* あい繋ぐ星に【第5話】 *


 フロアの奥にある収納棚を開けると、カラフルな背表紙たちが高さにあわせて揃えられていた。入社して数年は明史もお世話になっていた、イタリア語の教本。その中で、イラストが多い参考書を手に取ってパラパラとめくる。
 ……文法の入門ならこれか。動詞活用のハンドブックはまだ必要ないよなあ。
 宿題が欲しい、と言われているから問題集も取り出して、櫂人のレベルに見合ったものを見つけていく。
 ……昔より覚えがよくなっているようにも感じるし。櫂人が勉強を続けたいなら、十二月までっていう区切りも取っ払っていいかな。
 語学を学ぶ姿も大学のときより数倍真面目で、明史も手伝いたい気持ちに火がついた。おかげで会う抵抗もなくなって、気づけば週二回くらいのペースでデザイナーズマンションに通っている。ゆとりがあるのは九月後半までと言っていたとおり、再会の頃よりは忙しそうだがマメに空いている日時を連絡してくれる。
 ……そういえばドラマの撮影があるって言ってたけど、台詞の練習はどうしてんだろ。
 本人は、台本を覚えるのが人より少し早い、なんて自慢していたから、語学勉強の合間にやりくりできているのかもしれない。
 問題集を二冊チョイスすると、後ろから名を呼ばれた。
「千野くん、帰らないの?」
 声の主は上司の湯浅美保だ。すぐに振り返る。
「もうすぐ帰ります」
 黒くウェーブかかった髪を揺らす彼女は、ヒールを履くと一七〇センチ強の明史の背を越えていく。すぐ手にしているものに気づいたようだ。
「また勉強しなおすの? 必要ないでしょ」
 尋ねる美保は部署で一番外国語が使える日本人だ。どの国でも堂々と張り合えるような度胸と気さくさがあって、旦那はイタリア人。後輩たちの語学力も把握しており、明史にとってもお洒落にスーツを着こなす彼女は数少ない頼れる相手だ。
「実は今、イタリア語が習いたいっていう友人がいて」
 業務が終わって真っ先に棚へ行ったわけを話す。
「前のハネムーン話の子?」
 雄哉のハネムーン計画の際に助言をくれたのは美保だ。覚えていたらしい。
「いえ、別の友人です。あ、新婚旅行の件は行く都市もルートも全部決まったそうで、その節は助かりました。再来週、彼は結婚式ですよ」
「あら、もうそんな感じなの。旅行もつつがなく楽しいものになることを祈っているわ」
「はい。イタリアはたまにとんでもないことが起きますからね」
 二人で思い浮かべたのは、四年前の海外出張だ。明史にとってはじめてのイタリアだったが、ストライキと豪雨、ホテル側のブッキングミスという洗礼を浴びた。あれで人一倍精神が強くなったと思う。美保もなんともいえない笑みを浮かべて苦難をともにした後輩を見た。
「で、また別の慈善活動をしてるわけね」
 明史の性格をよく知る彼女がからかいまじりに言う。あながち間違ってはいないので、こちらも苦笑するしかない。選んだ三冊を美保に見せる。
「ここにある本、借りていっていいですよね?」
「いいわよ。皆の寄贈本なんだし」
「借りていきます」
「うん、お疲れさま。ボン・ラボーロ!」
 彼女から投げられたイタリア語の挨拶は【良い仕事を!】だ。これからボランティア授業をしに行くと思っているのかもしれない。正解だ。お疲れさまでした、と返した明史も退勤の支度をしてビルを出た。
 スーツでも過ごしやすい秋の気候。電車に乗ればあっという間に自宅がある駅に着く。
 ――明史、これどうやんの?
 改札を出て券売機に目を向けると、櫂人がよく口にした台詞が耳元でリフレインされる。高校まで電車を使わない生活を送ったせいで、ICカードのチャージがわからないと訊いてきた彼。
 あの頃から一二年経って今、また新鮮な感覚が訪れている。
 ……気持ちとしては、大学一、二年くらいの頃に近いかな。
 当時は大学とアルバイトと櫂人。今は仕事と櫂人。新製品の話は出ているがまだ本格的に動いていないし、帰宅しても特にやりたいことはなく、櫂人との勉強はすっかり良い暇つぶしになっている。マズイパターンだと思った再会時の自分は、こうなるとわかっていたのだろう。
 ……でも、このテンポならやっていける。
 今日は十九時半以降に来て、というざっくりした約束。終電は気にしなくていい。普段の待ち合わせも遅くて二十二時だ。休日の昼に会うときは、その後大抵櫂人の仕事が控えている。時折に急遽入った仕事でドタキャンされたり、明史の残業で会えなくなったりしているが、大学時代も互いに時間をうまくあわせてきたのだから苦にならない。
 時間のすれ違いよりも、心に余裕がなくなってすれ違うほうがキツいことを明史はよく知っていた。櫂人も八年間でそれを学んでいるのか知らないが、昔に比べて引き止めてきたり変な甘え方をしたりという負荷もかけてこない。あとは、明史自身に独占欲とか焦がれる想いが新たに生まれなければいいということだ。
 ……精神的にキツくなったら、潮時だと思ってまた距離を置けばいい。
 帰宅して私服に着替え、教えるところを軽く予習する。そして、教材を入れたトートバッグを持って彼の家へ向かった。
 オートロックのドアを開けてくれた櫂人は、早速眉を下げて済まなそうな顔をしていた。
「明史、宿題まだちょっと終わってない。撮影が押して、俺も帰ってきたばっかりで」
「いいよ。強制じゃないんだから」
 頬が緩む。リビングに行くとやりかけのルーズリーフと電子辞書があった。自分が書いた文章の下に、櫂人の文字。大きくて読みやすい、懐かしい筆跡。
「夕飯どうする? 俺、今日全然食ってなくて。米がいいんだけど」
 彼がいつものファイルを持ってくる。ハイグレードなデリバリーのパンフレット。いくつもばらけてあったから、明史がファイルを買ってきたのだ。受け取って開く。比較的食の好みは似ているし、櫂人の好みがそんなに変わっていないことも確認済だ。
「ガッツリな肉とご飯みたいなのにするか?」
「うーん。肉は昨日、役者仲間と焼肉食べたからなあ」
「じゃあ、米中心な。チャーハンとか丼ものとか、……これ、パエリアは? 色々種類あるし」
 めくって四つ目にあらわれた色鮮やかな米料理を見つける。覗き込む櫂人が「コレいいじゃん」と指で弾いた。
「俺はシーフードパエリアだな。エビ食べたい」
「わかった。プラスしてなんか頼んでおくよ」
「よろしく。あと、今回の宿題難しく感じるんだけど。そろそろ文法の本とか買ったほうがいいような気がしてきた」
 ぶつぶつ言いながらタブレットも渡される。インターネットでの注文方法も教わっているから、画面を開いてスペイン料理屋の注文欄へスイスイ指を動かした。
「文法の本持ってきたよ。動詞EssereとAvereは教えたけど、その先も今日はするから」
「はーい。エッセレとアベーレって、英語でbe動詞とHaveみたいなもんだろ。でも活用が多すぎるってのがなあ。しかも、女性詞と男性詞まででてくる。簡単な挨拶とか尋ね方とかは覚えやすいけど、英語みたいに構文丸暗記じゃ通用しねえし」
「言い回しが多いからね。あと動詞の活用とか女性詞・男性詞については、パズルみたいに思えばいいんだよ。どこで躓いてんの?」
 注文を完了して、ぼやく彼の手元を見る。形容詞の活用法か、と持ってきた参考書を取り出した。
 イタリア語の形容詞語尾変化は四種類しかないが、複数か単数だけでなく、修飾する名詞が女性名詞か男性名詞か、そして形容詞の特性次第でO、A、I、Eと変わる。しかも、特別な変化をする形容詞があるし意味が似た単語も多く表現豊かだ。
 ただ、仕組みがしっかりわかれば難しくはない。こんがらがっている櫂人の横に座って丁寧に教える。
「すると明史、【とても】っていう意味のタントは、複数だとタンテであってる?」
「うん。女性名詞の複数にかかってるから、tanteであってるよ」
 このtantoという単語、実は副詞だと語尾の性数変化はない。だが、それをここで言うと混乱するから黙っておく。櫂人はようやくわかってきたようで、明史が事前につくっていた活用表を見ながらシャープペンシルを動かしはじめた。
 ……ひとつ間違えてるけど、あとで説明しよう。
 立ち上がってキッチンに入り、飲み物を取りにいく。櫂人から好きに使っていいと言われているから、そこは甘えている。冷蔵庫を開けてもジュースか酒くらいしか入っていない。自炊はしないのだろう。家事の失敗はだいぶ減っているようだが、料理だけはしないほうが賢明だ。
 ……昔食べ物と一緒にビニール溶かして、電子レンジを壊したヤツだし。
 懐かしいことを思い出しつつジンジャーエールとグラスを持って櫂人のところへ戻れば、顔を上げている彼と目があった。革のゆったりしたソファーの下にクッションを敷いて待っている様子は、二枚目俳優というよりただの学生仲間だ。
「明史、これどうやんの? 最後だけわかんねえ」
 親しみのある感覚に膝を折って覗く。教えるついでに丸付けと誤答の説明をした。
 真剣な櫂人の顔も指も緻密な彫刻のようだ。色気のある口元が納得したように「あ、そういうこと」と呟く。青ペンで明史の言ったことを誤答の横に付け加える。
 有名な俳優となった彼と、何度もレポートや勉強に付き合った記憶がうまく重なった。
「櫂人、フランス語を思い出さないか?」
 参考書をめくって尋ねる。別の言語が出てきたことに、彼が眉を寄せた。
「え? フランス語?」
「大学時代、第二ヶ国語で取ってただろ」
「そうだっけ? 随分前のことだから忘れたよ」
 あっさり答えられて、これ以上言うのはやめた。何度も当時の記憶をほのめかしているが、櫂人は大学時代のことをあまり覚えていないらしい。縁を切る前後の時期を忘れてくれているなら本望だけれど、全部うやむやになっているなら切ない。
 落ち込む気持ちを知られないよう、動詞の段落へ目を向けて講義に戻った。細かく質問してくる彼に引きずられて教えることに没頭し、一時間。
 インターホンの音が鳴って、同時に二人は顔を上げた。




... back