* あい繋ぐ星に【第１３話】 *

明るさに瞼を開け、鳴らなかった目覚まし時計を慌てて掴む。そして、今日という日を思い出した。 　……連休だった。忘れてた。 　ベッドの中で大きく溜息をつき、瞳を閉じる年の瀬。時刻は十一時前だったが布団から出る気力は起きない。真冬の寒さが肌を刺すようになって、休日の引き篭もり癖がすっかりついてしまった。 　起きてもしたいことはない。溜めている家事をする気にもなれない。 　……今日が平日ならよかったのに。 　寝返りを打ちながら、姿勢に反したことを思う。実際、職場では今の怠惰な状態が嘘のようにバリバリ働いている。率先して仕事の手伝いもしているし、時間がなくて放置していたファイルや書庫の整理もするようになった。飲み会が多い師走は気が紛れる。美保に、この時期に無理しないでよ、とか、織茂くんは元気？　とか言われるのは苦痛だが一人で家にいるよりましだ。 　ただ、休日になると気持ちにも反動が来る。外に出たほうが鬱積を発散できるとわかっているのに、全部億劫になってしまうのだ。寒いし、着替えるのは面倒だし、と今のように寝てばかり。起きていても、櫂人のことを考えてしまう。 　……もう全部忘れたい。オレには櫂人を想う権利もないんだ。 　布団をかぶって今日も悲しい気持ちになる。夜景を観に行った日から、彼の姿を一度も見ていないし、声も聞いていない。連絡もない。今月中旬に海外へ行くと言っていたとおり、ドイツにいるのだろうか。すでに帰国しているのだろうか。 　徒歩二〇分の距離が、地球と太陽のように遠い。 　櫂人を怒らせてから、放送関係や広告、雑誌などすべてを本気で避けるようになった。インターネットも櫂人の気配がするから、天気予報くらいしか見ていない。今日は夜半に雪が降るという予報だったから、ますます家から出たくなる。 　どう抗っても冬の空と同じ、毎日灰色だ。このまま新年を迎えてしまうのかと思うとゾッとする。会社もあと数日出社すれば休暇に入るが、正月帰省も憂鬱になっていた。また母親からなにか言われるのではないか。心配事ばかりだ。この休み中、一人で堂々巡りしている。 　……やさしいのは布団だけだよ、もう。 　掛け布団の中にある暗闇とぬくもり。自分でつくったもので自身をまた慰める。悩みは尽きなくても怠惰に過ごしていても、……日頃の疲れが溜まっていたのか。気づかない間に二度寝は成功していた。 　ふと意識が戻る。一日をやり直すように目を覚まして布団から顔を出すと、薄闇が広がっていて驚いた。時刻を確かめる。 　……十六時。って、五時間も二度寝しちゃったのかよ！ 　ショックのあまり飛び起きれば、空気の寒さに全身がふるえた。急いで枕元にあったエアコンのリモコンを押す。ついで、緩く点滅するスマートフォンを手に取った。 　メールは母からだった。誕生日おめでとう、という文面とともに帰省してくる時間が問われている。 　明史は、ようやく今日が自分の誕生日だったことに気づいた。 　世間的にはクリスマス。昔からセットで祝われているせいで、自分の誕生日を大切にする感覚は根っから薄い。でも、一日中寝て終わる誕生日なんてこの三〇年ではじめてだ。 　……さすがにひどい、こんな三十路のはじまり。 　吐き出しそうになる溜息をどうにか飲み込むと、お腹がグウグウ鳴る。昨夜からなにも食べていないことを思い出して冷蔵庫へ直行した。喉の渇きを潤して食材を探したが、ろくなものが残っていない。とうとう大きな吐息が我慢出来ずにもれた。窓の外を見る。 　……本当に雪降ってる。予報、当たっちゃったのか。 　粉雪がチラついている。ホワイトクリスマス。余計、落ち込んだ。 　こんな天気で外になんか出たくない。でも、もうインスタント食品は食べたくない。 　双反する気持ちを何度もぐるぐる回転させて、結局着替えることにした。駅前のコンビニエンスストアでおでんと酒でも買ってそそくさと帰ればいい。 　ダウンジャケットを羽織り傘を持って玄関のドアを押す。二日ぶりに開いた世界から冷たい風が舞い込む。耐え切れずドアノブを引いてしまえば、トンッと反対側からノックする音が聞こえた。 　……なんだ？　誰かいる？ 　気になって次はそっと押す。外は細かい雪と闇だけだ。首を傾げてドアを大きく開き、顔を覗かせた。 　表のドアノブにビニール袋がくくりつけられていた。中が薄く見える。外国の文字。 　寒さが吹き飛んだ。 　すぐ頑丈に縛られていた袋を取って中身を確認する。免税店のショッピング袋らしきもの。二重になった袋の中に丸い缶箱と封筒が入っている。 　すぐに部屋へ戻って電気をつけ直した。封筒は外国のホテルに備え付けられていたもののようだ。一枚の便箋には大きな文字。『誕生日おめでとう』とだけ書かれている。 　名前がなくても、見慣れた読みやすい筆跡に涙が出そうになった。 　櫂人だ。 　便箋を胸に抱えて動けなくなる。 　大学時代、皆がクリスマスを楽しむ中で、櫂人だけは十二月二十五日を明史の誕生日として祝ってくれた。かならずクリスマスグッズには被らないものをプレゼントに買ってきてくれた。 　時を経ても、それは変わらなかった。 　仕事先で自分を想って買ったのだろう。そして、忙しいのにわざわざ部屋の前まで来てくれたのだ。一体いつ来てくれたのだろうか。今日？　昨日？　一昨日？　もう、そんなことはどうでもいい。 　あんなに怒っていたのに、誕生日を忘れず手紙まで添えてくれた彼。言葉にならない感動と深い自責の念にかられた。 　櫂人は縁を切ったわけじゃない。明史を今も待ってくれているのだ。ドアの前まで来たのに、直接顔を見せなかったところで容易にわかる。 　会わなければ、と思った。早く会って、櫂人の顔が見たい。 　強い想いが勇気になった。スマートフォンを取り出して連絡を入れる。本当は電話したかったが、流動的な仕事をしている彼には文字を送るほうが適切だ。 『プレゼントのことで、直接お礼を言わせてください』 　少しよそよそしいが、お伺いではなくお願いにして送信する。嫌だと言われても、自宅にいるなら今からでも向かいたい。 　……クリスマスだけど。お願いだから、家に居てくれ。 　神様へ拝むように手を合わせて目をつむった。一分、二分、三分。 　五分過ぎたのを確認して、明史はスマートフォンをテーブルに置いた。 　……ダメか。そんな物事が都合よく動かないよな。 　肩を落として缶箱を開けた。中身はウィーンで売られているらしいミントチョコレート。食べると櫂人のようで切なくなる。嬉しいのに、心細い。 　祈る思いでチラとスマートフォンを見る。突如、点滅させながらそれがふるえ、心臓が飛び出そうになった。慌てて掴む。カイト、という表記に指がわなないた。 　……櫂人、お願い。 『今、家にいる。一時間くらいしたら出るけど』 　文面を見て、気が抜けたようにへたり込んでしまった。 「神様ありがとう」 　はじめて、同じ日に生まれた神様へ感謝する。でも、本当にお礼を言うべき相手は櫂人だ。 「櫂人の家、行かなきゃ」 　コンビニエンスストアへ行くつもりでいた格好のまま、大急ぎで部屋を出た。通い慣れた最短の往路を小走りで過ぎる。ありがたいことに風は強くなく路面も凍っていなかった。 　傘を畳んでエントランスに入る。いつものようにセキュリティーを解除してくれたことを感謝しながら、彼の家へ辿り着いた。 　インターホンを押す。待ってくれていたかのようにすぐドアが開いた。 　櫂人の姿を見る。出かける前のよそ行きの格好。目が合う。笑顔は足りていないが、嫌われていないとわかる。 　灰色だった世界が、美しく色づいた。 「櫂人」 　玄関の境界でたまらず名前を呼ぶと、表情がわずかに和らいだ。 「中、入ってよ」 　彼のテリトリーに踏み込む。 「忙しいのに、ごめん。玄関先でいい」 　スニーカーを脱がずに言えば、奥へ行こうとした櫂人が招くように片手を動かす。 「リビングまで来いよ。寒いだろ」 　頷いて靴下になり、さらに先へ進んだ。 　一ヶ月くらいしかブランクがないのに、八年のブランクと同等の感覚でリビングを見る。振り向いた彼の前で、明史も足を止めた。 「櫂人、あの、」 　いざ面と面をあわせると気持ちが怯んだ。 　綺麗な瞳、整った顔、世間に愛されているオーラ、長い手足。 　夜景のときに見た、知らない世界の織茂櫂人と対峙している気分になって、言葉が出てこなくなる。萎縮するように視線を下げた。 「明史」 　弱ったような声が聞こえ、ハッと彼を見直す。 　続きが出てこないことを気にする神妙な表情。櫂人の心を振り回していることに気づく。 　……ちゃんと言わないと、気持ちは伝わらない。 「あの、プレゼントありがとう」 　誠実に明るく、を努めて口にした。 「すごく嬉しかった」 　心を込めて伝える。櫂人が頷いた。その姿を見て意を決する。 　……言えるかぎり、あのときの気持ちも言おう。謝るだけじゃなくて。 「それだけじゃなくて、ごめん。本当にごめん。あのときのことは、」 　気持ちに余裕がなくて、一緒に住むっていうのには色んな心の整理がつかなくて。 　そう話そうとしたけれど、寸前になるとやはり言葉が詰まった。嘘ではないのに、また嘘を並べているような気になった。 　……櫂人のことが好きすぎて一緒に住むのは無理だった。って、本当のことを言うべきなんだ。でも無理だ。オレにはどうしても無理だ。 　怒らせた夜に渦巻いた苦しい想いが、再び喉に絡む。その惑う眼をじっと見つめる櫂人の瞳。 「もう、いいよ」 　静かな声がした。この間、車の中で聞いたのと同じフレーズだが、あのときよりもやさしい。理由を求めないという寛容さに、胸がきゅっとした。 「ごめん」 　甘えるまま頭を下げる。 「うん」 　と、返ってきた。自分の身勝手さを許してくれたのだと知った。 　……子どもなのはオレのほうだ。情けない。でも、助かった。 「あのさ、明史」 　追求しないことにしたようだが、含みをもたせた声がする。ドキッとして頭を上げる。 「ひとつだけ、お願いがある」 「お願い、うん、」 　なんだろう、と構える。償いか拒絶か。 「もう嘘だけはつかないでほしい。俺も、つかないから」 　暗いことを考えていたが、実際は違った。お願いしてきたのは当たり前の約束事。してはいけないことを平然としていた自分たちを戒める一言に大きく頷いた。 　嘘をつく愚かさを身をもって知った。これ以上、自分の大切な人を悲しませることだけはしたくない。 「つかない。ごめん、もう絶対につかない」 　すると、ようやくホッとしたような表情を見せてくれた。凍っていたものが溶けた気分になった。 「イタリア語は、まだ勉強したいんだ」 　続いた彼の言葉に、さらに心が明るくなる。 「その気持ちは本当だから、またこうして会ってくれるよな？」 「うん。空いてる日にち教えてくれたら、都合あわせる。オレもがんばるから」 「ありがとう。また、よろしく」 「こちらこそ。本当に、ありがとう」 　オレを許してくれて。 　言わなかった後の言葉を汲んだように、彼が微笑む。明史もようやく口元を緩ませた。 　……笑顔が見れてよかった。 「そろそろ出ないと。悪い、来たばっかりなのに。車で送る」 　用事があると知っていたのだから、謝られるのも悪い。 「こちらこそ忙しいのに、ごめん。送るのはいいよ」 　そう答えたものの櫂人が聞かず、駅前のコンビニエンスストアまで連れてってくれることになった。 　促されるまま地下駐車場へ降りて、助手席に乗る。地上に出るとまだ雪が舞っていた。クリスマスであることを思い出す。 「クリスマスプレゼント。なにか欲しいのある？」 　施したい気持ちで訊ねる。彼は思いもしなかったように、チラと目を向けた。 「いや、いいよ、そういうのは」 　言った直後、なにか思い当たった表情になった。 「欲しいのあっただろ」 　当たったらしく、噤んでいた口が唸りながら開かれる。 「んー、明史が面倒じゃなければ、なんだけど」 「なに？」 「昔たまにつくってくれたやつ、あったよな。料理で」 　大学時代、明史が自炊していたことを思い出したのだろう。櫂人のぶんもよく用意して、一緒にご飯を食べていた。簡単な料理ばかりだが、今でも気が向いたときにつくっている。 「親子丼」 　少ないレパートリーから、最もつくっていた料理名を口にした。明史自身の好物だ。 「そんなのでいいの？」 　返しつつも、なんだか嬉しくなる。 「うん、明史の親子丼食べたい」 「じゃあ、今度櫂人のうちでつくるよ。でも、家に炊飯器ないよな？」 「あ、えっと、すぐに買う。明日通販でもして」 「いや、そこまでしなくていい。オレの家に炊飯器あるし、用意は全部こっちでするから。うち近いんだし」 「したら頼む。すげー、嬉しい。楽しみだ」 　美しい横顔は輝いていた。とても満たされたような表情。 　……もっと喜ぶ櫂人の顔が見たい。早く、親子丼をつくってあげたい。 　痛烈に思いながら、短い二人きりの時間が終わる。コンビニエンスストアの手前で停まってくれた車を降りて傘をさした。 「気をつけて行ってこいよ」 「そっちも。また連絡する」 　雪が舞う。彼の青いスポーツカーを見送りながら、明史は今までにないほど幸せな気持ちに満たされていた。寛容な櫂人に感謝する。縁が続くことを、愛しく想う。 　……もっともっと大切にしよう、櫂人のこと。ずっと大切にしていたい。 　そして、友達として接する、という信念もまた変わらず貫いていこうと心に誓った。

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