* あい繋ぐ星に【第3話】 *


 櫂人と二人きりになる密室空間。フロントドアの前で躊躇ったが、自分の夕食が人質になっていることに気づいた。仕方なくとドアノブを引いて、身体を滑り込ませる。
「ありがとう。おお、全部俺がほしいやつじゃん。明史はさすがだなあ」
 櫂人が早速袋からオレンジ味のソーダを取り出す。好みを押さえたことを褒められてもあまり嬉しくない。硬い表情でついでに指差した。
「マスクも買ったから、ここで外に出るときはせめて付けてくれよ。前に目撃した子がいて、店内で今大盛り上がりしてるんだ」
「そっか。普段はあんまり気にされないけどなあ」
 暢気なことを言う彼に、嘘だろそれは、と睨む。美しい輪郭。織茂櫂人は横顔が最も綺麗な俳優だと言われている。明史ですら綺麗だと思うのだ。鼻筋から喉仏のラインを目で追った自分に気づき、ハッとして視線を落とす。
 ……意識しないように。普段どおりに。感情に蓋をするんだ。
「日本中で顔が知られてる俳優だろ、おまえは」
 冷静さを声に乗せる。縁を切ってから世間を登りつめた彼は、ペットボトルの蓋を閉めた。
「まあ、うん。そうなのかな」
 本人はあまり自覚がないようだ。自分の出演作やテレビを観たことがないのだろうか、と訊きたくもなったが、明史自身もこれまで避けていたので言える立場にいない。口を噤むと櫂人の視線が絡み合う。やさしく微笑まれて心臓が強く跳ねた。
「明史、元気だった? 歳とったなあ。俺もだけど」
 再会を喜ぶような弾む響き。巷に溢れるようになって何度も耳にしたけれど、今聞こえた声色はパブリックイメージより少し高い。櫂人の気持ちも大学の頃に戻っているのだろう。
「でも、なんでここにいるんだ?」
 訊ねてきた彼に、明史はそのまま返した。
「……オレが、そっちに訊きたいんだけど」
「俺? 先月引っ越してきたんだよ、そこに」
 その方角へ指を差す。車内からは見えないが、新築のデザイナーズマンションだとすぐわかった。つまり、町内に転居してきたということだ。一番やめて欲しい回答をした櫂人に血の気が引いた。
「あそこ、分譲じゃないのか?」
「賃貸だよ。もうけっこう部屋埋まってんじゃないかな」
「でもなんで、わざわざこんなところに? 港区とかじゃないのか」
「確かにこの前までそうだったけど。……俺は、ほら、普段は車使いだからいいんだよ。車二台にバイクって持っちゃうと置けるとこも限られてくるんだ。超のつく都心に住むのは便利だけど、なんか当分いいかなって」
 言葉を濁しながら答えてくれる彼に、ふと週刊誌の見出しを思い出す。見たくもなかった女優との半同棲報道。あのスクープが出たのは五ヶ月くらい前。そして、先月ここに越してきたという。
 ……ってことは、なんとかっていうかわいい系の女優と別れて、移り住んできたのか。
 つじつまをあわせて安心する自分に気づく。醜い心を叱咤した。
 ……なに考えてるんだオレ、最低だ。
「明史は? ここに住んでんの? 偶然でもすごいな、ちょっと今も信じられない」
 心の内に気づかない櫂人が感動を込めて尋ね返してくる。
「住んでるよ。四年前から」
 正直に答えて目を逸らした。
 ……これは、マズイパターンだ。
 予知能力があるわけではないが、なにかこう、ずっとぼやけていた未来が妙にはっきり見えてきたように感じられたのだ。
 櫂人の人を惹きつける引力は芸能界に入って立証されている。最も惹きつけられて振り回されていたのは、他でもない明史だ。だから八年前に縁を切った。好きでいることと隣で応援することが両立できれば離れることはなかった。自分で自分を追い込んでしまったのだ。
「四年もここに? そんなことなら早く引っ越せばよかったな。そうしたら、もっと早く奇跡が起きたのに」
 とても嬉しそうなのがなんとなく怖い。櫂人はなにを考えているんだろうか。真意が見えない。
 ……オレがついた大嘘はコイツの中で今どうなってるんだ? もうすっかり忘れて、旧友との再会を喜んでるとか?
 あの仲違いは彼に響かなかったのだろうか。疑問を覚えたが頭を振った。
 ……いや、櫂人が中退したのは、オレの嘘が原因のひとつで間違いない。あのときのショックを受けた顔、いまだによく覚えてるんだ。そのせいで罪悪感がずっと残ってて。
「送るよ。俺はこれから仕事なんだ」
 しかし、本人は意気揚々と運転をはじめている。明史は混乱しはじめる脳内から、道順を伝えることしかできなかった。車だとアパートはすぐそこだ。わざとスルーして、少し離れた公園横に停めさせる。櫂人が首を傾げた。
「ここでいいの?」
 アパートの居所はどうしても伝えたくなくて、にこやかに感謝を告げた。
「ありがとう。助かった」
 勝手に来られるのが嫌だというよりも、自分の住んでいる狭い部屋は見られたくない。
「まだ時間に余裕あるし、エントランスまで行くよ」
 当たり前のように彼は言うが、明史の家にエントランスという部分はないのだ。大学時代住んでいた部屋に毛が生えた程度。車も持っていない。売れっ子俳優となった男とは格が違いすぎる。
「いいから。仕事に遅れるぞ」
 生きる世界が変わってしまっているのをあからさまに感じて、声のトーンがひどく落ちた。
 これが、八年の差なのだ。
「そっか」
「じゃあ、」
 渋々承諾した櫂人に遠慮なく別れの言葉を告げて、ドアノブに手をかける。
 しかし、開けようとしてもビクともしなかった。
「なあ、ロック解除して、」
 妙な感じがした。案の定、櫂人の返答はない。ゾワッと背が冷えた。
 ……これ、やっぱり完璧マズイパターンだ。
 今の状態では櫂人が主導権を握っている。急発進してどこかへ連れて行くという暴挙に出る性格ではないが、なにかしらの事柄を口にする可能性はある。
 ……あの大嘘の話だけは今されても困る。話し合う勇気は、オレにはまだないんだ。
「俺、ここで明史にまた会えるなんて思わなかった」
 沈黙を少し低い声が裂いた。鼓動が倍に跳ね上がる。映画の口説き台詞のような一言だが、車内は仲違いした場面の続きをはじめる雰囲気だ。逃げたくてドアにかけた手にもう一度力を入れる。逃げようがない。
 いっそ、自分から切り出したほうが楽なのかもしれないと腹をくくる。すると、背中に滑舌の良い言葉が当たった。
「まだイタリア関係の会社に勤めてるの?」
 櫂人の質問は、拍子抜けするほど軽かった。明史は指の力を緩めた。
「ずっと勤めてるけど」
 内定が出た頃までは親しかったから、覚えていたのだろう。
「そうなんだ。がんばってるのか。俺もがんばらないとなあ」
 身体の向きを戻して彼を見る。真剣になにかを考えているような表情だ。
「イタリア語、前よりけっこう出来るようになってる?」
 続けて訊かれたことにも頷く。
「けっこうってほどじゃないよ。英語よりもちょっと話せるかも、くらいで」
 海外企業の日本法人ではなく、あくまで会社の一事業として提携しているに過ぎないが、イタリア語がネイティヴ並に話せる上司がいたり、社風がその国の言語重視であったりするから、必然的に英語だけでなくイタリア語も飛び交う部署になっている。
 イタリア語も勤めてから学びだしたわけではなく、元々オペラ好きな母の影響だ。高校時代から少しずつテレビやラジオのイタリア語講座で学びはじめ、大学も会社もイタリア語に触れられるところを選んだ。就職活動が人一倍大変だったのも、そのせいだ。
 ……なんでそんな話をするんだ? 単なる雑談ではないよな?
 瞬きをして、櫂人が深呼吸をするのを見つめた。
「一生のお願いがあるんだ」
 唐突に出てきた本題の前置き。反射的に身構えた。
「な、なに?」
 大学時代、櫂人の一生のお願いは何度も聞いている。大抵はなにかをやらかした後にうなだれた声で言う文句だが、久方ぶりの今回はひどく真面目な顔だ。彼が頭を下げた。
「俺にイタリア語を教えてください」
 出てきたのは意外なもので、ポカンと口を開ける。返答がないとわかった櫂人は顔を上げ、明史の表情にかまわず身を乗り出した。
「今度、仕事で海外に行くことになっていて、ちょうどイタリア語が必要なんだ。俺、今この再会を神様に感謝するレベルで困ってて。イタリア語を教えて欲しい。お礼はなんでもする」
 櫂人が目力で間近に訴えてくる。男でも惚れ惚れする顔だが、明史はフリーズ状態を解いて一気に身を引いた。
「え、ええッ?」
「仕事が忙しいのは承知だけど、頼む! 年内まででいい! 時間は今ちょっと余裕あるから、どうにかしてがんばって都合あわせる。お願いします!」
 そして、懸念していたとおり、明史が頷くまで櫂人はドアロックを解除してくれなかった。




... back