* ディアガーランド【第6話】 * |
陽輔は眠ることなく流れる画面を見つめ、何度も周乃の頭を撫でていた。髪や肌の触り心地を確かめるような指。集中しているときも煩わしくなく、むしろ気持ち良くてホッとする。周乃も自然と寄り添うように寝転がって映画を観るようになった。 二人きりの時間。画面にエンドマークがつくとゆっくり目を閉じる。 「周乃、どうだった?」 梟のクッションを抱きしめて物語と彼のぬくもりに頷く。先月、蓮と携帯番号を交換した陽輔は、蓮から『くん付けいらなくない? 仲良いんだし』と言われて周乃の名をそのまま呼ぶようになった。より心の距離が近づいた証のようだ。 「雨が好きになるような感じだった」 作品の感想を伝えると、「それならよかった」と手を離してPCに触れた。冷たい雨の中でレンタル屋に行ったらしく、今日は晴れやかなものと雨がテーマになったミュージカルの2本。どちらを観るか問われ、雨のほうを選べば「こういうところで性格の違いがでてくるよな」と言いながらセットしてくれた。 これまで芝居関係の映像は一切見ないようにしていたが、陽輔のおかげでだいぶフラットに観られるようになった。映画の良さも今なら認められる。演劇だと、雨を降らす演出等はなかなかできないし、観る側のアングルも固定されてしまう。 でも、周乃は能を観た日から演劇に惹かれていた。能と歌舞伎のDVDを数度鑑賞したが、やはり生で観るのが一番だと強く思う。あの熱量を感じるには、LIVEじゃないとダメだ。 そして、演じてみたいという想いも日に日に育っている。図書館内で立ち止まるのはいつも演劇に関する棚。とはいえ、陽輔に芽生えたばかりの舞台に対する想いを話す気はない。また観に行きたいと頼るのも甘えすぎだ。一人でチケットを買って行く勇気もまだない。 今はまだこの部屋で映画を眺め、陽輔に触れられるだけでいたかった。 彼といるときは特別だ。気持ち良いだけじゃなくて、もやもやしたりそわそわしたり、絶えず周乃に妙な浮遊感と緊張を与える。はじめてもらう感覚に名前はあるのかもしれないが、まだ見つけられていなかった。 ……陽輔さんと出逢ってから、一日一日がとても早いような気がする。楽しい時間は本当にあっという間に感じる。 再来月、陽輔は社会人になる。二月最終週にゼミ仲間と卒業旅行をすることと就職準備の話を、彼から聞いた。周乃はそれで二月になったことに気づいたくらいだ。 時間に関係ない生活を送ると、誕生日すら忘れそうになる。自分のことはどうでもいいが、同じ誕生日である彩加のことは忘れてはいけない。 ……映画が終わったら、頼もうって決めてたこと、言おう。 「陽輔さん、お願いがあるんだけど」 身体を起こして口を開けば、ディスクを引き抜く彼がすぐ横に向いた。 「どうした?」 「インターネットで買い物って……今、できるの?」 「え、ちょっと待ってな。何か買いたいのがある? 本とか?」 思いがけないことを言われたような顔をしたが、軽やかにPCを扱いはじめた。シンプルなブラウザが立ち上がる。 「折畳み傘。日傘にもなるやつ、あるかな」 一昨日、祖母に相談して今回のプレゼントを決めた。当初はがんばって買いに行くつもりだったけれど、寒さと雨ですっかり気持ちは萎え、ふとネット通販を思い出したのだ。インターネットは嫌いだが、陽輔と一緒になら大丈夫だろう。思った通り、画面を観ても心臓は凍らない。一安心だ。 「あるはずだよ。じゃあ、大手のショッピングサイトを使うか」 ブックマークしているらしく、何も経由せずサイトが出る。 「自分で検索してみる?」 彼に促され、周乃は細い人差し指で文字を打った。日傘、折畳み、雨、遮光。ボタンを押すと、たくさんの日傘が現れた。 「誰に送るの?」 隣で気になるのか尋ねられ、曖昧に答えた。 「ちょっと、ある人に。昔から毎年贈ってるんだ」 見ている日傘のデザインで、女性だと気づいただろう。 「お世話になった人なんだ?」 「うん。おばあちゃんとも仲良いよ」 名前は言えなかった。秘密にする必要もないが、矢幡彩加は大切な友人だと言いたくなかった。この前、陽輔は画面に映る彩加を見て『カワイイ』と称したのだ。あの言葉がしぶとく心に引っかかっている。 周乃は煩わしい感情を抑えて、二ページ目をスクロールした。目についた黒とシャンパンゴールドの花柄の傘をクリックする。 「これにしようかな。完全遮光で軽量ってあるし、柄も綺麗だ」 金額も説明も悪くない。エレガントなデザインだから、彼女のパブリックイメージにも沿うだろう。でも、本人は模様が少し渋いと言うかもしれない。 「いいんじゃないか。手配しようか?」 陽輔も深くは突っ込まず賛同してくれる。周乃はPCから指を離した。 「お願いします。うちの住所とおばあちゃんの名前で」 必要な項目を口頭で伝える。数日後あたりに代引きで届くらしい。あとは問題なく届くことを祈るばかり。 「そういえば俺、周乃の誕生日知らないな。もう終わった?」 誕生日プレゼントだと言ってはいないのに、察しがよくてびっくりする。確かに今まで訊かれたことはなかった。 「まだだよ。今月の十四日」 「すぐじゃないか。誕生日、バレンタインなの?」 まさか来週末だと思わなかったようだ。昔は誕生日にたくさんチョコレートをもらった。食べ切れなくて家族や親戚に配っていたことも思い出す。懐かしいけれど、それほどプレゼントが欲しいわけではない。 「その日は祝いに行くよ。空けててくれる?」 でも、陽輔は別だった。祝ってくれるという言葉は純粋に嬉しい。笑顔で「家で待ってる」と返せば、やさしく髪を撫でられた。 数日後、傘が届いた。祖母にラッピングを頼み、周乃は手紙を書いた。彩加とまだ直接話す気力は出ない。いつものように元気であることと応援していること、そして年末にMVを観たよと綴って便箋に入れた。翌日、祖母と郵便局で手続きする。その足でスーパーへ寄り、久しぶりに買い物を手伝った。 十四日は午後から雪になった。薄く積もる白雪の下、約束の時間に陽輔が訪れる。アルバイト帰りの手にはホールケーキと紙袋。 「周乃、誕生日おめでとう」 灯りのついた玄関で微笑んだ彼に、昨夜からそわそわしていた心が一段と弾んだ。 「ありがとう」 ケーキを受け取って雪を払う陽輔を招く。 祖母の家に住みはじめてから、これほど自分の誕生日を待ち遠しく思ったことはなかった。歳を重ねることに複雑な思いを抱きながら生きてきたのだ。 周乃の気持ちが伝染したのように、美重子も食べきれないほどの好物をつくってくれた。そして、いつもは周乃が拒否して出てこないケーキ。ティーカップとポットなんて何年ぶりに見ただろう。 眠っていたものや想いを上手に引き出す陽輔。周乃は自身の誕生よりも陽輔との出逢いに感謝しながら、洋菓子店について話す彼へ笑みを向けた。 夕食を終えて箱から取り出されたケーキは、雪細工のようなクリームの装飾にイチゴがいっぱいあしらわれてあった。 「イチゴのケーキなんて、本当に久しぶりね」 紅茶を淹れる美重子が懐かしそうに呟く。都内にある周乃の実家で誕生日会をしたことを思い出したのだろう。あのときはいろんな友達が来た。彩加も蓮も。周乃は頷く。前より、子役時代を思い出すのが苦にならない。陽輔のおかげだ。 「ショートケーキ、好きじゃないですか?」 彼が少し心配そうに訊ねる。祖母の代わりに首を振った。 「好きだよ。イチゴは大好き」 「それならよかった。周乃に喜んでもらわないと意味ないからな」 話す手元に、1と8のかたちを模した橙色のキャンドルが現れる。新たな興味をもった。 「こんなロウソクあるんだね」 「うん。店員さんに勧められたんだよ」 十八本の蝋燭を突き挿すより断然お洒落だ。ハッピーバースディ周乃、と書かれたプレートの後ろに添えられる数字。イチゴの紅とクリームの白に映え、まるで色彩の王国だ。 立派なホールケーキに火が点され、祝う歌とともに火を消す。 それだけでも胸がいっぱいなのに、彼はプレゼントまで用意してくれていた。メッセージカード付きということで、自室に戻ってからじっくり見ようと思う。すぐ開封する派か、一人でゆっくりプレゼントを見る派かで性格が出るわよね、と年長の二人が話しはじめる。 少し経って、インターホンが鳴った。周乃ははじかれたように腰を上げた。 二一時前なら、間違いなく宅配業者だ。小走りで玄関を開ける。粉雪がちらつく中、白い段ボールを素早く受け取った。いつものように伝票にはカタカナで『ヤハタ』とある。彩加の字だ。 ……何が入ってるんだろ。毎年、梟デザイン以外は想像がつかないんだ。 抱えて居間に戻ると、祖母が箱の大きさに肩を揺らした。 「彩加ちゃんのプレゼント、今回も大きいのね」 途端に、陽輔が目を見開いて訊ねた。 「彩加ちゃんって、もしかして女優の?」 「そう、矢幡彩加ちゃん。今すごくがんばってるわよね。あの子と周乃は同期で誕生日が一緒なのよ」 これで折畳み傘の贈り先もわかってしまっただろう。もやもやしてくるが、何も言わず陽輔のプレゼントを段ボールの上に乗せた。 「そんな縁があったんですか」 「深い縁よ。昔はすごく仲が良くて、いっつもぴったり一緒だったの」 ケーキは食べ終わっていて、残りはプレゼントだけ。なんとなく彩加の贈り物は陽輔といる場に留めたくなくて、自室へ置きに行くことにした。 「彩加ちゃんは今でも周乃が好きなんじゃないかしら。初恋は周乃だって言ってたもの」 陽輔を信頼している美重子は彩加の裏話をしている。余計なことを言っていると思いつつ、周乃はプレゼントを両手で抱えて居間を離れた。祖母の話は半分あっているけれど半分は間違っている。 ……彩加には、初恋は初恋だけど感性の部分で初めて恋したって意味、ってはっきり言われてるんだ。 はじめて見惚れたものが周乃の演技だったそうだ。『役に入り込んだりカメラが回ったりした瞬間、バッと情熱的に色が変わるんだもん、すごいよ。周乃って見てて飽きないんだ』とか『この周乃の仕草って好き。こないだ撮影で真似しちゃった』なんてことも昔は言っていた。彼女も一人っ子だから、接する気持ちは兄弟や戦友にとても近い。 「周乃」 自室に着いてダンボールを置くと、後ろから陽輔の声が聞こえた。 「彼女のプレゼント、開けないの? 美重子さんが気になってたよ」 部屋に入ってきたと思えば、そんなことを言い出す。陽輔のプレゼントを先に開封するつもりでいたが、祖母の名前を出されたら仕方ない。 「開けてもいいけど」 彼を見上げる。目を見て、直感的に中身が見たいのだと悟る。もやもや感は増したが大人しく段ボールを開いた。ピンクの緩衝材に包まれた色とりどりの包装。渋い顔をする陽輔が座って周乃の動作を見つめる。 出てきたのは、梟の目覚まし時計とパーカー、バスタオル、ボクサーパンツ。そしてチョコレート。毎度の如くすごいセンスで笑ってしまった。美重子が見たら「どこまでも梟なのね」と苦笑するに違いない。 「梟好きかと思ったけど、彼女だったのか」 ようやく梟だらけの家の理由がわかったようだ。しかし、謎が解けたわりに堅い声。 周乃は最後に一番下に敷かれていたA4型の包装を取り出した。中身は、彼女が使用した芝居関係の資料と使用済の脚本、そして映画の完成披露試写会の招待状一枚。彩加は手紙を添えない。代わりに自身が出た雑誌や出演した台本をプレゼントとともに送ってくる。 暗に芸能界に戻ってきてほしいという意思表示だ。前回は写真集がメインだったが、今回はチケット。自分の演技を見せたいというより、周乃と一緒に映画に出たいという意味が篭もっているのだろう。 彩加は待っている。でも、まだ行く気になれない。 「映画?」 「準主役みたいだよ」 チケットに印字されている文面を彼が覗き込む。眉を寄せて熱心に読む様子に、周乃は悩みながら親切心で差し出した。 「試写会、陽輔さん行く? あげるよ」 このタイプの試写会なら彩加は登場しないだろう。陽輔が一人で行っても問題ない。 「周乃。それ、……本気で言ってんのか?」 あからさまに癇に障ったような声が響いて、ハッと彼の顔を見た。 怒らせてしまったのはすぐわかった。けれど、理由がわからない。突然のことに思考が変な回転をする。 ……彩加が来ない試写会だって気づいてた? オレが彩加と陽輔さんを会わせたくないって、思ってることも。 心の底で勝手に決めつけていた、陽輔は彩加に気があるのかも、という前提がマグマのように湧き上がり、混乱のまま口を開いた。 「ごめんなさい」 子役時代の口癖。怒らせた理由を教えてほしいとは言えず、目でごみ箱を探す。 ……早く機嫌を直す方法。わかんないよ。 はじめて見た陽輔の憤り。怒鳴るわけでもなく、何がいけなかったのか諭すわけでもなく、ただ睨んでいる。沈黙が怖い。それ以上に、陽輔に嫌われることが怖かった。 「本気で言ってないから。ごめんなさい。これは、捨てる」 ……許してほしい。何か言ってほしい。 元凶のチケットを無くしたら元に戻るかも知れない。短絡的にごみ箱を引き寄せようとすれば、ついに陽輔が動いた。 手首を捕まれる。あまりの強さに周乃は反射的に目をつぶって身をすくめた。チケットがはらりと舞う。 ぶたれるのかもしれない、という恐怖が心を巣食った。知らない人のような彼。頬に破裂音は響かない。代わりに手が細腰へ回り、ぐっと力任せに寄せられて何かがあたった。 くちびるに触れたもの。 驚きのあまり目を開く。近すぎる彼の視線は獲物を射るかのようだ。 キスだとわかっても拒否できず、抱きしめられた状態でもう一度くちづけられる。こわばったくちびるから痺れるような熱が全身をめぐり、周乃の思考を完全に停止させた。 抵抗のない身体を彼は無理強いしなかった。キスが終わると、あっさり身を離す。立ち上がった陽輔を見上げた。照明が眩しい。 「俺は、」 見えていた表情は、苦渋に満ちていた。 「好きなんだよ、周乃のこと」 静かに言った彼が、ボディバッグを持って部屋を離れる。返す言葉が思いつかなかった。 口から心臓が出そうなくらいドキドキしている。最後に落とされた告白とその熱量が、身体中をうごめく。陽輔がいなくなったとわかっても、周乃は動けなかった。 足元に落ちている招待状。ゆっくり目に入ると、ようやく金縛りから解けたように指がふるえる。 突然すぎて驚いた。キス自体ははじめてじゃない。ファーストキスの相手は、彩加だ。 ……でも、こんなのじゃない。彩加は仕事の延長だった。 彼のくちびるにはまったく違う熱があった。もう一度触れたくなるような、強烈な何か。 陽輔の痕跡を拾いたくて、段ボール横にあったプレゼントを開封する。帽子と梟のブックカバー。周乃が梟好きだと勘違いしていたことがよくわかる。 そして、メッセージカード。 ――誕生日おめでとう。心の中で描いている夢が、ちゃんときみのものになりますように。俺はずっと周乃のことを見守っています。 ……ずっとオレを見守ってくれるって。 これからも傍にいてくれるという意味だろうか。キスをされなければ、単純に感謝するだけで終わっていただろう。 ……キスと、好き。 彼が言った「好き」の意味くらい、恋愛に疎い周乃でもキスでわかる。 好意の裏にあった彼の情に赤面する。陽輔がいつから自分のことを好きになったのかわからない。途中から? 最初から? 同性なのに? でも、そんなことはどうでもいいように思えた。 ……好き。陽輔さんは、オレのことが好き。 いろんな人に『好き』と言われたことがある。けれど、こんなに嬉しくて身体が熱くなることははじめてだ。 自分を好きだと言ってくれた陽輔に、触られたい。触りたい。またキスされたい。ずっと一緒にいたい。彼がくれたプレゼントを抱きしめてうずくまる。 強烈な感情と熱で、その夜は寝られなかった。真夜中を過ぎると熱は下がり、名前のつかない想いをかき集めて細い身体を丸くした。梟と彩加のことで罪悪感が湧いてくると、彼が家を飛び出てしまったときに追いかけたほうがよかったのかも、なんて後悔が芽生える。 怒った明確な理由はわからないが、何らかの誤解をしている可能性が高い。祖母も突然帰宅したことに驚いていた。 ……陽輔さん、次はいつ来るんだろう。 くちびるを触って、何度も何度も次に来る彼をシュミレーションする。 朝日を窓の隙間から感じると、我慢できず布団をはいで、彼と病院で出逢ったときに渡された付箋紙を探しはじめた。 ずっと必要ないと思っていたもの。水色の小さい紙は、午後になって見つかった。滅多に触れない携帯電話を手に取る。周乃は数字の羅列を押した。 陽輔は出なかった。コール音ばかり響き、やがて留守電となる。それを二度続け、夜も一度かけた。アルバイトか他のことで忙しいのか出てくれない。卒業旅行もまだ先なのに、翌日も同じようにかけたところで彼は出ない。 ……知らない番号は、出ないようにしているのかな。 携帯電話の番号を教えておけばよかったと痛烈に後悔しながらも、周乃は諦めなかった。メッセージカードには、ずっと見守っている、と書かれてあったのだ。 「おばあちゃん。陽輔さんからなんか連絡あった?」 祖母に陽輔からの連絡を確認する。「特にないわよ」と首を振られた。 「卒業旅行と就職の準備で忙しいんじゃないかしら。陽輔さん、引っ越しも考えているそうだし」 美重子の見解に、周乃の心はさらに冷えた。確かに夏頃、通勤を考えて引っ越そうかなとかなんとか言っていたことを思い出す。 すぐ自宅の固定電話から陽輔を呼び出した。しかし、繋がらない。「すぐ引っ越しはないと思うわよ」と祖母に慰められたが、不安ばかりが積もる。 猛烈な寂しさと不安がピークに達した四日目の夜、ようやく携帯電話のコール音が途切れた。 「はい、星野です」 他人行儀な台詞が耳に届く。待ち望んだ声に笑顔がこぼれた。 「陽輔さん」 しかし、数秒の間が入り、彼のトーンが落ちた。 「ああ、周乃か」 溜息とあわせたような返答。身を少し硬くして頷いた。様子がおかしいという直感が働いたものの、伝えたいことを伝える。 「うん。誕生日のときは、いろいろありがとう。メッセージも、」 しかし、それに対する反応はない。彼らしくない態度に焦った。 「今、忙しい? 邪魔してた?」 「いや」 耳に届いた素っ気ない返事。嫌な感じに血の気が引く。それでもなんとか気持ちを奮い立たせた。 「あの、それで、話がしたくて、」 彼の相槌を待ちながら、耳を澄ます。 「ごめん」 飛び込んだものは、微塵も望んでいた言葉ではなかった。 謝罪の一言に、心臓が凍った。 「俺はしばらく距離を置きたい。ごめん。……切るよ」 明らかな拒絶を、陽輔は躊躇いなく口にする。その衝撃の激しさに息が止まった。 プーップーッと切れた通話音。大きくえぐられた胸に呼応して、ぶるぶるとふるえがくる。白い指から携帯電話が滑り落ちた。 服に水滴がいくつも落ちる。ぼろぼろと零れる涙。どうすることもできず、ズキズキと張り裂けそうに軋む胸を押さえ込んだ。 ……いやだ。痛い。苦しい。 なぜ拒絶されたのか理由を探す余裕なんてない。それ以上に、痛感した想いが身体中をめぐる。 ……オレ、陽輔さんのことが好きだ。すごく好きなんだ。 好かれていることに浮かれていた。けれど気づく。陽輔が自分を想うより数十倍、自分のほうが彼のことを好きかもしれない。 触りたい、触られたい、キスされたい。ずっと見守ってほしい。それは陽輔に対する恋しさゆえの感情だ。 陽輔への気持ちが恋だと、こんなことにならなければ気づかなかった己の愚かさを周乃はひどく恥じた。曖昧にするクセ、逃げるクセ、今まで放っておいたツケが全部回ってきたようだ。 大好きな人に拒絶された恐怖。心臓を握り潰されたように動けず、久しく出た涙は長い間途切れなかった。 ……しばらく距離を置くっていうのは、たぶん、落ち着いたらまた会いに来てくれるって、意味じゃない。 芸能界から曖昧な笑みを向けて、距離を置いた周乃ならわかる。自分からは会いに行きたくないということだ。彼の言葉を鵜呑みにしてこのまま部屋で待っていたら、おそらく音信不通になってしまう。 接点は、いつも彼がつくってくれた。会いに来てくれることに甘えていた。でも、彼は就職する。市内の大学から都内へ勤める。こんなことが起きなくたって、会う機会は必然的に減っていくのだ。 ……引っ越しまでされたら、本当に会えなくなる。全部ダメになる。 冷静になってくると、いてもたってもいられなかった。 ……今すぐにでも、ちゃんと話がしたい。陽輔さんを失いたくない。想いを伝えたい。 翌朝、美重子に住所を教わった。腫れぼったい瞳について何も触れず、地図を渡して印をつけ、外出する姿を見送ってくれた。彼女に感謝して、周乃は陽輔が買ってくれた帽子を深く被った。 |
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