* ディアガーランド【第4話】 *


 風が昨日に比べて涼しくなった。敏感な肌もようやく日差しに慣れてきて、周乃はホッとしたように家を出た。澄み渡る空。九月も末になって、一段と夕暮れが早まっている。
 ……秋の景色が、一番好きなんだ。
 昼食後、我慢して人の多い始発駅の地下に向かって、普通電車の最後尾を陣取った。復路は平日十四時過ぎると学生だらけになるから、時刻は気にしなければならない。
 ……今日は思った以上に人が乗ってないし、ラッキーだなあ。
 折り返し電車は高架を上がり、乗り換え客を降ろす。あとは向かい席に誰も座ってこないことを祈りながら、富士山を待つばかり。
 小まめに停まる電車のリズムに身体を委ねていると、不意に横からの視線に気づいた。用心して視界を落とす。すぐに見慣れているスニーカーが目に入って、顔を上げた。
「なんでいるの」
 陽輔がつり革を掴んで見下ろしている。肩には重そうな紺のリュック。
「狙ってたわけじゃないからな。友達んちに寄ってた帰り。一両目にきみが乗ってたらいいなって、車内を渡ってみたけど」
 ……ちょっとは狙ってたってことだよね。
 どの駅から乗ってきたのかわからないが、都内の友人に会っていたのだろう。彼は空いている隣の席に座り、荷物を横に置いた。この間も書店内でばったり会ってびっくりした。だいぶ慣れてきたが、偶然出会うのはドキッとする。電車は今回が二回目だ。
「念じれば会えるもんだな」
「単なる偶然だよ」
 鼓動を隠すように言い返せば、彼が微笑む。
「周乃くんらしい答えだ。うーん、今日はすっかり秋って感じだなあ」
 寝起きのように軽く伸びをする陽輔は、秋と言いながら半袖シャツだ。眠そうなところを見ると、友達の家に泊まっていたのかもしれない。大学は講義がない曜日があると言っていたから、今日がそれにあたるのだろう。
 ……はじめて見たときはスーツ。あのときは、こんなことになるなんて思わなかった。
「このあたりから、富士山が見えてくるのか。ガスッてないから清々しいな」
 しみじみと呟かれた言葉に、周乃は瞳を向けた。陽輔が富士山のことを気にするとは思ってもいなかったのだ。
 ……景色、ちゃんと見てるんだ。
 少し意外だった。今日電車に乗ることにしたのは『初冠雪ですって、例年よりかなり早いそうよ』と祖母が教えてくれたからだ。
「あれ? もう雪化粧してるのか。本当、綺麗だ。絵になるよな、富士山って」
 彼の独り言から、途端に温かい気持ちが湧く。
 ……オレも雪の富士山、すごく好き。
 共感する部分を見つけた心地になった。
「早いよなあ、一年」
 そう続けて周乃を見た陽輔は、見つめられていたことにようやく気づいたようだ。数秒目をあわせると、彼のほうもハッとしたように目を逸らした。
 妙な沈黙。なんだか、そわそわしてくる。
 ……陽輔さんが家に来てるときも、時々こんな気分になる。沈黙のときにそわそわする。
 打開するのは会話が一番だ。いつもは陽輔が話しかけてくれるが、今回は周乃から声をかけた。
「えっと、卒論大変?」
「いや、まだ大丈夫。でも、今のうちにやること済ませておかないとあとで大変かもな」
 すぐに返答が来て、少しホッとした。
「大学に興味出てきてるの?」
 逆に質問され、数テンポ空けて小さく頷いた。毎回会うたびに大学の話をしてくるし、色んな本を読んでいることもわかって、学校だけでなく彼の知識にも興味がある。陽輔も周乃の知識欲に気づいたのだろう。
「周乃くんは勉強することが好きみたいだし、大学は良いところだと思う。歌集や戯曲の研究も、国文学の学科に行ったらたくさんできるよ。高卒検定を受けるところからはじめないとだけど、自力でも通信でもやり方は色々あるから」
 蓮と同じようにアドバイスをくれる。いつもは閉口するだけだが、今は彼の親切がただただ不思議だった。
 ……陽輔さんは、なんでそんなに他人である自分と祖母を気にかけてくれるんだろう。
 周乃が戸惑ったと勘違いしたのか、陽輔はすぐ話を変えてきた。
「そういや、来月また美重子さんを病院に連れて行くの?」 「行くよ」
「一緒に行っていいかな?」
「うーん、おばあちゃん次第」
「実は美重子さんには先に聞いてるんだ。周乃次第だって」
「それなら、いいよ」
「よかった」
 陽輔は本当に病院の付き添いがしたいようだ。週に一度以上、食事をいただいているという義理があるかもしれないが、祖母の及ばない部分の掃除等で十分返してくれている。
「なんで、そんなにオレのおばあちゃんにやさしいの?」
 面倒事にも積極的に関わるなんて、もはや酔狂としか思えない。目があった陽輔は言葉を探すように、うーん、と唸って口を開いた。
「美重子さんに、俺自身の祖母を重ねているのかな。亡くなってるんだけど。この話は言ったらダメだぞ」
 正直な気持ちを話すようだ。
「言わないよ」
 誓うと、彼は懐かしいものをすくい上げるように微笑んだ。
「実家は昔、祖母と同居だったんだ。俺は子役業と習い事で母親と毎日出かけていて、家事はほぼ祖母が担当してた。料理といえば祖母で、一所懸命してくれて俺がテレビやチラシなんかに出ると目いっぱい喜んでくれてさ。でも、恩返しする前にポックリ逝っちゃったんだよ。母親もちゃんと料理とか教わればよかったって後悔してたし、俺も当たり前に続くことってないんだって思い知らされた。子役を辞める理由のひとつになるくらい」
 身近な人の死を中学校に上がる前後に経験したという。周乃にはまだない感覚だが、彼自身は当時かなり重い衝撃を受けたのだろう。苦笑しながら過去を振り返る彼に惹かれた。
「俺も母親と同じで後悔してる。特に美重子さんはうちの祖母と性格が少し似てるから、余計にな。今のうちに恩返ししたいと思っちゃうんだ。就職したら、こんな風に頻繁に会えないかもしれないし、この先どうなるかもわかんないだろ? だから、今できることをしたいって」
 そして、やさしい顔になって覗き込んだ。
「でも、無理に急ぐ必要もないんだよ」
 周乃の気持ちを汲んだ言葉。彼の微笑みと一緒になって、スッと心に染み込む。
「陽輔さんって、いいひとだね」
 思ったままを口にすると、彼は予想外の褒め言葉を受けたように照れて頭をかいた。
「そんなこと言ったら、周乃くんもいいひとだろ」
「オレは、何もしてない」
「俺は周乃くんといて、楽しいと思ってる」
 ……オレのこと、そう思ってるんだ。
 はっきり言われて、心が一気に軽くなった。澱になっていたものが剥ぎ取られる。
 陽輔は他人に対して頑なな周乃の警戒心を緩ませる何かを持っている。でも、それが信用に値するかは別で疑っている面もあった。親切には何かしらの思惑や意図があるという先入観を、周乃は芸能界で身につけてしまったのだ。
 ……陽輔さんはオレの子役時代も知ってる。憧れていると言ってたけれど、何をするわけでもないし、気になることはちゃんと答えてくれる。蓮みたいに信じられる人間だと思う。
 星野陽輔は信頼できる人だ。そう位置づけると全身にじんわりと温かい感情が広がった。心がまるで望んでいたように……ついで、なんだか彼と好きなものの話をしたくなった。
「陽輔さん。富士山好き?」
 突拍子なく同調を誘うと彼が頷いた。車窓から見えている美しい姿。
「好きだよ。高いし雄大だし、格好いいよな」
「オレも好き。富士山を見てると、ありのままでいていいんだって、思えるんだ」
 やさしいものに囲まれた気分になって微笑む。すると、陽輔が真剣な瞳を見せた。突然の変化に周乃は首を傾げる。
「どうかした?」
「いや、ごめん。周乃くんはこのあと図書館に寄るの?」
 なぜ謝られたのかわからない。けれど、彼が普段の表情に戻ったから気にならなかった。
「うん、良い本知ってる?」
「ああ。意に沿うかわからないけど、一緒に見よう」
 図書館へ向かう道すがら、「周乃くんの笑顔はすごくいいな」と言われて嬉しくなった。
 陽輔は病院の付き添いをしてくれただけでなく、ドルンで摂る昼食まで奢ってくれた。オーナーにはイケメンの良い子をどこで捕まえてきたのと言われ、美重子からの株は完全に右肩上がり。彼は昼飯時から祖母に招かれ、周乃の勉強も見てくれるようになった。
 同時に、周乃自身にも新しい発見があった。
 ひとつは、陽輔といると人のことが気にならないということ。事実、彼と電車に乗れば周りの視線は怖くないし、病院も俯かずに出入りできた。もうひとつは、躊躇ったり苦手に感じたりしている物事も、陽輔に背中を押されるとすんなり踏み出せるということだ。
 ……二時間半、あっという間だった。
 Finの表示から、周乃はカーソルを動かして流れる画面をクローズさせた。ノートPCは陽輔のもので、DVDを観るために彼が持ってくる。
 英語教材として良いし、古いミュージカルなら抵抗感はあまりないと思うよ、と促されて渋々映画を観るようになった。確かに一般の映画より嫌な気はせず、ミュージカルとは無縁の子役時代を送っていたこともあって、思ったより楽しめている。
 ……今回は、最近出たリメイクものだったけど丁寧につくられていた。技術も進化してるんだなあ。
 そう思いながら、斜め下に視線を落とす。周乃が座り込む横の畳で、陽輔が気持ち良さそうに眠っている。梟の細長いクッションと掛け布。和製の自室には梟グッズがあふれていて、はじめてこの部屋に上げたときから、陽輔に梟好きだと思われているようだ。
 ……また寝てるけど、起こしていいかなあ。
 映画鑑賞を勧めておきながら、本人はよく昼寝をしている。周乃の部屋が落ち着くのだそうだ。側で眠る大きな身体は、最近とても忙しいらしい。
 十二月に入ってアルバイトのシフトがたくさん入っているのだと、陽輔は言っていた。卒業論文を優先すべきだと思うが、アルバイト先のカラオケ店は今の時期が書き入れ時なのだそうだ。こういうのも大学にいる内だから、と、クリスマスイヴの今日も夜から朝まで働くという。
 ……うちに来るの、無理してるんじゃないかな。来てくれるのは嬉しいけど。
 週に二回くらい家に来る男を見つめる。美重子は彼が帰宅するたび、イケメンよねえ、と生きる活力をチャージしたように呟いている。確かに芸能界でもやっていけそうなくらい男前な顔。陽輔は演じる才能もなかったしやる気も続かなかった、と自虐気味に話していたが、もったいないと思う。
 しかも、今日はクリスマスケーキを買って来るという気遣いも見せている。祖母は昼食後、早速近所のスーパーへ彼と買い出しに出かけた。夕飯時にクリスマスを祝って、陽輔をアルバイト先へ送り出す予定だ。彼とはその後、年内は一度軽く顔を出すくらいでおしまい。次ちゃんと会うのは新年明けてからになる。
 陽輔と会うたび、周乃は不思議な安心感に包まれる。でも、時々そわそわするし、考えれば考えるほどもやもやする。正直、自分の感情がよくわからなかった。今眺めていても、感情に名前がつかない。
 ……蓮の言っていたとおり、かなり気になっているのは間違いない。
 でも、会えないときは心細いと思わないし、美重子のように日々の活力にもならない。ただこうしてじっと見ていると、寝かせておきたいというより起こしたいと思うし、触ってみたくもなる。
 そっと彼に触れる。セーターから感じる男の太い腕。中高時代はテニス部で、派手に焼けていたという。周乃が得られなかったもの。
 ……陽輔さんに憧れているのは確かだ。いいなあ、背が高くて男らしくって。
 いつもは腕をゆすって起こすが、今日はもうちょっと触ってみたくなって指を滑らせた。お腹の部分に手を置いて、さわさわと撫でる。硬い。腹筋がよくついているのだろう。空いた手で自分の腹も触れて比べる。明らかに周乃の腹は薄っぺらい。
 貧相な自分の身体に落胆しつつ、彼の胸に手を移動させた。
 途端、陽輔の目蓋がパッカリと開く。強い視線に大きく鼓動が跳ねた。反射的に手が引っ込んで、開かれた瞳と見つめあう。
 数秒間。彼が逸らしてもう一度周乃を見た。
「映画、終わった? ごめん、いびきでもかいてた?」
 沈黙を裂く声に、周乃はホッとした。ドキドキが収まるよう息をしながら首を振る。
「ううん。陽輔さん、だいぶ疲れてるの?」
 身体を起こしてこない彼に尋ねると、まだ眠そうに目を細めた。
「うーん、そうかもな。また一緒に観てなくてわるい。映画、どうだった?」
「悪くなかったよ。嫌いじゃない感じ」
 周乃は映画やドラマを観ると、もっとこういう演出をすればいいのに、と思ってしまうクセがあることを彼は知っているのだ。場面の切り替えがうまくない映画だと、道具に囲まれた撮影シーンが先に頭に浮かんで、物語に感情移入できなくなってしまう。
 けれど、今回はベテラン俳優が揃っていて脚本も演出もよかった。引っかかる場面が少なく純粋に楽しめた、と遠回しに褒めていることに陽輔も気づいたようだ。
「よかった。最近の脚本で台詞回しも古臭くないから、英語の勉強代わりに何度見てもいいと思うよ」
 頷いたものの、映画から英語を勉強するより、その脚本を読んで演じる世界を想像するほうが絶対に楽しいと思った。が、陽輔にそんなことは素直に言えない。
 複雑な心境を秘めていると、名を呼ばれる。
「なあ、周乃くん」
「なに?」
 見下ろして返す。陽輔の瞳が伺う装いに変わっていた。
「今度一緒に能を観に行かないか」
 唐突な誘いに瞬かせた。しかも、なかなか聞かない単語だ。
「能?」
「そう、日本の伝統芸能。歌舞伎がいい?」
 強引に話を進められるが、彼の問いに沿って能と歌舞伎の舞台と客席を想像する。
「静かなほうがいい」
「能だな。実はもうチケット押さえてるんだ。行くのは、俺が卒論を提出してからになるけど」
 意図がわかる。チケットを無駄にしたくないのだ。同時に彼の行動力に感嘆した。
「どうかな? 俺がずっと一緒にいるし、能を観る以外は周乃くんに全部あわせるから」
 一瞬だけ悩んだが、現代的な芝居とは演者が違うし、日本の芸能自体には興味がある。陽輔と一緒であれば安心だ。
「それなら、行く」
 応えると、そのまま見つめあった。また妙な沈黙がはじまって、そわそわしてくる。
「ずっと思ってたけど」
 口を開いた彼に、ドキッとした。何を言い出すのか心配になる。
「綺麗な髪してるよな。天パ?」
 続けてきた会話に、なんだ髪の毛のことか、と頬は緩む。天然パーマは祖母からの遺伝だ。
「うん。何もしてないよ。美容院もシャンプーも全部おばあちゃんと一緒だし」
「元がいいんだな。ふわっとしてていいなあ」
 じーっと見つめる視線。毛先から皮膚へもぞもぞした感覚が生まれる。
「触る?」
 無意識に滑らせた言葉に、自分自身少し驚いた。
 ……でも、オレはさっき陽輔さんのこと散々触ってたんだし。いいかな。
「え?」
 陽輔もびっくりしたような声を出したが、裏腹に手は伸びていた。
 身を寄せて屈めると、彼との距離が一層近づいた。髪に触れられ、肌がわななく。美容院で髪を触られるのとは、何かが違う。
「イヤ?」
「ううん。嫌じゃないよ」
「そうか。柔らかいんだな。本当にふわふわしてる」
 撫でられる部分に微細な電流が通るみたいだ。でも、変に気持ち良い。
「周乃くんは最後までちゃんと観るよな」
 見上げる陽輔の体温を感じながら、目尻を緩めて声を聞く。
「映画のこと。最初は嫌そうな顔してるけど」
 最初の会話に戻っていると気づいて、そっと頷いた。
  「はじまったら、最後まで観ないとダメなんだ」
「どうして?」
「演じてる役者さんにも、描かれた世界にも、失礼だよ」
 彼が手を離した。身体を起こすのにあわせて、周乃も不自然な体勢を戻す。背中が少し軋んだが、物足りない気持ちが勝った。
「本当に周乃くんのそういうところいいよな、たまらなく、」
 面と向かって言う陽輔の手がまた伸びた。髪と耳にやさしく触れる。褒められることも撫でられることも嬉しい。
 そのつかの間、周乃、陽輔さん、と呼ぶ声がかすかに聞こえた。祖母だ。陽輔が慌てたように手を引っ込めた。周乃も立ち上がってドアを開けに行く。
「二人とも、夕飯手伝ってくれる?」
「はーい」
 階段の下から聞こえる声に応答する。後ろで「もうそんな時間か」と息をつく陽輔がいた。アルバイト前の夕食だ。今日はケーキもあるから少し早い。
 周乃も名残惜しく感じながら、彼にPCの片付けを促すと先に居間へ向かった。祖母に指示されるまま用意をして、夕食がはじまる。
 一足先に三人でクリスマスを祝い談笑していると、あっという間にリミットがきてしまった。陽輔は渋々という顔で天貝家を離れた。
 ……半月くらいご飯食べに来られないって言ってたのは、寂しいかな。けど、家は遠くないから会おうと思えば会えるし。
 陽輔がいなくなった空間を眺めながら、周乃は食器を洗い終えると部屋に戻った。梟だらけの静かな部屋。片付けられた折り畳みテーブル。立てかけているラックの上に、見慣れないものが乗っている。
 ……あ、忘れ物。
 眼鏡ケースだ。陽輔は勉強するときやPCを扱うときに眼鏡をかける。
 手に取って悩んだ。彼のアルバイト先は周乃の住む家から徒歩十五分強。普段は始発電車に乗る以外近寄らないターミナル駅近くの歓楽街だ。県最大の駅周辺は、朝も夜も人が多い。
 ……どうしよう。明日は大学だって言ってたし。卒論中はこの眼鏡がないと困るかな。
 長く思い悩んだ末、祖母にアルバイト先の住所を聞いてみた。明らかに歓楽街の一番通りで、心は怯む。しかし、陽輔を思うと行くしかない。ダッフルコートとマフラーと帽子で武装した。
「本当に大丈夫? 気をつけていってらっしゃいね」
 十七歳の男子を幼子のように心配する美重子へ、安心させる笑みを送って家を出た。




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