* あい繋ぐ星に【第20話】 *


 瞬く電燈が闇の深さを教えている。ガサガサと音を立てるレジ袋。
 明史の足は、相変わらず櫂人の家へ向かっていた。
 ……明日からようやくイタリア出張だ。一〇日間は櫂人と連絡しないで済む。
 幾度となく繰り返している呪文。今回も、出張前に生姜湯のストックをつくっておいてほしいと頼まれて、断ることができなかった。彼から必要とされると、つい動いてしまう自分にはとうに諦めがついている。
 ……さくさく仕込んで早く帰宅するんだ。
 四六時中、悶々とした想いに囚われてろくに眠れていないし、週明けからありえない単純なミスを連発して、職場の同僚にも心配されたのだ。出張ではまともな働きを見せなければ、と思う。
 光の密度が増えて顔を上げる。管理の行き届いた高級マンション。咳が落ち着いてきた、と明るい報告をくれた櫂人は、ロケで今夜中には帰ってこない。それが少し救いだ。恋情を押し退ける気力が出ない今、顔を合わせても辛いだけ。
 居心地の悪さをグッとこらえてピカピカのエントランスを抜け、彼の家の前で立ち止まった。大きく一呼吸をして鍵を開ける。
 ドアを引けば、なぜかライトがついていた。
 不自然さに首を傾げる。廊下も奥のリビングも明るい。
 ……あれ? いるのか?
 雨が降ると順延になるんだよな、と、櫂人が言っていたことを思い出した。
 ……なんだよ、いなくてよかったのに。
 嬉しさより複雑な気持ちを秘めつつ、靴を脱いでフローリングを渡った。
「櫂人、帰ってきてたのか?」
 リビングに声をかけるが返事はない。トイレかバスルームにいるのか。ベッドで寝ている可能性もある。
 ……とりあえず、生姜湯の準備でもするか。
 長居する余裕はなく、キッチンへ顔を向ける。
 そして、瞠目した。雷に打たれたように全身が粟立って足が止まる。
 明史と反対側の、オーディオラックと液晶テレビの間。一人のひとがこちらを窺っていた。唐突な存在ははじめ幽霊か泥棒かと思わせたが、美しい立ち姿でそうではないとわかる。
 知らない女性がいた。緩く巻いた茶色の髪とゆったりした部屋着のようなロングワンピース。化粧っ気のない整った相貌。明らかに美人と言われる類だ。
 聡明さを備えた双眼は、明史を最初から観察していたようで、驚く様子も慌てる素振りもない。
 数秒の沈黙を終え、彼女は空のグラスをテーブルに置いた。
「どなたさま? 櫂人のお友達さん?」
 状況を飲み込んだようなアルトの凛とした声に、手から荷物が滑った。
「ええっと、なにか御用だったのかしら?」
 ドサッと落ちたものを見下ろしながら、女性が重ねる。
「ごめんなさいね。明日まで櫂人は仕事でいなくて、」
 櫂人の部屋に慣れきっている雰囲気と親しげな口調。
 真っ白になっていた頭がようやく動く。『本命』という単語がチカチカと点灯しはじめると同時に、猛烈な羞恥と虚しさが襲ってきた。
 ……ここに、いたくない。
「す、すいません」
 絞り出した声は上擦っていた。鳥肌が立った腕で、両脇に落ちた通勤バッグとレジ袋を掴み直す。落ちていた合鍵にも気づいて、慌てて拾った。
「櫂人を宜しくお願いします」
 生姜湯セットと鍵を突き出した。ドクドクと血が狂う体内に耐えながら頭を深く下げる。惨めな気持ちを汲んでくれたのか、間もなく目の前に甘い香りが訪れた。
「ええと、後で彼に伝えておきますね」
 聴こえてきた声は釈然としない響きだったが、レジ袋と鍵を引き受けてくれた。不審者ではなく、櫂人の友達と認めてくれたようだ。
「わざわざ櫂人のために、ありがとうございます」
 軽くなった手の代わりにもらった言葉は、心の傷に追い討ちをかけた。仲が深くなければ言えない台詞だ。櫂人に愛されている余裕を見せつけられる。
 顔を上げることすら怖くなった。女の姿を見ないように視線を落としたまま、身体を向きを変える。引き止める声が聞こえたが、振り返りたくなかった。急ぎ足で廊下を渡り、水槽の中から這い上がるように玄関を開ける。
 これ以上、なにも見たくないし、聞きたくもないし、感じたくもなかった。
 マンションから離れると無我夢中で走った。通い慣れた道。その先にある、薄暗いアパートの一階。
 自宅の鍵を出すのにもたついた。せり上がってくる感情に指が痺れる。どうにか開錠して、安っぽいドアを勢いよく引いた。冷たい空気。乱暴に靴を脱ぐ。
 狭い部屋へ入り、想いをぶちまけるように鞄を投げた。ドンッと空しい音が鳴った。
 あっけない恋の終わりだった。
 視界がにじんでいく。ふらふらとベッドへ倒れこんだ。
 ……オレはバカだ。オレはバカだ。オレはバカだ。
 大粒の涙が頬を滑る。
 愚かすぎる自分。
 現実を知らず、櫂人との日々に浮かれ一喜一憂していた。
 ……櫂人には本命の人がいたのに。
 宝石を磨いたような女性だった。見た目は瑞々しかったが、話し方と声からしておそらく少し年上だろう。スタイルが良いことも、普通の職業のひとではないこともオーラでわかった。それでいて、高級マンションに合う気品もある。本当に彼とお似合いだと思えた。
 櫂人には、落ち着いた雰囲気の物怖じしない強い女性が似合う。
 ……潮時だ、なんて言える立場じゃなかった。
 とめどない涙すら、虚しい。
 この数ヶ月、彼がそばにいることに慣れすぎていた。織茂櫂人という存在の稀有さをすっかり失念していた。
 彼は単なる学生時代の仲間ではない。この国の人気俳優なのだ。欲しいものを手にすることができる勝者で、美しい女性を好きなだけ選べる側の人間。平凡でしかも同性の明史とは次元が違うのだ。
 芸能界にドップリ浸かっている櫂人にとって、明史との再会は新鮮で面白味があったのかもしれない。大学時代を思い出しながら、イタリア語を教わって雑談する時間は楽しかったはずだと信じたい。
 でも、明史は所詮一般人の友達だ。演技や芸術的な話も振れない相手で、一緒にいるのも飽きてきたのだろう。
 ……どうがんばっても、オレは都合の良い人間止まりだ。
 櫂人の『大切なひと』だと太鼓判を推されても、あの本命女性を見てしまえば絶望しか出てこなかった。
 結局、自分は恋愛のステージに上がれない。
「……ふっ……うっ……っ」
 悲しくて悔しくて、呼吸もままならない。涙が噛んだくちびるに沁みていく。シーツを握り締める指が小刻みにふるえる。
 友達のカテゴリーを保つと言いながら、心の隅っこで、櫂人がその壁を壊してくれるのではないかと期待していた。やさしさに甘えて縋っていたのは、自分のほうだったのだ。
 もう全部、壊れてしまった。
 関係も心も粉々になって戻れない。櫂人の笑顔も甘えた表情も柔らかい眼差しも、すべてあの女性のものだったと知れば苦しくて悔しくて死にたくなる。嗚咽がもれた。我慢できず枕に顔をうずめる。
 溢れる痛みと彼への想いで、一晩中泣いた。




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