* ディアガーランド【第5話】 * |
始発列車の多いターミナル駅は、二十三時にも関わらず活気があった。忘年会とクリスマスが重なる今は特別人が多いよ、と陽輔が言っていたとおり。不安が増幅しないよう、彼のことだけ考えて西口から東口へ抜けて歓楽街へ入った。 どうにかカラオケ店の前に着く。自動ドアの向こう側には、制服を着た陽輔がいた。ホッとしたと同時に見惚れてしまう。カウンターの中で働く彼の姿。すぐ話しかけたくなったが、中へ入るのはけっこう勇気がいる。 透明なドアの隔たりが壁のようだった。早く気づいてくれることを祈りながら見つめ続けると、陽輔は間もなく外へ目を向けてハッとしたように周乃を捉えた。ちょうど客の入れ替えが終わった頃なのか待ち客はいない。彼はカウンター越しにいた仲間の女性を呼び寄せて話をするかと思うと、周乃に瞳を戻して手で招く。 ようやく凍っていた足が動いた。白い息を吐いて開いたドアを越える。陽輔もカウンターから出てきて、フロアの端に移動した。騒がしい旋律と声の中で、彼を見上げると音が消えた。 「周乃、よく来れたな。どうした?」 驚いたふうに聞こえたが、疎ましく思われていないとわかる。 「今大丈夫?」 「ちょっとだけなら。なんかあったか?」 どうも心配気だ。人混みが大の苦手な周乃が、わざわざ来るということは重大な何かが起きたと考えたのだろうか。懸念を払拭すべく、トートバッグから眼鏡ケースを取り出した。 「陽輔さん、忘れ物してたから」 差し出すと、晴れやかな表情になった。 「ああ、ありがとう。わざわざ渡しに来てくれたのか」 受け取る彼を見て、カラオケ店であることを忘れるほど心がほぐれた。自然と嬉しくなってニコッと笑みを向ける。 その瞬間、空気が切り裂くほど大音量の曲がかかって、周乃の心臓は飛び上がった。 反射的に振り返る。大型の液晶画面に最新のミュージックビデオが流れていた。後ろで陽輔が「びっくりさせて、ごめんな」と言っている。けれど、周乃は釘付けになっていた。 画面の中で演じる若い女性。友人の矢幡彩加だ。MV中の物語の主役として出演していると、宣伝のテロップが流れている。 ……彩加、こういうお仕事もしてるんだ。 久しぶり働いている彼女を見つめる。なんだか新鮮な気持ちだ。 映画、テレビ、雑誌、ラジオ。歌は音痴だから絶対NGにしてるの! と、彩加が幼いときから言い続けていることを知っているが、こんな音楽の携わり方もあるらしい。ロックバンドの演奏にあわせて勇ましい女性を演じる姿は、いつもの清純派から離れている。元々の彩加は明るくて蓮と同様に勝気だ。イメージチェンジを兼ねているのかもしれない。 「この新曲いいよな。出演してる子もカワイイし。最近人気の女優だよね」 彼の声にビクッと肩がふるえた。慌てて夢中になっていた画面から視線を剥がす。 わずかなタイムラグの後、グサッと何かが心に刺さっていることに気づいた。 ……陽輔さん、今、彩加のことカワイイって言った? 大きな疑問符と嫌な感じを抱えて見上げると、陽輔も何かを察したようだ。 「ん?」 どうかしたの、という表情を向けられて、周乃は自分でもよくわからないまま首を横に振った。そして、彼が勤務中であることを思い出した。 「ごめんなさい、陽輔さんのお仕事中に邪魔して。それじゃあ」 「明後日ちょっとだけ顔だすよ。美重子さんにもよろしく」 「うん。お仕事がんばってね」 彼の顔を見ないまま、声だけ残してそそくさとカラオケ店を離れる。 眼鏡ケースを渡したときまでは陽輔と一緒にいる嬉しさに浸っていたが、今は困惑が全身をめぐっていた。自分でもなんで慌てたのか、なぜ胸が変に痛いのか理由がわからない。もやもやしたものを頭の中でこねくり回しながら歩いて、気づけば自宅前に着いていた。 数日後、陽輔が能のチケットを持って挨拶に来てくれた。玄関前で彼の顔を見て、良いお年を、と交わしたときまでは安心できていたけれど、彼が去ればクリスマスイヴにもらった感情に苛まれた。それは年が明けても続き、周乃はすっかり勉強も読書も手につかなくなった。 ……早く、会える日にならないかな。 自室にいると、もらったチケットを意味もなく眺めて、石のように固まっている。新年になってすぐ蓮には会ったけれど、陽輔は卒論が終わるまで会えない。舞台を見に行く緊張よりも、早く陽輔の顔が見たいという気持ちばかりが先行する。祖母も「陽輔さんに早く会いたいわねえ」と、周乃の気持ちに同調してくれる。 観能の準備だけは怠らず、約束の前々夜にようやく陽輔から連絡が来た。自宅の固定電話を経由して祖母に呼ばれ、慌てて自室から階段を駆け下りた。 「無事、卒論提出を終えたそうよ」 嬉しそうな表情をする美重子から、電話を取り次ぐ。 「周乃くん。遅くなったけど、明けましておめでとう」 と、心地良い彼の声を聞いて、たまらず笑みが零れた。同じように挨拶すれば早速陽輔が尋ねてくる。 「能、明後日だけど行ける?」 「うん。待ちあわせとか、ある?」 「家に行くよ。余裕もって一〇時半に迎えに行くから、それまで準備してて」 食事はどうするかという話になり、外食は苦手だと伝えて家で一緒に食べる提案をした。台所にいる祖母は了解してくれるだろう。一〇時からブランチが決まった。祖母に報告すると、約半月ぶりの陽輔の来訪に張り切ってスーパーへ出かけた。 出かける当日。待ち望んでいた彼を見て、もやもやさせていたものはたちまち吹っ飛んだ。美重子と談笑する彼を飽きず眺め、話しかけられると嬉しくなった。 食事後は祖母に見送られ、いつもの始発電車に乗って能楽堂へ赴く。その間も、他人の視線はまったく気にならなかった。少しだけ、お芝居を見る緊張感に包まれた。 能楽堂周辺は都心にかかわらず鳥のさえずりも聞こえるほど静かだった。観客も年齢層が高く、着物姿もちらほら見える。 「こんなとこにあるんだな。はじめて来た」 陽輔の呟きに同調して白い息は揺れる。 チケットを渡し、ガラス窓の木回廊を抜けて場内へ入れば、光と静寂をまとう能舞台に瞳が奪われた。同行者のことも忘れ、惹かれるまま帽子を脱ぎ最前列まで寄る。 正方形の舞台に四隅の柱と屋根。舞台袖は橋のような通路で繋がれている。 ……能の舞台って、こんな感じなんだ。 道具も装置もない。垂れ幕も余計な照明もない。能は最も記号的な演劇である、と演劇論の本に書いてあったことを周乃は思い出した。けれど、直接目で見て肌で空間に触れればわかる。殺風景な床面には言葉にできない何かが宿っている。 ……この場は生きている。そして、演者が入ると鮮やかに世界は色づく。 「周乃くん。席はそこだから」 横に来た彼の声で我に返った。指された場所へ目を向けて移動する。よく見える正面指定席。数分後、会場は暗くなる。 今回の能楽は、狂言からはじまり厳かな能へ移る。わかりやすい庶民的な喜劇といわれる狂言は事前知識がなくても楽しめる。けれど、能は別だ。周乃は中休憩の間に、能の本で読んだことを思い起こした。集中する姿を、陽輔はそっとしておいてくれる。 目を閉じ、能がはじまる合図で瞼を開く。そろりと、面をつけた演者たちが橋掛りに現れる。音色とともに木製の舞台はたちまち解けた。 幻視のごとく演目の情景が広がると、周乃は自分の肉体がなくなったように感じた。久しぶりに降りてきた感覚。朝廷の男たちが女人を見る。龍神と知らず翁と言葉を交わす。演者それぞれの動きと心情が、水のように流れ込む。 舞いたい、という感情が胸を突いた。誰の気持ちか察するまでもなく雅楽が鳴り、金箔を織り込んだ美しい能装束をまとう女神が来臨する。 降る花弁と月の明かりの中で、周乃は舞っていた。幼い頃、読書や映画鑑賞中に当たり前のように味わったもの。一番愛しく共鳴できる役柄と一体化してしまう感覚。この演目では、女神だ。 言葉にならない様々な彼女の想いが、晴れやかな舞に表れる。周乃も舞うことを嬉しく清々しく感じていた。天女の舞が終わると、心は温かなまま龍神の舞に見惚れる。やがて彼から宝を献上され、穏やかに物語が閉じる。 これから来る春のような物語だった。悲哀の多い能の中でも初春にあわせた演目だ。悲恋や狂い能だったら感情移入して泣いていただろう。 「どうだった? 真剣に見てたけど」 静かに問いかける陽輔の声。来場者の大部分が会場を去っていることに周乃は気づいた。女神の多幸感から目を覚ます。 「すごく、よかった」 月並みの感想だけれど、かみ締めるように口にした。 実は古典芸能の言葉遣いやテンポについていけるか少し心配していた。でも、使われている日本語の響きに心が洗われた。とりわけ韻の踏み方が美しく、世界に没頭する手助けをしてくれた。 ……この気持ちを表現したくても、言葉じゃ足りない。 美しかった、楽しかった、嬉しかったなんていう簡単な色分けはできない。 ……だから、人は役に命を吹き込んで演じるのかな。女神の舞のように。 早く家に帰って、この演目の説明を読み直したいと思う。 能に大きなときめきを抱きながら会場を離れ、乗換駅でいつもの普通電車に腰を下ろす。 「周乃くんは、舞台が好きなんだと思うよ」 唐突に、陽輔が視線を向けてきた。 「え?」 今まで考えもしなかったことを言われ、驚いた顔で見つめ返す。 ドラマや映画の撮影は違和感があって好きじゃなかった、と先々月DVDを観ていたときに周乃が話していたことを覚えていたようだ。 ……舞台は子役のときに一度もしたことなかったから、映画と比較してこなかった。 未知の感覚に、彼の次に来る言葉を待つ。陽輔が周乃の真剣な瞳に答えた。 「映画やドラマはさ、スケジュールや現場にあわせて時間軸関係なしに、シーンごとを区切って撮影するだろ。今日は屋内、明日はロケ、みたいに。それが周乃くんは嫌だったんだと思う。でも、能や狂言とかお芝居は大抵一貫して演じられるものだ。ステージは同じままだし、変わった台本じゃない限り、感情の変遷も時間の流れも自然。なりきっていた役と世界がブチッと切れることはないから」 撮影と舞台の決定的な違いを教えられる。彼の説明は大きな発見をもたらした。 「確かに、そうかも」 現に先ほど観た能は、演者自身も物語に沿って感情を貫いた。これが映画やドラマだとかならずカットが入って現実に戻される。台詞と場面が多いため仕方ないことだが、周乃は嫌なのだ。分厚い脚本でも簡単に台詞が全部覚えられるせいで、最初から最後までワンシーン撮りしてほしいと思ってしまうほど。 だから、彼の意見は革命的だった。 ……陽輔さんの言うことは、たぶん間違っていない。 「ドラマなんかは演じるのが嫌でも、能みたいに舞台上で演じるお芝居はいいって思わない?」 問いかけとともに電車が動き出す。帽子を被った周乃は冴えた頭で頷いた。 ……もしかしたら舞台のお芝居なら。観客さえ気にならないようになれれば、やれるかもしれない。 考える間もなく答えは出ていた。今観た能はお面をつけているから、観客を気にせず演じられているのだろう。ならば、お面をつけるように演じる世界に集中すればいい。観客の目が気になったとしても、役にすっかり入り込めば、周乃は天貝周乃ではなくなるのだ。 ……その最初のステップがクリアできれば、オレも舞台に立てる。 はじめて湧いた明確な希望。彼が微笑む。 「わかって、よかったな。能は世界最古の演劇なんだって」 「それ、本に書いてあった」 「なんだ。図書館で借りたのか?」 「本屋で買った。だから、演目の内容も一応わかってるよ」 「ちゃんと興味もってくれてたんだ」 「家に帰ったら、陽輔さんも読む?」 顔を上げ、弾んだ気持ちのまま会話を続ける。嬉しそうな表情をする陽輔が近づいた。 「ん、一緒に読もうか」 至近距離で目尻を下げる彼に、ドキッとする。慌ててスッと富士山を探すが、まだ電車は高架に上がっていなかった。 陽輔はそのまま横顔を見てくる。妙な心の揺れに気づかれたのかもしれない。そう思うと、途端に周乃は照れて視線を落とした。 ……ドキドキするのは、顔が近づいたせいだ。 けれど、鼓動は一向に収まらない。 ……たくさん考えることがある。人の視線がどうでもよくなるくらい。 乗客の多い夕方の電車内にいて、隣にいる彼のこと、そして芝居のことで胸と頭がいっぱいだ。目を閉じると腕に陽輔の指が触れる。心地良い熱がめぐった。 「眠い? 寄りかかっていいよ」 触られたいという気持ちより早く聞こえた言葉。 「うん」 周乃は腕を引かれるまま身体を寄せた。彼のにおいにホッとしながら鼓動は走る。降車駅に着くのはあっという間で、当たり前のように離れていく体温が少し切なかった。 二人で帰宅すると、珍しく蓮が玄関ドアを開けてくれた。 「おー、おかえり! って周乃、このひとがまさかの」 迎えながら遠慮なく指を差す。蓮に人見知りという単語はない。陽輔も同様で、周乃が以前話に出した親友だと察したのだろう。 「陽輔さんだよ。それで、彼が蓮」 靴を脱ぐ前に紹介すると、蓮はスリッパを用意して顔を上げた。 「桂蓮です。って、周乃マジ、美重子ばあちゃん好みのイケメンじゃん!」 身体を起こして言う蓮に、陽輔がこらえきれず笑う。噂をされた美重子もやってくる。 「おかえりなさい。三人とも、お話するなら中でしなさいね」 ぞろぞろと居間に移り、改めて自己紹介をする蓮から新しい脚本を渡された。三が日に会ったとき、もうすぐ完成すると言っていた物語。陽輔も覗き込む。 「三月に公演するやつ。チラシはこれ。事前に連絡くれたら、チケット安くできるから」 同じことを今度は敬語で陽輔に話す。その瞳は興味津々。根っから物語を書くことが好きな蓮は、毎日ネタ探しをしているのだ。陽輔は格好の存在だろう。 「二人ともさ、一回脚本書いてみようよ。おれ読んでみたい」 おはぎを食べながら、蓮が会話の途中であっけらかんと願望を投げてきた。 「時間があれば。面白いかもな」 律儀に答える陽輔の隣で、チラシを手にした周乃は微笑むだけにした。 それなら演じるほうがいい、と思ったことはまだ秘密にしておきたかった。 |
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