* あい繋ぐ星に【第16話】 * |
聴き慣れない音はすぐ途絶えて、次に聞こえた男の声に急いで身体を起こす。ベッドで同じく上半身を起こしていた櫂人と目があった。 「あと三〇分で。……うん、昨日よりは。……はい、……ちゃんと下に降りとくよ」 ワープした気分で時計を見る。看病の前まで会社で仕事をしていたのだから、自分もだいぶ疲れが溜まっていたのだろう。風邪が移っていないことに少し安心する。 ……三〇分しかないなら、急がなきゃ。 寝床から出ると電話を終えた櫂人が咳き込みはじめた。痰が絡むような咳はさほどおさまっていないようだ。身体を折ってゲホゲホと繰り返す彼に寄り添い、背をやさしくさすった。 「咳、まだひどいな」 涙目の彼が呼吸を取り戻して、口を開く。 「いや、少し、楽になった」 確かに声は昨夜より明るい。でも、心配で手を伸ばす。 「熱は?」 額に触れると櫂人が目を閉じた。 「下がったと思う」 確かに熱は引いているようだ。今日一日寝ていられればもっと早く完治できるのに、と痛切に思いながら頬にも触れる。彼の瞼が動いた。 「このままでいたいけど、行かないと。撮影に穴は開けられない」 強く潤んだ瞳で言われる。華やかな職業の苦しい一面に、明史はどうすることもできず頷いた。 ……オレができることは、櫂人がこれ以上苦しまないように陰で支えることだけ。 これからシャワーを浴びると彼が立ち上がる。朝食を加熱する時間が取れると知って、洋服を取り出す後姿に声をかけた。 「櫂人。朝ご飯あるけど、食べるか?」 「いいよ、無理しなくて。時間ねえし」 「昨日のうちに、お粥つくっておいたんだ」 はじかれたように櫂人が振り返る。パチクリと瞳を開いてビックリした顔だ。 「わざわざ、お粥つくってくれたの?」 「うん。いらないならオレが食べるからいいけど」 驚かれるほどのことではないと思ったが、次にあらわれた笑顔には明史も目を奪われた。 「俺も、お粥食べたい」 ……よかった。笑顔が見れた。 明史も自然と微笑んだ。櫂人はやっぱり笑顔が一番いい。テンションも上がってくれたようで、緩慢だった動きも速くなった。彼がバスルームにいる間、急いで食事の用意をする。 お粥と梅干しというシンプルな朝食に、生姜湯。薬を服用するための白湯も置いておく。 櫂人は十五分もせずリビングへ戻ってきた。襟のついたシャツに厚手のセーター。ファッションより防寒を重視した格好だが、スタイルがいいから様になる。とても風邪を引いているとは思えない。 チェアに座ると、またひどい咳をはじめた。しかし、昨日より止むのは早く、落ち着いた櫂人はすぐスプーンを持った。 「いただきます」 辛そうな表情から一転、嬉しそうにお粥を食べはじめる姿には、ついつい見惚れてしまう。食欲はあるようで瞬く間に平らげた。 彼は、次にマグカップを見る。 「生姜湯だよ。喉にいいから」 市販の生姜湯の粉に、摩り下ろして絞った生姜とハチミツを追加したものだと説明した。喉が少しでも痛くなるとつくる簡単な飲み物だ。 久しぶりにつくったなあ、と思いつつ、櫂人がマグカップを傾ける向かいで明史も口をつける。視線を戻せば、すぐなにか言いたそうな瞳を見つけた。 「この味ダメだった?」 「いや、うまい。すげえ好み」 嬉しそうに飲み干した。大学時代には出したことのない代物だったことも思い出す。 「よかった。お代わりあるよ。お粥も」 「生姜湯、飲みたい」 明史はガラスポットを取りに行く。マグカップにこぽこぽと注ぐと、また美味しそうに飲んでくれた。 櫂人はテーブルにカップを置くなり、目を輝かせて口を開いた。 「明史、これ持って行きたい。待ち時間に飲むから」 「いいけど、つくりなおす時間あるか? あと、入れるボトルは?」 「あ、ボトルがない」 たちまちしゅんとした顔になる。その変化が面白くて口元が緩んでしまった。 「またつくってやるから。もう、出る時間だろ」 渋々薬を飲んだ彼が席を立つ。その様子を見ながら、ふと我に返った。 ……そういえばオレ、このまま家にいたほうがいいのか? 櫂人の看病に気が向きすぎて、彼が出勤してからのことをまったく考えていなかった。しまった、と、スプーンを持つ。 ……一緒に出たほうがいいのかも。 お粥を流し込むように一気に食べた。食器を流し台に置き、忙しく自分の荷物を集める。 すると、用意を終えた家主が声をかけてきた。 「明史、ちょっといいか」 真面目な顔で前に立たれる。長く綺麗な手の上にすぐ視点が定まった。 銀色の特徴的なかたち。 「頼む」 鍵だ。 まじまじと見つめてしまったが、今は事情が事情だ。一人きりでこの風邪と戦うのは辛いだろう。 「わかった」 素直に受け取ると櫂人が胸を撫で下ろした。救われたと言わんばかりの表情を見つつ、今日のことを尋ねる。 「何時に帰ってくる予定?」 「昨日と同じくらいになるかなあ」 「そっか。夕飯はどうする?」 「体調によるから、食べられるかどうか帰る前に一度連絡するよ」 「そうだな。食べたいものがあれば先に連絡くれよ。生姜湯もつくっておくから」 「ありがとう。本当に助かる」 「うん。お願いだから、無理はするなよ」 歩きながら話を終え、櫂人を見送り玄関を閉めた。時計を見ると、ちょうど三〇分。仕事へ送り出せた安堵で息をつく。 それもつかの間、櫂人の家に留まっていることに違和感が出てきた。 ――あのとき間違いなく言ってたよ。明史に振られたって。 合鍵を見つめると、雄哉の言葉がリフレインした。 櫂人の風邪のせいで、すっかり吹っ飛んでいた問題発言。どういう気持ちで言ったのか問いただしてみたいけれど、……櫂人とは友達として接するのだ、と、固く心に決めている。 ただ、こうして彼の合鍵をもらい、留守を預かる現実に放り込まれると話は別だ。感情は揺らいで過去を思い起こさせる。 まるで八年前の、一緒に住むことを選んだ自分、になってしまったみたいだ。 ……でも今はしょうがない。櫂人の風邪がひどいんだ。鍵は治ってから返せばいいことだし。 同居の延長線上に立っているような不安を、理性で必死になだめる。 すると、もう一度。 いじわるな自分の声が反響した。 ――オレが都合のいい人間だったからじゃないかな。 グサッと胸に刺さったが、へこたれず強く頭を振った。 確かに、風邪で苦しいときの看病係として自分は好都合かもしれない。けれど、看病したいと思ったのは明史自身だ。最初から頼まれたわけでもないし、合鍵も渡されたのも看病の仕方が良かったからだろう。 ……それに、他の人間にこの役をとられるより全然ましだ。 無意識に出てきた本音。ハッとして顔を上げ、懺悔した。 ……違う。そういうことは思っちゃダメだ。友達のカテゴリーに反する。 「オレも、一旦うちに帰ろう」 宣言するように呟いて、リビングへ戻った。洗い物と寝床の片付けをして、玄関ドアを閉める。鍵を差し込んだときに起きた妙な心地を、また強く振り切って廊下を歩く。 大学時代は部屋が隣同士で合鍵は必要なかった。在宅のときは常に施錠が開いていて、どちらの互いの部屋を自由に行き来できていたのだ。 ……オレの稼ぎじゃ、このマンションなんてとてもじゃないけど借りられないもんな。 小さいことばかり考えている自分を情けなく思いながら、地上に降りる。肌寒い朝。通うたびほのかに香っていた梅花が、すでに新芽を出していると気づく。 ……一年って、早いな。櫂人と再会してからは特に。 気分転換に大きく回り道をして帰宅した。溜めていた家事をこなしていると昼過ぎに通知が届く。『昨日のうどんが食べたい』というリクエストに応えてスーパーへ赴いた。 今日の夕食分だけでなく、身体にやさしいお菓子や生姜湯の材料もたくさん買った。生姜湯は櫂人でもつくれるよう、下準備をするつもりだ。用心して仮眠もした。 櫂人の帰宅予定時刻より、一時間早くマンションへ向かう。エントランスのセキュリティーを解除するのははじめてで、少し緊張した。人気のない廊下。その先にある玄関を開ける。 暗く冷たい室内。電気と暖房をつけて見回せば、なぜか自分のアパートよりも寂しく感じられた。櫂人がいないせいかもしれない。広い家で羨ましいと思っていたが、心細さも生まれやすいと知る。 ……すぐ帰ってきてくれないかな。って、オレもワガママだな。 バッグに入れていた食品を冷蔵庫へおさめていると、まもなく『あと一時間で帰る』という一文が届いた。早く櫂人の顔が見たかった。 時間どおりに彼は帰宅してきた。 だが、見るからに容体が良くない。靴を脱ぐなり大きく咳込みはじめた。 「櫂人、大丈夫か?」 膝から崩れた彼を支える。身体は熱っぽい。風邪がぶり返したようだ。 「夕、方、までは、もってたけど」 咳が止み、櫂人が肩で息をする。ソファーへ連れて行き、詳しく状態を聞いた。昨夜と似た感じの辛さだという。食欲はあるようで、卵とじうどんをつくると食べてくれた。 安心した様子の彼へ生姜湯を渡す。すると、バッグを取ってほしいと言ってきた。 「バッグってコレ?」 「それ。中に、アレ、あるから」 頭が回らないらしく、商品名を言わず受け取ったバッグを漁っている。出てきたのは有名メーカーの青いステンレスボトル。 「買ってきたのか」 「うん、頼んだんだ」 その言い方だと、マネージャーか誰かに買ってきてもらったのだろう。 「これで明日から生姜湯持っていけるな」 明るく言うと、弱々しく櫂人が微笑んだ。明日も同じ時間に家を出ると言うので、有無を言わせず寝室へ押し込む。再度病院に行ってもらう約束もした。 翌朝は、かわいそうなくらいだるそうに起きてきた。 咳で何度も起きてしまうせいで、睡眠不足になっているのだろう。心配のあまり彼の次のオフを訊いたが、ちょうど仕事が詰まっている時期で休みが取りにくいらしい。 「次の水曜日、午後から空けてもらった」 お粥を緩慢に食べながら、櫂人が教えてくれる。オフまでは精神力で乗り切るつもりなのだろう。 「頼むから、倒れそうになったら助けを求めろよ」 「うん。ひどいの、咳だけだから」 そう答えながら、また肋骨が軋むような咳をしている。咳喘息か肺炎を疑ったほうがいいんじゃないか、と思うほどだが、これ以上はどうすることもできない。 胸が痛むまま、櫂人を仕事へ送り出した。心配したところで明史自身にも仕事がある。明日から平日だ。 ……肺炎になってないといいけど。でも、いっそ肺炎になったほうが休めるかもしれないよな。って、撮影に穴は開けられないなんて櫂人が言ってたのに、オレはなんてことを考えてるんだバカ者! 気持ちをなんとか落ち着けるため、自宅へ帰る。 ……今夜まで看病に徹して。次回は水曜日の退勤後、様子を見に行こう。 家のことや明日の用意をしながら決意して、また夜遅く彼の家へ脚を運んだ。 それが失敗だった。 連絡より一時間遅く帰ってきた櫂人は、微熱を抱えてひどい状態だった。点滴をしたのにだるそうな様子は放っておけず、前言撤回して朝まで留まることに決めた。 ……すっかり引きずられちゃってるけど。でも、こんな櫂人を独り置いて帰るなんて、オレには無理だ。 なんでも億劫がる彼にどうにか栄養を取らせて寝かせる。眠る姿すら痛々しく、ベッドを覗いて神様に祈った。明日から平日という現実がもどかしい。でも、毎日通うのは止めたほうがいいと理性が警告する。 ……オレもこれから海外出張でバタバタなんだ。もう、なんでこういうときって色々被ってきちゃうんだろ。 大きく溜息をついて、ソファーで仮眠することにした。スマートフォンをアラーム代わりにして目を閉じる。睡魔はすぐに訪れた。 |
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