* あい繋ぐ星に【第21話】 * |
滂沱の涙が嗄れると、窓からあらわれる弱々しい明かりに夜明けを感じた。 新しい朝。視界の悪い瞳を瞬かせ、鉛の身体を起こした。ぼうっとした頭で時計を見る。家を出るまでにはあまりある時刻。 ……こんなに胸がぽっかり空いた気分で、朝を迎えたのははじめてだ。 不思議なくらい、なにも感じなくなっていた。バスルームで見つけたひどく疲れた顔だけは気になって、通勤途中のコンビニエンスストアでマスクを買った。店員は忙しそうな手振りで明史の顔すら見なかった。でも、会社ではなにか言われるだろう。電車の中でずっと言い訳を考えた。 案の定、上司の美保に会った瞬間、真っ赤に腫れた目をマジマジと見つめられた。 「千野くんどうしたの? 大丈夫?」 「花粉症になりました」 用意していた嘘をつく。有難いことに彼女は突っ込むことなく、出張へ歩みを向けてくれた。職場で確認事項を済ませて、午後の便で出国する。離陸の感覚を全身に受けると言葉にならない感情が吐息になった。 日本を離れられることが大きな救いで、生きる希望になっていると気づく。 ……オレはもう仕事のことしか考えない。仕事に生きるんだ。 決意は揺るがさなかった。着陸するまでほとんど寝られなかったが、ひとしきり泣いたことで気分は落ち着いていた。パスポートコントロールを抜け、三色のトリコロール旗を見つける。出迎えてくれた提携先の現地人の声に振り向くと、一気に日本語が吹き飛んだ。 一一ヶ月ぶりのイタリア北部。東京より気温は少し低いけれど、美しい花の季節がはじまっている。 迎えの車で生産工場と研究所に移動する。ぶどう畑とイトスギが織り成す美しい風景を見ると気持ちが完全に切り替わった。車を出ると、オーガニックコスメにふさわしい環境で仕事がはじまった。 普段はメールやテレビ会議で打ち合わせているが、現地に赴かないと気づかないことも多々ある。トラブルや伝達ミスが発覚することも往々あって、出張中はいつも休み返上で動くことになってしまうのだが……一通り確認して上司と顔を見合わせた。今回はミスがほぼないようだ。驚くほど順調に新製品開発が進んでいる。 「ここまでスムーズなことって、はじめてなんじゃないかしら」 四ヶ月前の出張で大問題に遭っていた美保は、すっかり拍子抜けした表情だ。 「この調子なら、日曜日は丸々オフになるんじゃない? ね?」 ほろ酔いの帰り道。彼女が空の星を見上げる。夕食中も提携先の上役と明るい話で持ちきりだった。 「ならいいですよね。天気にも恵まれてますし」 「明日の様子次第でローマあたりに遊びに行こうかしら」 淡い期待に「そうですね」と軽く相槌を打って、ホテルの部屋前で別れた。 翌日の午後、美保が一際明るい表情で声をかけてきた。 「千野くん、明日は予定どおり一日休みにするわよ」 「本当ですか」 権限のある上司の言うことは間違いない。しかし、確定したところであまり嬉しくなかった。 ……日曜も仕事のままでよかったんだけどなあ。 「それで、どこか行くところ考えてる?」 こっそり思った横で早速問われる。急かすような眼差しをされても、ノープランだ。 ……行きたいところも特にないし、出かける気力がないというか。 「なにも考えてないです」 つまらない部下だと思われるかもしれないが素直に答える。すると、美保が好都合と言わんばかりに口角を上げた。 「それなら、一緒にチネチッタへ行かない?」 映画撮影所の名前に心臓が凍った。気の良い観光の誘いだが、それはイタリアで最も行きたくない場所だ。無論、美保はそんなことを知る由もない。 「今朝ローマの友人に連絡したら、知り合いに関係者がいて、特別にガイドを頼んでみるよって言ってくれたのね。すごく良い機会じゃない? なかなか一般人は見学できないところよ。でも行けちゃうのが、さすがコネ社会なイタリアなんだけど」 表情を固めた明史へ、畳み掛けるように幸運を押し付けてくる。 失恋相手の憧れている場所なんて、行かないほうがいいに決まっている。けれど、彼女のやさしいお節介を無下にはできなかった。ホテルへ帰る途中、駅でローマ行の特急チケットを買った。 波に負ける小船のように、またゆらゆらと明史は揺れはじめた。仮病や急用も考えたが、異国で都合の良い嘘をつくるのは困難だ。後は、心が乱れない方法を見つけるしかない。 ……アイツをただの日本の俳優だと思うんだ。実際にそうだし、遠い星の存在でオレにはもう関係ない過去の人間なんだ。アイツは関係のない人間。どうでもいい人間。 自分で自分を無理やり洗脳する。ろくに眠れなかった。 次の日、イタリア初訪問のときより緊張した心地でローマへ降り立った。中央駅で美保の友人カップルと待ち合わせ、先に昼食スポットであるピッツェリアへ向かう。 動いてゆく車窓から、世界随一の観光都市の賑やかさを垣間見た。数多の建造物と遺跡。美保とイタリア人の親しい会話を聞きながら美しい広場を抜ける。川を二度渡り、一段と古い石造りのエリアへ行き着いた。 暖房の効いた車内から出れば、軽やかな歌声が耳に届く。 「誰が歌ってるのよ。観光客相手?」 若草色のワンピースを着た上司が苦笑して呟いた。 飲食店が連なる下町の入口で、年配の男性が声を張り上げて歌っていた。日本人にも有名なナポリ歌謡『オー・ソレ・ミオ(`O sole mio)』。 愛するひとを『私だけの太陽』と讃える歌だ。 「今度は、ナポリまでピッツァを食べに行きたいわねえ」 暢気に石畳を歩く後姿を追った。 「美保さん、」 呼びかけて、明史は遠ざかる歌に胸を打たれている自分に気づく。『太陽』という言葉の力強さを、外国の地で感じるとは思わなかった。 「どうしたの?」 明るく応答する表情に一瞬躊躇ったが、訊ねたい気持ちが勝った。 「美保さんにとっての太陽ってありますか?」 唐突な部下の質問に、彼女は「太陽?」と復唱した。 数歩前にいる美保の友人カップルが振り返ってくる。そこを曲がると美味しいピッツェリアだよ、と男性のほうが指を差す。 やっぱりなんでもないです、と言おうと思った。しかし、美保は友人とアイコンタクトした後、すぐ部下へ顔を向けた。 「私にとっての太陽は、このイタリアかしらね」 時間をかけず答えてきたことに目を見開く。太陽と呼べる存在が人間でないのも意外だった。 「人じゃないんですか?」 「対象はなんでもいいと思うんだけど、人じゃないとダメ?」 「あ、いえ、太陽って感じるものなら、なんでもいいんですけど」 「それなら、私はやっぱり国よ。イタリアそのものだわ。留学していたし、イタリアに行ってなかったら、今のパートナーと出逢うこともなかったもの」 揺るぎない想いが声色からも読める。でも、気になることがあって訊き返した。 「パートナーさんは、太陽じゃないんですか?」 「うーん。確かにカレは心から愛しているひとよ。でも、太陽といえるほどってなると……もっと途轍もないというか、絶対的な安心感があるというか、いつも背中を押して照らし続けて、自分を輝かせてくれるモノになると思うの。あ、カレが頼りないってことじゃないのよ」 美保は小さく笑いながら、日なたの路地を曲がった。 「地球にとって太陽は代わりがきかないじゃない。ないと地球がダメになっちゃう。それと同じように、自分のための太陽って、自分の人生を変えて定めて、この魂を生かしも殺しもしてしまうほど強烈なモノなんじゃないかしら」 語る瞳の中に、輝いたほしが見えた。 イタリアでの美保は、日本にいるときよりノビノビしている。それは今まさに、彼女が『太陽』の下に居るからなのだろう。 ……そんなにすごいものなんだ。でも、アイツがずっと探してるって言ってた『太陽』は『一人の人間』のはず。 つい櫂人の笑顔を思い浮かべて口元が歪んでしまい、努めて平静さを引き寄せた。 「だとしたら、太陽と呼べるほどの人間っているものなんですかね?」 「そりゃあ、いるでしょう」 自身では、太陽は人ではないと否定していた美保だが、質問にはあっけらかんと肯定した。 「さっきの歌の歌詞じゃないけど、この人が私の太陽だ! って思って結婚する人もいるでしょうし、弟子になって修行する人とか、職業を決めてしまう人とか。私の太陽は生まれてきた子どもよ、っていうママさんもいると思うしね」 美保の視線の先を見ると、彼女の友人二人が手招きをしていた。すっかり歩調が落ちていたことに気づき、促されて店に入る。 「きっと皆それぞれに、自分だけの太陽があるんじゃないかしら。私みたいに、人間じゃなくて国とか別のものって人もいると思うけど」 小声で彼女が言った。 「で、千野くんにとっての太陽はいるの?」 不意を突かれる。戸惑いを隠せないまま席に座った。イタリア語での会話がはじまって、美保は回答を待つことなくメニュー表を広げる。 ……オレだけの太陽なんて、考えたこともなかった。 けれど、考えるまでもなかった。 自分の中でいつもキラキラ輝いていて、尊敬できる愛おしい人間。そんなの、たった一人しかいない。 改めて、捨てきれない櫂人の想いを見つけてしまった。胸の内で染み出した恋の毒。手渡されたピッツァとワインで紛らわした。 食事後、ローマ郊外へ移動した。 世界トップクラスの映画製作所、チネチッタはちょうど撮影中だった。邪魔しないようガイドに促されながら見学する。 広い敷地を歩けば、必然的に彼のことが思い出された。 「そういえば、織茂くんは元気なの?」 振り向いてきた美保に、ドキンと心臓が跳ねる。 「CMには出てるのを観たけど、」 「……元気みたいです」 無難に返す。本当は風邪が完治したかも知らない。 「なら、なにより。それにしても、彼、なんでイタリアにこだわるのかしら」 隣に並んできた彼女が、ふと不思議そうに呟いた。 「ここは確かにすごいところだけど、映画ならアメリカのほうが規模も大きいし有名じゃない、ねえ?」 訊かれても困る。名前すら聞きたくないのだ。 「そう、ですね」 曖昧に相づちすることしかできず、声をかけてきたガイドに救われた心地で近寄る。しかし、説明されるのは映画の話ばかり。イタリア語を聞いていても、櫂人が浮かんできてしまう。 見上げた蒼穹。美しい逆さ虹ができていた。陽射しがつくる色鮮やかな世界。 ここは、彼の目指している場所なのだ。 ……櫂人よりも先に、オレがチネチッタに立っているんだ。 そう思うと、猛烈に櫂人に会いたくなった。応援して受け止めて慈しみたい想いが込み上がる。 独占欲よりも、純粋に彼の進む道を手助けしたい。 でも、もう自分にはできない。 鼻の奥がツンとしてくる。無性に泣きたくなるのを必死になって抑えた。ホテルまでの帰路はとても長かった。雨降りの北部。上司との夕食を断って、部屋のドアを閉める。 窓に当たる雨粒が聴こえ、こらえていた想いはとめどなく滑り落ちた。強がっていても涙は嘘をつけない。両手で押さえても無駄だ。 全身を巡る恋情。 この想いが二度と果たされないとわかっていてもなお、櫂人のことが恋しくてたまらなかった。彼には幸せになってほしいと願う。でも、連れ添う相手は一生自分ではないのだと思えば、辛くて仕方がなかった。 苦しみたくないなら、この情を捨てるしかない。 ……そう簡単に捨てられるわけがない。オレには無理だよ。 泣きながら、帰国したくないと痛切に思った。 日本に戻れば、テレビで、インターネットで、道端で、どこにいても俳優・織茂櫂人の姿を目にし、声を聴くことになる。大学時代の別離以上の過酷な未来が待っていた。その恐怖は明史をさらに責めた。 翌朝、泣き腫らした顔をバスルームで見つけて落ち込んだ。こんな顔を見せるのは嫌だったが、開き直ってロビーで上司と落ち合う。なにか言われるのではないかヒヤヒヤしていたが、上品にスーツを着こなした美保はなにも訊いてこなかった。 それどころか、彼女は明史を助けてくれた。屈託ないイタリア人に「目はどうしたの?」と言われ返答に窮したとき、「花粉症みたいよ」と代わりに答えてくれたのだ。明史は良い上司をもったことを心から感謝した。美保のために完璧に仕事をやり遂げたいと思うことだけが、今の生きる原動力になった。 現地から帰国日まで、無心で仕事をこなした。都内へ戻る特急列車に乗る頃にはさすがに疲労がせり上がって、美保との挨拶もそこそこに真っ直ぐ帰宅した。 |
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