* あい繋ぐ星に【第6話】 *


「飯だ。ちょっといい?」
「うん、中断しよう」
 立ち上がる櫂人を見て、教材を閉じながら自分の空腹を思い出す。デリバリーを玄関先で受け取る彼の代わりにテーブルを片しはじめた。夕食の用意をしなくていいというのは、この家に赴く魅力のひとつだ。
 シーフードパエリア、イカ墨のパエリア、前菜の盛り合わせ。櫂人がテーブルに宅配されたメニューを置いてキッチンへ向かう。
「スパークリングワインのハーフボトルあるけど飲む? 赤ワインならフルボトルになるんだけど」
「ハーフでいいよ。今日フルボトルを空けるのはキツい」
「じゃあ、赤は今度な」
 ワイングラスと冷えたハーフボトルを持ってくる。大学を卒業してから外飲みばかりだが、本当は家での内輪飲みが一番楽だ。食事代も彼が講師代と言って少しまけてくれる。奢りは気が引けるだけだが、こういうやり方なら受け入れられる。
 グラスで軽く乾杯して食事をはじめる。仕事の関係でもらったというスパークリングワインは辛口で、つまみとパエリアによく合った。
「その黒いのイカ墨だよな。どういう味なの?」
 食べ物の好き嫌いが割に激しい櫂人でも、明史の食べるものは興味があるらしく時々こうして訊いてくる。
「特別な味でもないよ。イタリアでも、ベネチアはイカ墨パスタが定番料理だし。食べてみる?」
 躊躇する彼に「そっちと似てシーフード味だよ」と追加する。
「少しもらってみる」
 返事に応えて、皿の空きスペースに黒いご飯とイカをわける。そのぶん櫂人のパエリアをもらった。エビの風味が強くて美味しい。
「あ、案外やさしい味だ。これなら食べられる」
「じゃ、次はイカ墨パスタに挑戦だな」
「それはちょっと……明史が頼むなら食べてみたいけど」
「オレが頼まないとダメなの?」
「うん。このハム、マジでワインあうよ」
 勧められるままフォークで生ハムを取る。高級志向の料理店から着たのだから、デリバリーでも食材が良いのはわかる。肩を並べてお腹を満たすと気持ちが和んだ。時刻を確認する。この感じなら、勉強の続きができそうだ。
「明史のお母さんって、今もオペラ好き?」
 最後のオリーブをつまんでいると、櫂人から尋ねられた。頷きながら、それは覚えているんだと思う。大学時代に数度、上京してきた母親にオペラの同行をさせられたことがあった。
「最近は日本の芸能にも興味あるみたいだけど」
「そうかー。俺もあのとき目覚めていればなあ、芝居の糧になったのに」
 本気で後悔する口ぶりに、つい目尻が緩む。
「オペラはだいぶジャンルが違うだろ。それに原語だと、内容を事前に学んでいかないと舞台より訳を追うのに必死になるよ」
 明史はイタリア語を学んでいたし、母親はイタリアのオペラを好んでいたから一緒に行けていたという話だ。
 うーん、と唸る彼へ、ずっと気になっていたことを投げかけた。
「櫂人って、いつから芝居に興味を持ったんだ?」
 元々スカウトされるままモデルになった男だ。明史が覚えているのは、部屋で映画やドラマを観るよりも、ゲームをしたり漫画を読んだりしていたこと。演技に最初から興味があったとは思えない。
 案の定、櫂人は「最近かな」と答えた。
「興味って言うよりも、オファー受けてはじめたことだから。テレビに出たほうが注目されるってわかって、ドラマ出るのはいいなーって役者に移行した感じ」
「そんな安易だったのか? 有名になりたかったの?」
 周囲の役者さんの格好良さに自分もああなりたいと思ったとか、憧れのひとを目指して、というものを少し期待していた明史は、回答の安直さに瞳を広げて彼を見た。俳優・織茂櫂人としてのパブリックイメージでは、決して公言できない。
「そりゃ、有名になりたかったよ。外見の印象が大事なのはよく知ってるから、パブリックイメージは崩さないようにしつつ、なるべく仕事は選ばないようにして……だからけっこう大変なことも多かった。バラエティーなんか、台本があるって言ってもたまに容赦ねえし、死にそうなスケジュールになっちゃったこともあるし」
「そっか」
「でも、やっと気持ちが落ち着いた。今はじっくり勉強していこう、こういう時間を大切にしていこうって思ってる」
 見つめていたはずが、櫂人の瞳に吸い込まれて離せなくなった。彼の言う『こういう時間』が一体どういう時間を差すのか。わからなくても自然と鼓動は速まる。
「明史って、」
 少し低めた声に、ドキッと強く胸が波打った。なにを話すつもりだ、と慌てて視線を引き剥がす。
「けっこう痩せたよね」
 続けられた言葉に拍子抜けして顔を戻した。もっと重い発言がぶん投げられてくると確信していたからだ。
「え? ……ああ、社会に出てやつれたんだよ」
 痩せたのは間違いなく、自虐的に肯定する。櫂人は首を傾げて顔を近づけてきた。
「やつれた感じはないけど。肌は綺麗なまんまだなあ」
 近づけられすぎて顎を引く。同時に、そんな風にオレを見てたの? と驚いた。でも、思い直す。
 ……そういうことを気にする業界だもんな。テレビに出るときは櫂人も多少メイクするだろうし。
「そっちも綺麗にしてるだろ」
 自分は肌が綺麗であっても美しい造作ではない。下手なお世辞になっていたことを彼は気づいていないのだろう。
 明史は視線を動かした。櫂人のTシャツ。肩のライン。
「櫂人は少し肩幅広くなった?」
 気になっていたことを訊く。意外な問いだったのか、彼が自身の肩を見た。
「筋肉がついたからそう見えるのかな。空いた時間、スポーツジムに行って体力づくりしてる」
 運動すればより男らしくなれる、ということだ。明史がしようと思いつつ怠けていることを、彼は生活の中で実践している。
「すごい。ちゃんとやってるんだ」
 素直に褒めると、櫂人は口角を上げた。
「そうだよ、もう子どもじゃないんだぜ。俺の職業は身体が資本だし、自己管理はちゃんとしないと」
 大学時代は決まって冬に風邪を引いていた男が胸を張って言う。その仕草と言葉に思うことはありすぎたが、なんとか笑みを押し留めた。
「櫂人は大人だよ、どう見ても」
「だよな。俺、コーヒー淹れてくる」
 機嫌よくキッチンへ向かった彼を目で見送り、明史は空になったプレートを片しはじめた。
 ……櫂人は今も、気になることがあると言葉に出てきちゃうんだよな。
 再会してから『俺は大人だから、子どもじゃないから』発言を五回以上聞いている。
 ……この半年以内くらいに、どっかで誰かに子どもっぽいとか、子どもじゃないんだからって言われて傷ついたんだろう。わかりやすいよなあ。
 気にしないでいいのに、と思う。でも、俳優である織茂櫂人に惹かれて近づいてきた人たちは、実際の櫂人と接して困惑するのかもしれない。スマートでなんでも出来そうな風貌と雰囲気をしているせいだ。
 ……本人も外見からのイメージを大切にしているみたいだし、世間とのギャップに悩むこともあるのかな。
 労わりたい気持ちが会うたびに少しずつ強まっている。彼のことを応援したい、手伝って見守りたいというポジティヴな想いは大切にしたい。
 良い香りがしてきた。櫂人からマグカップのひとつを渡され、飲む。
「今回、豆変えてみたんだけどどう?」
「うん、美味しいよ」
 彼の得意げな表情になると、心に温かな風が吹いた。
 確かに、櫂人は見た目と違って子どもっぽいところがある。でも、そのギャップがとても好きなのだ。そのままでいてほしい。
 そして、同時に生まれる強い想い。仕事上では、スマートであまり喋らないキャラのままがいい。素の櫂人は本当に魅力的なのだ。大人な思考と子ども心が同居する彼を、愛してしまう人が出てきたら嫌だ。
「櫂人、勉強再開しよう」
 顔を出した小さな独占欲を、自分の声でかき消した。なにも知らない彼は、頷いて明史の手元を見る。
 邪心を払拭しようと丁寧に教えていく。三〇分もせず、櫂人の字を書くペースが落ちてきた。集中力が途切れてきたのだろう。無理強いするわけにもいかず、お開きにした。
「オ・フィニート!」
 櫂人が長い腕を伸ばして【終わった!】と言う。簡単な言葉ならすぐ覚えてくれる彼には、今後過去形の学習が控えている。その前に、現在形の動詞に関する宿題だ。問題集の中から付箋と赤鉛筆で設問を選ぶ。テレビがつく音がして顔を上げれば、偶然にも有名な映画。
「民放、イタリアの映画じゃん」
 彼も気づいたようで、チャンネルはそのままになった。
「今日は一日長かったなー」
「何時に家出たの?」
「朝四時。さすがに運転する気になれなくて車出してもらったよ」
 ファッション雑誌の撮影は日の出の頃にはじまって、夕方ようやく解放されたらしい。
 ……モデルをはじめた頃も、とんでもなく早い時間に起こしてって頼まれたり、逆にオレの部屋で寝落ちした櫂人に叩き起こされたりしてたなあ。
 相変わらず不規則な毎日を送る彼を見る。ソファーに座りなおして、眠そうに目をこすっている。明史もソファーへ身体を移して、宿題のページを見せた。
「これだけできる? 無理にしなくてもいいから」
「できる、やる」
 目を閉じて言う櫂人をもうそのままにした。瞼が上がらないことを確認して、そっと立ち上がる。キッチンまでゴミを持って行き、食器を洗う。
 引越してから明史とマネージャーくらいしか入れていないというこの家に、あからさまな女性の品やその形跡はない。そんな確認を毎度無意識にしてしまえるほど、彼の日常に踏み込んでいるという現実。
 タオルで手を拭いてリビングへ戻ると、タイミングよく切り替わったテレビ画面に視線が向いた。流れているCMには俳優の織茂櫂人。人当たりの良い笑顔と台詞が商品とともに映し出される。
 瞬く間に終わった映像の後、明史はソファーの柄に肘をついて無防備に眠る男を見た。
 モヤモヤする気持ちが埃のように舞い上がる。
 テレビの彼と、目の前の彼。同じ顔なのは当たり前だ。
 でも、いつも眺めて考えてしまう。変わってしまったところと変わらないところ。スマートな部分、子どもっぽい部分。がんばっている櫂人、無邪気な櫂人。
 見つめたままソファーに寄る。腰を緩く落として、彼を見つめる。
 歳を経るごとに織茂櫂人は色気も存在感も増している。けれど、笑い顔も情けない表情も明史がよく知るままだ。それは、眠る表情も同じ。
 無意識に指を伸ばしていた。我に返った明史は手を引っ込める。
 ……なにやってんだ、オレ。
 触れようとして、ガラスのような隔たりに気づく。
 友達というカテゴリー。
 ……この距離が、オレにとっても櫂人にとってもベストなんだ。
 自分に言い聞かせ、問題集の背で長い片脚を数度小突いた。
「櫂人、オレは帰るよ」
 眉を寄せた彼は状況を思い出したのか、「あ、ああ」と言いながら目を開ける。
「そんな時間か。今日もありがとう。次はいつ?」
 身を起こしたと同時、寝ていたと思わせないくらいキリッとした表情を見せてきて、少し落ちていた気分が上がった。微笑んで答える。
「今週の日曜かな。参考書も置いていくよ」
「おう、宿題がんばります」
 はー、よっこいせ! と声を上げて立ち上がる。それが美貌と不釣合いすぎて、さすがに釘をさした。
「その掛け声、間違っても表に出すなよ」
「出さないよー。マジでイメージは気にしてるんだから」
 そして、数多の女性を惚れさせる笑顔で玄関まで送られる。おやすみ、と挨拶して背を向けた。歩き出してドアが閉まる音を聞く。
 立ち止まって振り返った。櫂人の残像を探すように数秒見つめて帰路に戻る。
 彼と会うようになって程なく、わざと遠回りして帰るようになった。携帯電話の電源を切って黙々と歩く。ただ歩くだけだけれど、友達でいるための大切な作業だ。生まれてくる情の卵を粉々に壊していく。
 緩やかな風が頬に当たり、外灯の光を見上げてゆっくり大きく息をついた。
 安定した視界。肩の力が抜けたことを感じてようやく自宅を目指す。鍵を開けて家の置き時計を見れば、今回も午前〇時を過ぎていた。




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