一緒に住みたい』と言い出した櫂人に、『就職する会社の社長の娘に気に入られて今度見合いをするんだ。そのままゴールインするだろうから』と苦し紛れの嘘をついた。こんなチープな嘘を信じるとは思わなかったが、世間知らずな櫂人は真に受けた。
 ……中退まで、する必要はなかったと思うけど。オレのせいなんだ、きっと。
 大嘘をついて三日経たず、櫂人は隣室からも大学からも姿を消した。その早業に明史のほうが唖然とした。そして、櫂人を傷つけてしまったのだと気づいた。親に大学だけは卒業してほしいと言われている、なんて話していたのに。
 ……今は好きだという気持ちより、その後ろめたさが勝ってる。
 あのドラマの台詞と雄哉のせいで思い出したくないことが勝手に出てくる。振り切るようにアパートの一階で鍵を取り出す。玄関のドアを開けて、真っ暗な部屋に明かりをつけた。
 淀んだ空気が、独り身の寂しさを際立たせる。
 幸せ太りを心配する雄哉と逆で、就職してから明史は痩せた。会社の先輩たちは体調管理が大切だと話してくれるが、鍛える気力もなく三十路。年々肌も白くなっている気がする。顔の輪郭と目元とくちびるのすっきりした印象はますます母親に似てきた。しかし、見た目が若いとか肌が綺麗とか言われたところで、中年への道は避けられない。
 友人の結婚、元片想い相手の活躍。羨ましくない、なんて言ったら嘘になる。仕事はそれなりにうまくやってきているが、特に趣味もないし恋愛事にも疎い毎日。雄哉からも「最近なんかないの?」と訊かれたが、「なにもない」としか答えられなかった。大学を卒業してから何度も恋人をつくったことがあるが、どれもうまくいかなかった。
 部屋にもっと明るさがほしくて、エアコンより先にリモコンへ手を伸ばす。久しぶりにテレビをつけるとCMがあらわれた。
「洗い立てのシーツは気持ちいいですよね」
 スピーカーから聞こえた声と爽やかな笑顔の男。血の気が引いて、すぐ消した。
 櫂人が至るところで活躍するから癒えないのだ。
 ……やっぱりテレビはダメだ。最近、アイツ露出増えすぎだ。
 この間も定食屋で昼食を摂っていたときに、不意打ちで櫂人の声がして茶碗を落としかけた。当分テレビが置いてある飲食店には寄らないほうが賢明だろう。
 エアコンをつけながら思う。
 自分だけ櫂人の動向が嫌でもわかるのが辛い。まるであの大嘘の仕返しをされているようだ。
 昔の拒絶と嘘を謝りたい気持ちはないこともないが、今更と言えば今更だ。櫂人が忘れていれば謝罪なんてただのエゴ。
 それに、もう遠い星の人だ。
 ……好きだから離れるという技法に、オレはどれだけ精神力を使ったんだろうな。
 自分で投げたダメージがブーメランとなって、いまだに刺さっていることが情けない。
 けれど、考える間もなく明日も仕事だ。一日働けば翌日は土曜日。ゆっくり寝ていられる。
「先に、明日の準備をするか」
 ひたひたと寄ってくる空しさを払拭すべく、明史はパチンと明かりを点した。




... back