* あい繋ぐ星に【第8話】 *


「ごめん、寝てた」
 労わるような櫂人の視線。彼のぬくもりが肌に残って変に鼓動が速くなる。
「残業続きって言ってたから疲れてるよな。無理させて悪い」
 そう言う彼はなにかを読んでいたようだ。本のような紙面には日本語が続いている。おそらく仕事の台本だろう。
「いや、うん、大丈夫。すぐ丸つけるから待ってて」
 赤ペンを目で探して、ルーズリーフを引き寄せる。寝起きの頭と騒がしい動悸の中で丸をつけていると、櫂人が幼子のように顔を寄せてきた。ドキッと一際大きく心臓が高鳴って、指が止まる。
 腕から肩にかけて、くんくん鼻を動かしてなにかを探しているようだ。
「明史って、たまにすごくいい匂いさせてくるな」
 嗅ぎつけようとする言葉の正体を知って、明史は張り詰めていた気持ちを解いた。
「ああ、この匂いはうちの製品だよ。今日は会社で香りの選定してたから」
 ベルガモット主体のやさしい香りは、一年後に出すベビーケア商品だ。イタリアで売られているものを日本規格に改良することが多いけれど、ベビーケア専門商品ははじめて扱ううえ、とてもデリケートなもの。時間をかけて慎重につくろうと企画が早く動いている。ダブルで新商品の企画が動くのははじめて、一から商品を共同開発するのもはじめてだ。忙しいのは仕方がない。
「この香り、いいなあ」
 好物を食べるときと同じような表情をしているから、かなり気に入ったのだろう。
「赤ちゃん用なんだけどね」
 一言付け加えると、櫂人は「へえ」と美しい瞳を大きくさせた。
「そんなのも取り扱ってるんだな」
「来年から新シリーズで出す予定なんだ。気に入ったなら、大人向けので似た香りのものがあるけどいる? 色々種類あるから持ってこようか」
 ベビー商品のサンプルを渡すわけにもいかず、別のものがあると伝える。しかし、櫂人の回答は素っ気なかった。
「俺は香水があるからいい」
「あ、……そっか」
 残念な気持ちが込み上げる。ショックを受けたのだと理性が認めた横で、彼が続けた。
「明史がつけているの、嗅いでたほうがいいから」
 あっけらかんと言い放った台詞に、明史のほうが驚いて顔を向けた。本人は問題発言だと思っておらず、いつもの表情だ。でも、動揺した。
 ……どういう意味なんだ、今のは。
「マジでいい香りだなー。またつけてきてよ」
 隣でまたくんくんと嗅いでくる。どうすることもできず身体を硬直させる。
 ……完全に目が覚めた。すごい気まずい。
 鼓動はまったくおさまってくれない。この状況をどうにかしたいと、視線だけ下げて打開策を探した。彼の膝に置かれた台本。
 ……これで話題を逸らそう!
「櫂人。これ、撮影していたやつか?」
 目に飛び込んできたまま唐突に尋ねる。櫂人も視線の先に目を落とす。
「そうそう。今回は脇役だけどな。あの一緒にいた女優の子いただろ」
 一昨日のシーンを思い起こさせる。二十代前半くらいのかわいらしい女優。名前は検索する気にもなれなかった。彼は隠すことなく話してくれる。
「俺はあの子の兄貴役なんだ。で、不倫してる妹を心配してゴタゴタあったりなかったり」
 不倫、と言うネガティヴな単語が出てきて女優の印象が微妙に変わる。ドラマといえど、理不尽な役は同情に値した。
「あんなかわいいのに、不倫する子なの?」
「女優だから、まあかわいいよな。でも役は平日の女。彼女も、あたしは悪い男につかまらないから役の子の気持ちがわからないーって悩んでたけど」
「それは、若いのに大変な役だな」
「望む役が毎度与えられるなんてありえないし、断りきれないことも多いからね」
 業界の苦労を言葉以上に瞳で伝えてくる。少しでもあの若い女優に嫌な気分を抱いてしまったことを反省した。
「待機中もよく話してるから、本当に単なる妹みたいな感じだよ」
 自然と視線が上がった。妹、という響き。とても安堵した自分に気づく。
「そのドラマは皆幸せになる話?」
「ん、観てからのお楽しみ。今回こそは観てくれるよな?」
 不倫のドロドロ話は嫌だが、ちょっとだけ観てみたいなと思えてきた。
 ……今回は撮影現場も見たし、共演者に仕事以上の情はないようだし。
 今まで櫂人の出演作品をひとつも観ないできた。テレビも映画も一切観ない主義になった、と、この間ようやく白状して櫂人を大いに落胆させたのだが、少し寛容になってもいいかもしれない。
「じゃあ、時間が合えば観てみようかな」
 そう伝えると、彼が子どものような笑顔を見せた。
「マジ? 観てくれるの?」
「時間が合えば、だけど」
「うわー、マジで! やっと! すげー、張り合いがでてくるなー! 本当に? 本当に観てくれる?」
 テンションを上げて念押しされる。すっかり気圧され頷くしかなかった。
「すげー嬉しい! 俺、仕事がんばろう! よし、まずはコーヒーだな。明史、これからもイタリア語よろしく!」
 突然張り切って立ち上がった彼を、明史は首を傾げつつ見上げた。
 ……そんなに嬉しいことだったのかな。
 自分の一言でいきなりはしゃぎだした彼を呆然と目で見送る。
 ……こんなことで仕事にやる気が出るんなら、もっと早く映画でも観てあげればよかったかも。
 と思った明史は、櫂人の明るいテンションに引きずられるまま、はじめて朝までリビングに居つくこととなってしまった。

 ◇

 ……寝不足が続いているなあ。早くうちに帰って寝よう。
 退勤の用意をしながら、あくびをかみ殺す。ちゃんと寝ているつもりだが、疲労はそれ以上に蓄積されているのだろう。
 数日前、勉強会の後で櫂人に主演映画を二本も観せられたことも響いている。深夜に睡魔と戦いながら複雑な恋愛映画を鑑賞するなんて無理がある。案の定内容はよくわからなかったが、それでも櫂人の演技は好みで、素敵だったと終わって伝えた。彼はすごく嬉しそうに別のDVDを押し付けてくれた。
 そんな櫂人のせいで朝帰りになった土曜日。夕方まで寝潰してしまったぶん、翌日に家のことをこなすと瞬く間に休日が終わってしまった。無常に平日がはじまって、本日はまだ火曜日。
 ……あと三日も働くのか。
 当分祝日もなく、年末まで仕事一直線。忘年会やなんやらと追われて、来月ある自分の誕生日なんかすっかり忘れて年を越してしまいそうだ。
 ……この土日は引き篭もろう。櫂人には悪いけど今週末連絡が着ても付き合わないぞ。  いつオフになるかわからない彼へこっそり牽制をかけて出入り口に向かう。すると、エレベーター付近から元気な足音が聞こえてきた。ヒールで走ってくるのは先輩で上司の美保くらいしかいない。
 先に退勤したはずの彼女と視線が合う。パッと華やかな表情を見せた。
「千野くん、ちょっと!」
 ……え、オレ? なんかヤバイこと起きた?
 呼ばれたからには自分に用があって戻ってきたのだろう。止まった美保に嫌な予感を抱いて向き合う。
「なにかありましたか? まずいことでも、」
「違う違う。仕事のことじゃないの。織茂櫂人が」
「えっ、櫂人がいるの?」
 敬称をすっかり忘れた彼女の言葉に、明史も素で問い返してしまった。慌てて顔面を取り繕うが、美保のほうは気づいていない。
「織茂櫂人と知り合いなの? すごいじゃない! 彼、エントランスのあたりにいて待ってるから、早く早く! もう仕事は済んだ?」
 興奮気味の彼女に促されてエレベーターに乗った。外国人が好きで日本人に興味はない、と断言している美保なのにテンションは高い。
「美保さんって日本の俳優に興味あったんですか?」
「いやあ、あんまり知らないわ。でも、織茂櫂人は背が高くて日本人でもかなり良い男じゃない。最近CMにもよく出てるからわかるわよ。しかも、実物はすっごい格好良いのね! あ、織茂くんって呼んだほうがいいのかしら?」
「まあ、そうですね。彼は本名で活動しているので」
「織茂くんね。まさにメラヴィリオーソ、だわ」
 英語でアメイジングにあたるイタリア語を呟いた彼女と玄関を出て、外灯の薄い奥へ行く。ベンチに誰かが座っている。櫂人も気づいたようで、立ち上がって手を挙げた。細縁眼鏡でマスクを下げる。
「どうしたんだよ。なんでここがわかった?」
「ごめん、ちょっと調べた。あと散歩がてらに、この足で」
 長い脚をポンッと叩く。社名を知っていればすぐわかるのは確かだ。先週、撮影中に会ったこともあって興味をもったのかもしれない。
「ここまで気づかれなかったのか?」
「そんなすぐには気づかれないよ。俺歩くの早いし、周りも暗くなってるし」
「私もマスクを取ってくれるまで気づかなかったわ。まさかこんなところに有名な俳優がいるとは思わないじゃない。いくら都心でも」
 ……ところで、なんで櫂人は美保さんへピンポイントで声をかけることができたんだ?
 新たな疑問の横で二人が話しはじめる。美保も臆するタイプではないし、櫂人も彼女の性格を察したのかパブリックイメージと自然体の間をとっているようだ。
 ふと、美保の胸元にかけられたままの社員プレートが目に入った。時々外し忘れているのを目撃しているから……プレートを目ざとく見たのかもしれない。少し前、櫂人に美保の話をしたことも思い出す。一番イタリア語ができる女上司で、パートナーもイタリア人だ、と。明史も美保からイタリア語の細かいニュアンスを教わったのだ。
「湯浅さん、気を遣っていただいてありがとうございます」
「こちらこそ、変な人に捕まらなくてよかった。千野くん、本当に素敵なお友達を持ってるのね!」
 突然上司に笑顔を振られ、あはは、と返す。
「大学時代からの仲なんです。そっち仕事は?」
「今日の分はもう終わった。車でもなかったからマネージャーと別れて、明史に会えたらラッキー程度でうろうろしてみたんだけど」
「一か八かじゃなくて、先に連絡すればいいのに」
「でも、最近ちょっと疲れてる感じだったろ」
 図星を指されて「まあ、確かに、」としか答えられなくなる。さっきまで、櫂人の連絡を無視して寝ると決め込んでいたのだ。
 ……決心しても、櫂人が目の前にいるとオレはあっけなく櫂人の意向に寄っちゃうんだよな。
 情にほだされるというより、彼にあわせたくなってしまうのだ。それは恋心と違う感情だと信じたいところだが、「無事会えてよかった」なんて屈託なく微笑まれてしまうと、つられて笑顔になる自分がいた。
「今時刻は、二〇時過ぎか」
 櫂人が高そうなスポーツウォッチを見る。男二人に目減りしない背の美保が、交互に視線を合わせてきた。




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