* あい繋ぐ星に【第19話】 *


 帰宅すると疲れが一気に出てくる、咳がまだおさまらない、と、櫂人がSNSで訴えてくるものだから、休日に顔を出した。治りそうで治らない、二歩進んで一歩下がるような彼の風邪。
 看病に行くかどうかは、直前まで本当に悩んだ。
 なにも知らないままでいられたら、どれだけ楽だっただろう。傷ついたとしても浅いままで済んだ。気軽な友達付き合いを続けられた。
 でも、今は辛い。地面がずっと揺らいでいるような気分だ。櫂人にとって一番大切なひとが誰なのか。昨日も考え込んで寝つけなかった。
 ……大切なひととか、本命とか、太陽とか。櫂人は色んな言葉を曖昧に使いすぎなんだよ。全部、イコールで一人のひとなのか? すると、それは誰だ?
 本人は本命がいない素振りを見せているが、それは三ヶ月以上前の話で、今はいる可能性がある。櫂人が体調を崩すまで、去年より会う時間は減っていたのだ。SNSでのやり取りは、同時並行で毎日何人ともやれる。彼の友人たちが美人揃いで煌びやかな職業なのも知っている。自分の取り得の無さにも落ち込んでくる。
 疑心暗鬼は、よくない兆候だ。
 マネージャーと雄哉の発言から、自分が櫂人の大切なひとである確率は高いというのに、それで満足できていない。
 もっと違うなにかを求めている自分がいた。
 確実な想いが欲しい、という身勝手な気持ち。
「明史」
 呼ばれた声に、ビクッと身体をふるわせた。ボーっとしていたことを悟られないよう、菜箸で泳ぐ素麺をかき回す。キッチンに、台本を読んでいたはずの張本人がやってきていた。
「なんか手伝うことある?」
 肩が触れそうなほど近い。鍋を覗く櫂人に、顔を向けることができないまま首を振る。
「ない。もうすぐ茹で上がるから」
「じゃあ、箸とか先に持ってくよ」
 そう言った櫂人が、食器棚を開けた。ついで冷蔵庫から飲み物を取って出て行く。緊張してしまった自分を諫めるように、明史はゆっくり息を吐いた。茹でた素麺をザルに移して洗い、丼鉢に分ける。かきたまにした汁をいれ、薬味を乗せる。
 櫂人にはデリバリーにしようと言われたが、ゲホゲホしながらメニュー表を渡されても選ぶ気になれなかった。素麺が残っていたから、温かいにゅう麺をつくった。物足りなくても、この家には貰い物の焼き菓子がある。明史が買ってきたお団子もある。
「やっぱり、手づくりが一番だなあ」
 食事がはじまって、彼が呟いた。明史は複雑な気持ちで麺をすすった。
 今まで、櫂人は何人の手づくりご飯を自宅で食べてきたのだろうか。家族やプロのものでなく、付き合ったことのあるひとや、愛しいひとの手料理を。
 ……考えるな、苦しくなるだけなんだ。飯も美味しくなくなる。別に美味しいってほどの料理はつくれないけどさ。
 自虐的な気持ちになったつかの間、声が聞こえた。
「あったかい素麺って久しぶりに食べたけど、うまいな」
 目をあわせれば、彼の本心だとわかって嬉しくなった。単純な自分。櫂人の言葉ばかり、この家に来てから追っている。
「俺が片付けるよ」
 申し出た櫂人に食器をまかせ、甘い生姜紅茶を用意した。仕事に出るのは十七時からで帰宅は朝方だ、と予定を聞いているから、あと四時間は一緒にいられる。来週から、より変則的に活動するらしい。
 ……今日こそは、それとなく訊いてみるんだ。雄哉の言ったこととか、マネージャーさんの話を出して。
 ソファーへ腰を下ろすと、自宅で決意したことを復唱した。  看病という名目はあったが、櫂人から真意を引き出すつもりで来たのだ。大学時代の過ちを繰り返さないように。ちゃんと気持ちが整理できるように。
 キッチンから出てきた櫂人を見れば、ラックへ足を向けていた。映画などのディスクがたくさん揃えられている棚。そこからひとつ取り出している。
「これ、観ていい?」
 こちらへ歩きながら尋ねてくる。
「うん。櫂人が出てるやつか?」
 マルチレコーダーを起動させる彼が、ディスクを入れつつ答えてくれた。
「そう。俺が二十六のときの」
 大学生の役だぜ、と笑いながらリモコンを手にして隣に座ってくる。
「その映画、なんかあるの?」
「演技がけっこううまくいってるやつだから……気合入れみたいになるかなって」
 渡してきたパッケージは、爽やかな色。そして、若い男女とキャスト名。
 夏季休暇に帰省した主人公の恋愛物語らしい。
 映し出された画面には、夏草が揺れていた。未舗装の道。女の子がキャリーを引ききれず悪戦苦闘している。かわいらしい華奢な彼女が主人公だ。
 視線を液晶画面に固定すると、まもなく沈下橋を歩くTシャツ姿の男があらわれた。
 今より少し若い櫂人。出逢いのワンシーンだけで、青春の甘酸っぱい薫りが心に広がる。
 横でマグカップを持った本人が、口を開いた。
「のどかさんと会ったよ。明史くんは元気かって」
 突然関係のないことを言い出す。意図が読めなかったが、それより一度しか会っていないデザイナーに名前を覚えられていることが、少し不思議だった。
「彼女は元気なの?」
「すっげー元気。朝まで飲んでたとか言ってたし」
 想像どおりだ。櫂人ものどかを女性として意識していないのはわかっているから、安心できる。
 ……彼女、男以上にパワフルそうだもんな。
 生活リズムも普通とは程遠いのだろう。そんな一般人ではない二人の間で、どうして自分が話題に上がったのか気になった。
「それで、オレのこと、なんか話したの?」
 さりげない詮索に、櫂人は気にせず答えてくれる。
「俺が今こんなんだから、看病に付き合ってもらってるって言ったら笑ってたぜ。時間がちょうど空いてたから、まあ、ほかにも色々立ち話できたよ」
 ……笑ってたのかあ。ほかになに話したのかな。
 でも、これ以上しつこく聞くのは憚れた。櫂人の世界は、櫂人のものだ。
 ……オレが聞いても、さっぱりわからないことも多いだろうし。
「ここ、四国なんだよ。高知で有名な川があって」
 カップを置いた彼が映画の話に戻す。「四万十川?」と言ってみれば、「そうそう」と、ロケ地の説明をしてくれた。
 その間に続いていく物語。映像がとても綺麗だ。台詞は多くなく、表情や所作を魅せる映画のように感じられた。自然やペットの犬や猫など、登場人物の視点がカメラワークと重なってより心情豊かに魅せている。
 ぽつぽつ話していた櫂人が口を閉ざすと、映画の音声だけになった。照明をつけていないリビングにこぼれる陽光。春分前の淡い金色は映像と相俟って、ノスタルジックな気分にさせられる。
 主人公が、大学での悩みを役になりきっている俳優の櫂人に話しはじめた。それが妙に懐かしく自分を見ているように感じられた。
 専攻決めのときや、アルバイトを探すとき、進む道を決めるとき。学生の明史も彼に色々相談していたのだ。気軽に胸の内を話せたあの頃が蘇る。
「ごちゃごちゃ考えるより、ワクワクするほうを選んでみれば?」
 画面から聴こえてきた台詞に、ハッとして櫂人を見た。
 同じことを言われたことがあったからだ。
「この映画、大学の頃を思い出しながら演じたんだ」
 視線は合わず、彼はテレビを真っ直ぐ見つめたまま答えた。
「あの頃に、戻りたいな」
 続けて、ポロリと落とした一言。明史は不意を打たれて隣を見直す。
 ……大学の頃に? どういう意味で、言ったんだ?
 大きく鼓動が跳ね、落ち着かなくなる心。
 おさまりきれず訊いてみたくなったけれど、櫂人の咳に憚れた。気管支にダメージを負っているせいか、一旦咳き込むと止まらなくなる。厄介な風邪から一刻も早く解放されるよう祈りながら、背中をやさしくさすってやった。
 喉と肋骨を痛めている彼が、甘えるように上半身を丸めて傾ける。
 次の動作を、明史はなんとなく察していた。ソファーから逃げるべきだったかもしれないが……どちらを選んでも後悔しか生まれない。
 櫂人の艶やかな髪が、太腿に当たった。
「楽になった」
 咳が止まり、安心したように彼が息を吐いた。膝枕。その重みを黙って受け止めた明史は、現実を上手に咀嚼しようと目を閉じる。
 ずっと遠ざかっていたスキンシップ。櫂人は風邪を引いてから、大学時代の感覚に戻ってしまったようだ。これが雄哉だったら緊張しないし、気持ち悪いと一蹴したりかわしたりできる。でも、櫂人は違う。拒めばいいのに、拒絶した後のことを想像すると怖くてなすがままだ。息ができないほどドキドキして、それを知られないために必死になる。
 心の底では、櫂人に求められたいのだ。
「会うたんびに、よくいいにおいさせてるよなあ」
 平然と言ってくる彼に返せる言葉はない。良い香りに反応する櫂人を意識して自社のクリームやオーデコロンをつけているのを勘付かれたくなかった。
 複雑に巻きつく感情の前で、青春を見せ付けるように、駆け引きの少ない学生二人の恋愛が続いている。明史はそっと目を開けて、大人になった自分を取り戻した。
「なあ、明史、」
 見上げる櫂人が名を呼んだ。肌がふるえるくらいドキッとしたが、理性でこらえて視線を落とす。間近の彼と瞳が重なった。
「俺ががんばったら、嬉しい?」
 奇妙な問いかけに、わずかな不安の陰を絡めとる。櫂人はなにを考えているのだろう。わからないけれど全部吹き飛ばしたくて、すぐ口を開いた。
「嬉しいに決まってるよ。当たり前だろ」
「……それなら、このままでもいっか」
 独り言を呟いて頬を緩ませた。明史の心情を知らず、瞼を伏せる。肌に伝わる男のぬくもり。五月蝿いままの心臓の音。
 明るい笑い声に、はじかれて顔を上げた。画面上にいる少し若い櫂人が自転車を引いて、主人公の女優と笑っている。
 イラッとした。
 疑いようもなく女優への嫉妬だった。本物は今自分の膝の上で眠っている。でも、映画の役の女に櫂人が取られた気持ちで一杯になった。
 自分でもどうかしている、と思う。でも、敗北感と妬みが胸を巣食う。
 かわいい顔の主人公が無邪気に櫂人の腕を引っ張った。次になにをするのかと睨めば、手にしていたペットボトルの水を彼に勢いよく掛けている。映像は数多の水滴を追い、日差しにキラキラと夏を反射させた。
 透明な色彩。濡れて透けるTシャツ。アップで映し出される美しい横顔。
 櫂人の顎から、一しずくが滴り落ちた。日に焼けた手の甲で拭う。太陽に照らされたくしゃくしゃの笑顔。魅入られて目線は動かなくなる。
 もう、心に嘘はつけなかった。
 ……櫂人が好きだ。どうしようもなく、好きなんだ。
 想いがこぼれ落ちる。そして、同時に忘れていたことを思い出した。
 大学時代、櫂人への想いを自覚した日のこと。
 ……二年生の夏休みが終わる頃。仲間たちとキャンプに行ったときだ。
 櫂人と一緒に参加したバーベキュー。今の映画みたく草木の多い場所で、彼が不意に自分を見て笑った。したたる汗を拭った、八月末の青い空。
 とても小さな瞬間が、フワフワしていた感覚に名前をつけた。彼への感情が、恋そのものだと気づいたのだ。
 ……あのとき、拭った汗に触れて、舐めてみたいなんて。
 友達ならば決して思わないことを本気で望んだ。
 櫂人の汗を舐めたい。体温に触れたい。
 彼が、欲しい。
 手首を掴まれる感覚に身体をわななかせた。視線を落とせば櫂人は瞼を閉じている。でも、その手は明史の片手を握り締めて離さない。想いを揺さぶるような無意識の仕草。残った左手で、たまらず顔を覆った。涙がにじみ出る。
 伝わってくる彼の熱は、自分から触れることのできない熱。
 これ以上は無理だと悟った。
 ……オレは、櫂人を愛してるんだ。
 『友達』のままでいられるわけがない。膝枕で安心しきっている彼にキスをしたい。抱きしめて愛したいのに。自分の欲しい男に、手を伸ばすことができないのだ。
 ……このままでいるなんて、櫂人がよくてもオレができない。
 胸が張り裂けそうなほどもどかしい。厚いガラスの壁に隔てられているようで気がおかしくなる。見つめているだけで幸せ、応援できているだけで十分、なんて気持ちは自分にないのだ。
 欲しいのは、俳優ではない織茂櫂人。ずっと彼のそばにいたい。
 ……潮時だ。
 明史はゆっくり息を吐いた。
 恋を自覚した大学時代。想いが募ることも、嫉妬深くなって苦しんで、関係を壊してしまう未来があるなんてことも知らなかった。ただただ恋に疎く、若かった。
 でも、今は違う。同じ過ちで櫂人を傷つけたくない。
 ……オレがこんな想いを抱かなければよかったんだ。ごめん、櫂人。
 自分は男で、生きる世界も違う。告白なんて絶対できない。櫂人がマネージャーに話した大切なひとのことや、雄哉から聞いた、明史に振られた発言の真意を訊く勇気すらないのだ。
 自分が櫂人にとってどんな存在なのか。真実を訊けないのであれば、会わないほうがいい。改めて思い知った櫂人への愛情は後に引けない。中途半端にそばにいたら、本当に心が病んでしまう。
 ……少しずつ距離を置いていこう。そして、フェードアウトさせるんだ。
 彼の眠る顔を見て、哀しい決心をする。
 液晶の大きな画面上では、幸せに満ちたメロディーとエンドロールが流れていた。




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