* あい繋ぐ星に【第15話】 * |
電車に揺られている間、何度も記憶を反芻させたが首をひねるしかなかった。やはり、一緒に住む話が出たとき以外に『振られた』という単語が出てくる出来事はない。 ……斉藤の言い方的にも、別の人に振られたわけではないよな。当時の櫂人に好きな人がいたのかもしれないけど。 はじめて女優とスキャンダルを起こして、芸能ニュースに出たときのことを思い出して目をつむる。大学時代の気持ちがようやく昇華できたと安堵していた矢先。まさかの方向から来た新たな謎に大きく心を動かされた。 ……いっそ櫂人に聞いたほうが早いか。でも、こんなデリケートな質問できるわけない。オレもまだ心の準備ができないよ。 振動が止まり、眉を寄せて視界を開ける。目に飛び込んできた駅名に、慌てて人をかきわけてプラットホームへ降りた。立ち尽くしたまま動く電車を見送って息をつく。 自分が混乱しはじめているのはわかっている。櫂人の言葉だけじゃない。あの大嘘が他の友人たちの誤解と波紋を招いていたとは。 ……正しくは誤解じゃない。オレは学生時代、間違いなく櫂人に片想いしていた。 雄哉と楽しく酒を飲んで終えるはずだった今日。こんな気持ちにさせられるとは思わなかった。 ……なんでいまさら、こんな新事実が出てくるんだよ! 斉藤には墓場まで持っていってほしかった。もしくは、前回の夏の居酒屋でこの話をしてほしかった。そうしたら櫂人との再会も回避できたのに。 頭から櫂人のことをかき消そうと止まっていた脚を動かす。すぐに駅員と目があって、自分が観察されていたと気づき恥ずかしくなった。 小走りで地上へ出る。空気の冷たさが肌に響くと、同時。スマートフォンがふるえた。 〇時を過ぎて連絡をしてくるのは櫂人くらいだ。一転して不可解な人物となった男からのSNSに複雑な想いが増幅する。 ……今あんまり、櫂人と会話したくないんだけど。 未読のままにしようと思ったが、それも身勝手すぎる気がして画面を開く。 『かなり、マジ、ヤバイかも』 明史は立ち止まって凝視した。深刻そうな言葉の羅列に現実が戻ってくる。 ……また突然なんだよ。なにやっちゃったんだ? 昔に比べて頻度はすごく減っているものの、時折なにかをやらかした報告が来る。こないだは、明史がいれてくれたココアを自分でつくってみる、と言い、高級なミルクパンを真っ黒に焦がして凹んでいた。 今回もヘルプが必要な失敗をしたのかもしれない。映画の撮影はまだスタジオ中心で、来月からロケが多くなると話していたのだ。家にいる確率は高い。 『どうした?』 帰路を歩きながら返す。今日は木曜日だから、家へ向かうとしても明日以降になる。 『咳が止まらない』 しかし、続いた通知にもう一度足が止まった。 『熱も出てるっぽい』 ……えっ、インフルエンザ? 本当にヤバくないか? 文面を見て、すぐに流行病が頭に浮かんだ。先週、上司の美保もインフルエンザにかかって出社できなくなっていたのだ。そのせいで急な残業に追われ、櫂人との約束をキャンセルせざるを得なくなったのだが……会わない間に櫂人も罹ってしまったか。 ……けど、この間予防接種したって家で言ってたよな。 その発言と予防接種の効果を信用したい。でなければ、看病に行けないし彼の仕事も大幅に滞る。織茂櫂人は替えが利かない存在なのだ。 『今、家? 明日は仕事か? どうにか時間つくって病院行ってこい』 言いたいことをまとめて送る。頭はまだ働くようで返信は早い。 『家にいる。明日も仕事。時間ないけど頼んで行く』 『お願いだからそうしてよ。明日夜はそっちに行ける。インフルエンザなら無理かもだけど』 『無理しなくて来なくていい』 『大丈夫。歩いていける距離だろ。まずは陽性か陰性か調べてこい』 『そうする。また連絡する』 ゆっくり休んでくれよ、と返して脚を止める。自宅前。後ろ髪を引かれる思いでドアを開けた。 翌日は雄哉の話もすっかり忘れて、ずっとそわそわしていた。主演の映画撮影と体調不良というダブルパンチを受けている櫂人が心配で、逐一スマートフォンを確認してしまう。復帰したばかりの美保に「なにかあったの?」と訊かれてしまうほど。櫂人と食事したことがある上司とはいえ、有名俳優のプライベートを容易く話すわけにいかず、言葉を濁すことしかできなかった。 もどかしい気持ちのまま出張の打ち合わせが終わり、デスクに戻って時計を見る。櫂人はまだ撮影中だろうか。 書類を置いて一息ついた。その瞬間、ポケットにおさまっていたものがふるえ、すぐさま掴み取った。 『インフルエンザじゃない。普通の風邪だって』 ……そっか、風邪か。よかった。 退社前に待ち望んでいた一文。大きな安堵に包まれた。点滴もして少し楽になったらしい。 マネージャーにもお願いしてなんとかがんばる、とのことだが、状況を考えると自分が看病しに行くのが最善策だ。幸い今夜から翌々日まで休みで、かつ家も近所。それに、一人暮らしでゴホゴホしながら寝込む心細さは明史も経験している。 『夜そっちに行くから、帰宅したら絶対に連絡してこいよ』 命令に近い文を送って仕事の整理をする。帰りがてら、ドラッグストアとスーパーへ寄って必要なものを揃えた。学生時代、櫂人を何度か看病していたことも思い出す。懐かしい心地になった。 家に着いて夕食と風呂を終わらせる。用意をしつつ、スマートフォンを気にしていると、二十三時過ぎて通知が鳴った。 『帰ってきた』 『おかえり。体調は?』 『きつい』 数十秒おいて届いた三文字に、明史は掛けてあったコートを羽織った。 『これから行く。待ってろよ』 手早く文字を打って自宅を離れる。冬の底を漂う深夜の空気。白い息を吐きながらトートバッグと手提げ袋を持って走った。 綺麗なエントランスを抜け、セキュリティーの解除を待つ。いつもより遅いのは、それだけ櫂人の動きが鈍っているということだ。そのとおり、玄関を開けてくれた彼は壁に凭れてどうにか立っている状態だった。 マスクと上下の黒スウェット、潤んだ瞳、赤っぽい耳。 「ごめんな、こんな」 「いいよ。櫂人、早くベッドに戻って」 見るからに病人の櫂人が頷いて、よろよろと動き出す。スニーカーを脱いですぐサポートしたが、彼の長い脚は寝室ではなくリビングへ向かっていた。 ベッドで寝ろよ、と言おうとした途端、ひどい咳がはじまった。前のめりになる彼を慌てて支えてソファーへ誘導する。ゆっくり座らせて背中をさすると、ようやく咳がおさまった。 喉を気遣うように深呼吸するのが皮膚から感じられる。体温も高いようだ。 「落ち着いたか?」 「肋骨、痛い」 くぐもった声も疲弊している。長く苦しい咳き込み方を何度も繰り返しているのだろう。 「キツい風邪、もらっちゃったな。薬は?」 「飲んだ。熱はいいけど、咳が、マジ、ッ、ゲホッ」 「ごめん。もう、喋らなくていいから」 見ているだけでも辛い。早く落ち着くことを祈りながら背を撫でる。 時間をかけて呼吸が整ったのを確認し、丸まっていた身体をくつろがせた。脚の長い彼にソファーの横幅は足りていないが、本人は安心したようにマスクを下げる。 「ありがとう、助かった」 開いた瞳に素直な気持ちが映る。明史は来てよかったと心から思った。そして、できるだけのことをしてあげたい、彼を一人にさせたくないという想いが溢れてくる。 「腹は減ってる?」 「うーん」 「胃も気持ち悪いか?」 わずかに首を振った彼が、途切れ途切れ状態を話してくれた。 本当にキツイのは咳だけ。鼻はさほど詰まっていないし頭痛もない。でも、ぼーっとしていて少し悪寒もある。空腹かどうか自分でもわからないが、胃腸までおかしくなるのは避けたくて、あえて食事は摂らなかったそうだ。今日は点滴とゼリータイプの栄養補助食品だけ。 ……栄養は摂っておかないと身体がもたないからなあ。 「うどんくらいなら食べられる感じ?」 食べてほしいという願いを込めて尋ねてみる。彼は身体と相談するように目を閉じた。数秒して、小さく頷く。 「なら、今からつくるよ。そんな時間はかからないから」 安心させるように言って立ち上がると、廊下に置いたままだったバッグを拾ってキッチンへ入った。早速、必要な食材を取り出す。 うどん、ネギ、生姜、卵、スープのもと。残りはガランとした冷蔵庫におさめる。水を張った鍋に火をかけて着々と用意をする間、リビングから辛そうな咳がまた響いてきた。 ……これじゃ、台詞を言うのもキツイだろうな。櫂人の仕事は簡単に休めるものじゃないし。 本人の言っていたとおり、高熱ならば撮影に影響はないかもしれない。しかし、咳はカット対象だ。余計にプレッシャーもかかっているだろう。 早く治りますよう心を込めて、お汁に摩った生姜を入れる。完成した卵とじうどんをテーブルまで持って行き、カーペットに座った。ソファーで横になっていた櫂人も、ゆっくり身体を起こして明史に倣う。 「無理して全部食べなくていいからな」 マスクを取った彼に念を押す。そして、うどんに向かう姿を慎重に観察した。恐る恐る食べはじめた櫂人は、少しずつ明るい表情を見せた。やはりお腹が空いていたのだろう。 咳と戦いながらも完食してくれた。食欲があって、自分で食べられるのならばまだなんとかなる。風邪が回復する兆しがみえてホッとする。 「も、寝る」 そう訴えるのに付き添って寝室へ向かう。ベッドにおさまった櫂人と視線が重なった。 「うどん、おいしかった」 感想を今回も忘れずに言ってくれる。明史の頬もほころんだ。 「またつくってやるよ。薬は先に飲んだんだよな? 額を冷やすやつとスポーツドリンクと……栄養ドリンクもいるか? それと、突然気持ち悪くなるかもしれないから桶みたいなのも横に置いとく」 「うん。ドリンク、置いといて」 「わかった。明日も早いんだよな? あとは全部やっとくから寝てろよ」 彼は頷く代わりに目を閉じた。すぐに寝室を出て必要なものを揃えて戻る。咳が和らぐことを念じつつ、綺麗な額に冷却シートを貼ってあげた。心配で心配でずっと看ていたかったが、……朝の準備をしなければならない。 明史は彼から離れて片付けに入った。朝食はお粥。起床から家を出るまでの時間は短いだろうから、夜中の間につくっておく。キッチンと寝室を細かく往復しながら家事をこなしていれば、瞬く間に時が過ぎる。 最初の一、二時間は咳をしていた櫂人も、すべて終える頃には静かに寝息を立てていた。午前四時。明史もさすがに睡魔から逃れられず、彼の横に簡易マットレスと布団を敷いて滑り込む。意識はすぐ遠のいた。 着信音が高らかに側で鳴り響き、ハッとして目を開けた。 |
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