* ディアガーランド【第7話(最終話)】 *


 電車で二駅、そこから徒歩で八分。昼過ぎの空の下で、彼の住む低層のマンションを見つけた。部屋番号に沿って星野という苗字を確認する。深く一度深呼吸をした。居てくれるように願った。
 インターホンを鳴らす。
 すぐにドアが開いて、不思議そうな表情から一転して驚いた顔になった陽輔を見上げた。すぐ気まずそうに目を逸らす。勇気が萎れそうになるくらい辛い仕草だったが、努めて心を落ち着けた。
「突然、ごめんなさい」
 深く頭を下げる。沈黙を周乃は選んだ。頭を上げないでいると、ドアはさらに開いた。
「いや、違う。俺のほうがわるかったんだから。……やめろよ、そんな、周乃、顔上げて」
 戸惑ったような声が降る。泣き腫らした顔と頭を垂れて動かない姿勢を見た陽輔は観念したようだ。謝ることも誠意の見せ方も、周乃は子役時代に身に着けている。
 顔をそっと上げると、彼はちゃんと自分を見てくれていた。
「中に、入るか?」
 拒絶されなかったことに、大きな安堵を得た。来てよかったと思った。
 陽輔はデニムのパンツにトレーナーを着ていた。部屋は1Kだがかなり片付いていて広く感じる。整頓好きなのかと思ったが、一角に大きなゴミ袋が五つも置かれていた。
「ちょうど片付けしてたところだから、よかったよ。卒業前に全部整理しようと思って」
 苦笑まじりに彼が言う。整理、という言葉に周乃はヒヤッとした。
「引っ越しするの?」
 祖母と話した転居のことが頭を突いて訊ねる。彼は軽く答えた。
「まだしないよ。でも、そろそろしようとは思ってる。何か飲む?」
 まるで世間話をするようだが、引っ越す気があると知って、それなりに考えていた段取りは全部吹っ飛んだ。振り向いた彼に近づく。
「いつするの? もう、この街からいなくなるの?」
「だから、今はまだしないって。でも、入社して落ち着いたらするよ。会社は都内だし、……ずっと考えてはいたんだけど」
 困った顔で周乃から一歩後ろに下がろうとする。
 嫌だった。彼がこの街から離れてしまうのは、寂しいを通り越して、怖い。
「もう、会わないつもりだったの?」
 頭が真っ白になって腕を掴んだ。ぎょっとしたように彼が見てくる。
「いや、ちょっと、」
「距離を置くって、本当に、そういう、」
 昨夜受けた衝撃が胸に翻り、瞳から大粒の涙が滑り落ちた。
「オレ、陽輔さんのこと、失いたくない。どうしよう。好きなのに、」
 ずっと我慢していた想いがあふれた。
 大好きなものに没入すると感情が抑えられなくなる。そうして演劇や小説の役と数え切れないくらい同化してきたけれど、……ここまでの想いははじめてだ。涙が止まらない。
「いなくなるのなんて、やだよ」
 陽輔以外、今は何もいらなかった。彼の息遣い、体温を、鼓動を感じたい。
「周乃。どういう意味で言ったんだ?」
 陽輔が真剣な目で、泣き顔を覗き込んだ。
 内包される意味なんて、わかっているだろう。ただ、ちゃんと確かめたいのだ。周乃も彼に自分のすべてを確かめてもらいたかった。
「オレも好き。陽輔さんのこと好きだよ」
 ふるえる声で伝える。
 途端、陽輔の手が背に回った。ぐっと引き寄せられる。強く抱きしめられて周乃も腕を回した。
 彼のにおい、彼の熱、心臓の音。
「俺も好きだ」
 かみ締めるような言葉が陽輔の身体から伝わってくる。誕生日の夜に聞いたものより、愛おしく。
「周乃のこと、ずっと好きだった」
 ずっと、という単語。いつからかわからない。緩んだ力にあわせて問おうと顔を上げる。けれど、くちびるを重ねられてどうでもよくなった。脳を溶かすような電流が走る。
 ついばむようなキスから、陽輔がハッとしたように顔を離した。
「ごめん、まずい、」
 我に返ったようだ。昼前でまだちゃんと話をしていないことに気づいたようだ。けれど、周乃は想いが通じあえたことで全部解決したような心地だった。腕が離れるのを制した。
「え、やだ」
「ちょっと、周乃、マジで抱きたくなるから、」
 率直に言われても、触られたい自分と抱きたい陽輔で遠慮される意味がわからない。もっともっと触ってほしい。
「オレ、陽輔さんに触られるの、好き」
 彼に対して最初に想ったことは、触れられると気持ち良い、だった。だから、この手は離したくなかった。
「気持ち良くて大好きなのに」
 動きを静止させた彼に、周乃はかまわずくっついた。触られるだけじゃない。電車で寄りかかるのも、今さっきみたいに抱きしめられるのも好きだ。
 陽輔の手が動いて、細い手首を掴まれた。
 あの夜にも味わった強さ。でも、もう周乃は怯えなかった。彼の感情の強さだとわかったからだ。
 彼を見れば、決心したような瞳。黙って手を引かれた。視線で行き着くのがベッドだとわかる。
「周乃、イヤになったら、すぐ言ってくれよ」
 コートを脱がされてベッドに腰かけた。イヤになるはずがない。はじめてのことにすごくドキドキはしているけれど、陽輔にすべてを触ってほしかった。返事の代わりに彼を見上げて手を伸ばす。
 腰を落とした彼がくちづけてくれた。キスは深くなって、身体の奥に知らない炎が移された。少しずつ、彼と同化するような感覚。
 一枚一枚服を脱がされて素肌に触れられる。薄く浮いた肋骨をなぞり、くちびるは首もとへ。ゆっくり押し倒され、骨格を確かめるように触られる。
「……っ、ん、……ひゃっ」
「くすぐったい?」
「うん、あ、ふふっ」
 はじめて触られるところは、むずむずする。子どものような周乃の笑みに、陽輔は真剣な顔をしているが、どこか嬉しそうだ。胸やお腹を何度もくちづけられる。
 ささやかに尖る乳首を指で何度も何度もなぞられると、次第にむずがゆくなってきた。
「ん、……っあ、ん……ん、」
「気持ち良くなってきた?」
「あ、っん、っう、ん、いい、」
 薄い皮膚がヒクヒクしてくる。その奥にある炎が少しずつ大きくなって足を動かす。
 すると、不意に勃ち上がっているものに触れられた。ビクッとわなないてしまったせいで感じたことに気づかれただろう。男の大きな手が周乃の性器をしごきはじめた。
「ふぁ、ん! あ、ん、っん」
 舌や指で敏感な皮膚もなぞられる。我慢はいらないのに、近くにあった枕を掴んでぎゅっと顔を押し付けた。息を吸うと陽輔の体臭を感じて悦びは増した。
「っあ、や、でる、あ……ッあ、ぁあ!」
 人に促されて射精する快感に、周乃はぼーっとして息を継ぐ。その間に陽輔が服を脱いでいた。
 目に飛び込んできた彼の裸に一度沈静した炎が戻ってくる。陽輔に促されるまま、脚を大きく開いた。性器のさらに奥のところを指で探られる。
「ごめん、ここ、いい?」
 なんとなくやることがわかって頷く。怖いよりも、陽輔とひとつになりたい。頷き返すと、彼が何かのクリームを持ってくる。
 繋がるためのポイントをそっと指でさすられ、緊張で目を逸らした。その表情を見たのか、陽輔が覆いかぶさってくちづけてくる。
 舌の弾力を周乃も自分の舌で触れ、キスの気持ち良さを体感すると同時、体内に何かが入った感覚に下肢はふるえた。
「ぅん、っん、っ、ん!」
 男の指だと気づいて、きつく締めてしまう。陽輔がくちびるを離した。
「周乃、少し緩めて。……そう、上手だ。ゆっくり息して。一緒に、気持ち良くなろうな」
 やさしく頭を撫でられ、硬い身体がほぐされる。彼の言う通りにしていれば、柔らかい電流が中から生まれてきた。
「っん、……ぅん、ぁあ! ンっ、あ、んっ」
 感じるポイントがあることに気づいた身体は、彼の指をいくつも飲み込めるようになった。ビクビクと背筋へ快感がのぼっていく。
 彼の顔を見る。自分ばかり気持ち良いような気がして、言葉がもれた。
「も、あっ、あんっ、いっ、しょに、」
 陽輔は三本の指が抜いて、下肢を抱えた。
 鼓動が早まる中、周乃は教えられたようにゆっくり息を続けた。ほぐされた部分に大きなものがあたり、内部へ慎重に埋め込まれていく。たまらず小さくのけぞった。
「んっ、ふ、はっ、あっ」
 同化する窮屈な内側に、おかしくなるくらいの痺れがある。「痛くないか」と言う声かけにも反応できず、周乃はビクビクと皮膚をふるわせた。ゆっくり彼が動く。支えがほしくて手を伸ばした。
「あ、あっ、ぁん! い、あっ、アッ!」
 求めていた身体が自分とひとつになっていることと、大好きな陽輔の欲を打ち付けられることが快楽を増幅させた。感じすぎて、もっと溶けあいたくて、きゅっと彼にすがる。陽輔が零れた涙を指でぬぐってくれる。
「周乃、気持ち、イイ?」
 熱っぽい声に喉を鳴らせた。指で乳首をつままれて、受け入れ口が締まる。
 たまらなかった。彼を見上げ、喜悦をもらしながら微笑む。その満たされた表情で陽輔の腰が深く動いた。瞬く間に、一層激しい熱が翻弄してくる。
 周乃はいっぱいに男の欲を受け止めた。もう一度精を吐いて強く抱きしめられる。そして、腕の中で愛されていることを実感した。

   ◇   ◇   ◇

 彼に連れられるまま都内の小劇場を訪れた。夜更けまで陽輔とひとつになっていた身体は少し重い。けれど、おかげで芝居を観ることにひどく緊張していた心は落ち着いていた。
 三月になったばかりの金曜日。蓮の描いたお芝居を見に来た。
 陽輔の下に蓮から公演を誘うメールが届いて、一緒に行こう、と彼が誘ってくれたのだ。脚本は出来上がるたびにもらっていたけれど、行く気になれなかった舞台。でも、はじめて行きたいと思えた。陽輔の言葉に頷くと、彼がとても嬉しそうにくちづけてくれた。
 演劇の世界に心を傾けるほど、陽輔が喜んでくれることを、付きあうようになって知った。彼は才能があれば俳優になりたかったそうだ。だから、舞台に携わる人を尊敬しているし、憧れているのだ、と。
 はじめて抱かれた日、互いの小さな誤解を解いた。
 陽輔は祖母の言っていた彩加との関係を鵜呑みにしていたらしい。有名な若手女優の初恋相手であり、いまだに交流があって、彼女のプレゼントを大切に使っている周乃は彩加の密かな恋人かもしれない、と、妄想と感情が爆発してしまったそうだ。周乃は笑って否定した。そして、梟が周乃の好きな動物であるという誤解を解かないできたことを謝った。
 プレゼント開封時、怒った感じになったのは、人の気を知らない周乃の無邪気さにカチンときたこともあったが、それ以上に自分自身の驕った部分に腹が立ったからだという。
『俺は周乃を知ったつもりでいた。それに、一般人で男である自分は矢幡彩加には勝てないと思ったんだ』と言われて、本当に申し訳なく思った。キスは衝動的だったそうだ。家に帰って猛省して『好きすぎて、会ったらまた周乃に何かやっちまうかもしれない。だから距離を置きたい、って言ったんだ』と白状してくれた。彼のことがさらに好きになった。
 また、告白で言っていた『ずっと』は、周乃の子役時代からだということだ。長く憧れだと思っていたが、出逢って仲良くする間に、恋心だったと気づいたらしい。早い段階で意識して接していたと聞き、今までを思い返して少し照れた。
 そんな陽輔は、周乃の知らないところで蓮とも仲良くなっていた。蓮が『おれがいくら言っても周乃には響かなかった。でも、あなたの声は周乃の心に届くみたい』と電話で話していたことも教えてくれた。
「中、入るか」
 地下に続く階段に頷く。昼の回。陽輔にチケット受付を頼んで、ドアをくぐる。
 暗がりの空間は、三十人程度しか入らない穴蔵のようだ。でも、ワクワクする何かが空間の密度を上げていた。脚本を書いた蓮が忙しいのに笑顔で迎えてくれる。
「役者さんが何かしてきても拒否しないでね」
 一言だけ、約束を取り付けられて彼は裏に引っ込んだ。もらった台本にそんなシーンはあっただろうかと首を傾げつつ、上演を待つ。
 物語は定刻通りにはじまった。
 瞳を一度めぐらせ、感性のスイッチが入る。
 最前列の真ん中で食い入るように物語を見つめていた中盤、主役の女の子が唐突に目をあわせてきた。客席の外で展開していた劇中に突然招かれて、大きく瞬きをする。
 すぐに蓮の仕業だと気づいた。
 彼女は、周乃に花冠を渡した。ディア・ガーランドというタイトル通りの演出が、こうしてかたちになったことを知る。台本を読むだけではわからない客席と舞台の隔たりを無くすシーン。受け取って演劇の面白さをまたひとつ見つける。
 彼らの世界は美しかった。終わって蓮が飛び出してきて、ぎゅっと抱きしめられた。はじめて自分の演劇を見てくれたことに感激したようだ。フラワーガーランドは小道具で、毎回誰かに渡しているという。
「真剣な目、してたね。おれ、周乃の演技好きなんだよ。スポットライトに当たるとすごく感情豊かで情熱になって、」
 興奮する蓮に「褒めすぎだよ」と返したが、周乃もはじめて見たお芝居に、とてつもない熱量を感じていた。時間の許す限り蓮と話して、外へ出た。
 演じることの情熱と希望。道を歩くとふらふらした。
「どこかでゆっくりするか?」
 終始、繊細な恋人の様子に気を配る陽輔が問う。彼のやさしさに甘えた。
「ううん。陽輔さんの部屋がいい」
「じゃあ、帰るか、うちに」
 私鉄からいつもの各停電車に乗り換える。始発で多くの人が乗車してきたが、次第にガランと空いていく。高架を上がれば、春の空、やがて見えてくる富士山、柔らかな日差し。
 手に持った、ペーパーフラワーの冠に光が滑る。
「俺さ。今日芝居見て思ったよ」
 陽輔の声に目を上げる。
「周乃なら、もっと輝くんだろうな、輝けるんだろうなって」
 空いた片手に触れ、握られる。すごく好きな手。愛しく見つめる瞳。
「舞台に立つ、周乃が見たい」
 彼の言葉。さながら愛を告白するようで、周乃は微笑んだ。
 陽輔への愛に気づいたときのような熱情を、今、芝居そのものに感じている。自分でも演じられるかもしれない、ではなくて、もっと能動的で確かな想い。
 ……オレも、演じたい。演じてゆくんだ。
 花冠を握り締めてゆっくり頷く。
「うん」
 寄り添った身体と身体に繋がれる未来。瞳を閉じれば、瞼の裏に広がる。
 眩しいスポットライトと観客と鮮やかな世界。その中で、周乃は舞台に立つ自分自身を見つけていた。




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