* ディアガーランド【短編「メイ・ディア」】 *


「美恵子さんの飯はやっぱりうまいなあ」
 土曜夜の住宅街。低層マンションへ帰る道すがら、美恵子に傘を持たされた陽輔が呟いた。先刻、彼女の前でも純和風の食卓を褒めちぎっていたのだから、よほど好物だったのだろう。
 隣で帽子を深く被った周乃も大きく頷く。
「陽輔さんと会うのが一ヶ月ぶりだからって、相当張り切ってたよ」
 社会人になってますます食生活が荒れそうだ、とこの間陽輔が話していたことをまま祖母に伝えたおかげだ。
「金目鯛の煮つけなんて外食だと高くつくから本当に嬉しかったよ。お土産がドーナツだけっていうのは足りないよな、今度もっと良い和菓子なんか持っていくようにする」
「いいよ、そんな気にしなくて。ドーナツ美味しかったよ」
 昼間の用事ついでに都心の有名店で買ってきたというお土産は、周乃がいままで食べたことがないくらい上品な味がした。陽輔の持ってきた洋画を観ながらいただくと、まるで映画館にいるような心地にもなった。彼といればいつも新鮮な楽しさに包まれる。
「それにしても、あんなでかいテレビに買い替えたなんて思わなかったぜ。現物見てびっくりした」
 続いた陽輔の台詞に微笑む。居間の新米家電のことである。先月古くなったテレビを買い替えて、画面が数倍も大きくなったのだ。
「持ってきたミュージカル映画、すっごい迫力だったな! あれならわざわざ映画館に行かなくてすむなあ」
「うん」
 美恵子もそのつもりで大型にしたのだ。しかも、両親に手配を頼んだことも周乃は知っている。はじめはいらぬお世話だと思ったけれど、65インチの大画面を見た瞬間に圧倒された。音も画質も優れ臨場感がある。
 試しに買った能の映像集を流してみて、祖母の選択が誤っていなかったことを思い知った。
「でも、あれで民放とか流すと家に知らない人がいるみたいで嫌だよ。おばあちゃんが普通のテレビを流してるときに遭遇すると、たまにものすごくびっくりする」
 ひとつだけ難点をぼやけば陽輔が笑った。
「そりゃ、カメラが近づいたらすぐ等身大になるよな」
「うん、それでソファーも少し後ろに下げたし。距離感はまだちょっとつかめてないんだ。能とか観るときは近づいてまじまじと見ちゃうけど」
「確かに。でも、天貝ミニシアター、俺は気に入ったよ。周乃のほうも前より今のほうがいいと思ってるんだろ?」
 それは素直に頷く。気持ちに余裕があるときは色んな映像集を流したくなり、居間を陣取ることも多くなった。祖母は家事をしながら孫の様子を温かく見つめている。
 すっと抜ける風に花の香りが乗っていた。横に連なる家々の塀から飛び出ている白とピンクの花々。どれが今の香りだろう。アスファルトを踏みしめながら考える。映像で足らないのは、こうした感触と匂いだ。
 ゴールデンウィークが過ぎ、梅雨に傾く前の季節。好きな人と歩く道。空が雲で覆われていることだけが残念だ。
 ……梅雨になるまでは、頑張って外に出ること続けよう。
 陽輔や友人兼従兄の蓮によって、少しずつ気持ちが外に向いている。数日前には蓮を通して彩加と会う話も取り付けた。売れっ子女優として邁進している彩加とスケジュールをあわせるのは至難の業だが、彩加もできるだけ早く会えるように調整すると言っているらしい。
「この時期だったな」
 彼の声に目を向ければ、同じように空を見上げていた。
「周乃と会ったの。病院……じゃなくて、電車だったか、最初は」
 そうだよ、と頷く。あの電車の中での出逢いから一年が経っていた。
「ちゃんと覚えてるんだ」
「周乃も、ちゃんと覚えてるんだ」
「あのとき、良い本読んでるって、陽輔さんが言ってくれたから」
「あれって寺山修司の本だよな? 本当に素晴らしい劇作家じゃないか」
 そのとおり。でも、さらっと当たり前のように返してくれるのが周乃には嬉しいのだ。
「そうやってわかってくれたことが、すごく印象的だったんだ。病院で会った時も、すぐあのときの人だって気づいたんだよ」
「そっか。……実は俺も、周乃が電車の中で寺山修司を読んでいたの、印象的に感じてた。最初から顔を見て周乃だってわかったわけじゃなくて、見たことのある顔だな、寺山修司読んでる、演劇好きな子なのかな、って思って、あ、あの天貝周乃だ! って気づいたんだよ」
 言った陽輔がハッと顔色を変える。周乃が有名子役だった過去を厭っていることを思い出したらしい。
 周乃は苦笑した。少なくとも、一年前よりも子役をしていた頃を嫌ってはいない。
「そう、あの天貝周乃だったんだよ」
「ごめん、周乃、本当に申し訳ない」
「いいよ。実際にそうなんだし、実際に病院で会った時も陽輔さんは最初から子役時代の話を持ち出してたよね」
「……そうだな。あのときも、デリカシーなかったな、ごめん」
「いいんだよ。ああいうふうに陽輔さんが踏み込んでくれなかったら、おれもおばあちゃんもずっと前のままだったと思うから。陽輔さんに感謝してる」
「ありがとう。周乃のそういうところ、好きだよ」
 柔らかい眼差し。おれも陽輔さんのこと好きだよ、と同じように言いたかったけれど、外では恥ずかしくて頷くだけが精いっぱいだ。
 陽輔と出逢えてよかった、と、本当に心から思っている。
 人を好きになるという気持ちを知れたこと、そして自分は演じるのが好きなのだと改めて気づけたこと。縮こまっていた世界が光を放って開かれていく感覚を、周乃自身は僥倖のように感じていた。まだ完全に癒えない辛い過去を抱えていても、この二つの純粋な想いが周乃に前を向く力を与えて続けてくれるのだ。
 ポツ、と雨粒が肩に落ちた。
「とうとう雨降ってきたか」
 彼が呟きながら、大人二人がなんとか入れるくらいの大きな傘を差す。
 不可抗力で密着できる事態にドキドキしていると、肩に彼の手が乗った。びくっと皮膚が震える。
「もっと中に入って。濡れるぞ」
 平静な声で寄ってくる陽輔に、周乃は小さく俯いた。
「男二人でくっついてたら、」
「雨が降って傘は一つしかないんだから、怪しくもなんともないよ」
 しれっと言った台詞を受け止めて、小さく首を傾げる。見送り時の美恵子は周乃にも傘を渡そうとしていたのだ。傘はこれ一つで大丈夫、と言い張ったのは陽輔である。
「……陽輔さん、わざとだよね?」
 傘を一本にした真意を至近距離で見極める。彼は視線を合わせず口笛を吹くように答えた。
「ようやく雨が降ってきたか、しめしめ」
 言い直した台詞。わざなのは確定だ。
「そういうの上手だよね」
 薄々感じていた彼の性格を突いてみると、陽輔の眉が下がった。
「周乃は嫌い? 嫌なら控えるようにする」
 気遣う声にかぶりを振る。陽輔も別に誰かを貶めたり傷つけるためにやっているわけではない。
「ううん、全然。でも、こんな近いと、」
「近いと?」
 鸚鵡返しされて、変なことを言おうとしていた自分に気づく。途端に、艶のある情景が脳裏に甦ってきた。
 服の奥にある素肌のこすれあう感触。陽輔の男らしい筋肉。耳元に聞こえる荒れた息。
 大きくなる鼓動をとめようと、固い口調になる。
「もう、言わない」
 黙秘権を行使しても陽輔は全部わかってしまっているだろう。
「早く俺の部屋に戻ろう」
 そう言って、玄関に入るまで肩に乗せた手を退けなかった。


 ◇   ◇   ◇


 つま先まで痺れるような感触。玄関に入った途端に浴びた口づけは熱く、周乃の若い芯はやすやすと高まった。はじめはくすぐったいが先行していたけれど、今は触れられるだけで微量の電流が走ったようにぞくぞくする。
「っん、あ……あっ」
 胸に這う舌が悦びを引き出してゆく。少しずつ陽輔の体温と愛撫に溶け、愛のかたちを教わっている身体。服を脱いで彼とベッドに入ると羞恥はどこかに飛んでいた。陽輔には『つまり、それくらいエッチのときに俺に集中してくれてるってことだよな』と嬉しがられて、ついクッションを顔面に投げてしまいそうになったけれど、……確かに彼の言うとおりなのかもしれない。
 ふいに下肢の間に指が滑り込んだ。
「ふ、っあ、っん!」
 彼と生々しく繋がるスポットをさすられて、奥がきゅうっと収縮する。意識すればするほど快楽の蕾たちは次の行為を誘うように震えている。陽輔もYESかNOか聞くまでもなく、ジェルを塗った指を奥の窄まりにそっと差し入れた。状態を確かめるような動作の後、刺激を加えるように肉壁を突く。人差し指の細さでも、周乃には大きな快感だ。
「あ、あっ……ぁん!」
 陽輔の片手が薄い乳首を潰す。二つの性感帯を可愛がる彼に、周乃はたまらず手をからませた。
「っあ、よぅ、んっ、あ!」
 目尻に涙をためて年上の恋人に訴える。
 やめてほしいわけではない。
 もっと触れてほしい、もっと奥にほしい。
 陽輔はわかっているらしく、胸を弄っていた手が離れて周乃の頭を抱えるように動いた。撫でられる髪に覆いかぶさる男の身体。寄せてきたくちびるに下くちびるを食まれ、舌が入り込んできた。
 くちゅくちゅといういやらしい音が目を閉じた周乃を高揚させる。離れるとともに糸を引く唾液。その先にある雄の瞳。ただ自分の顔を見る瞳。
「好きだよ、周乃」
 ていらなく言う陽輔に身体だけでなく、心もじんと熱くなる。
「も、きて、」
 頷いて、欲のまま発した。早くひとつになりたかった。その想いはダイレクトに響いたらしく、ゆるゆると動いていた窄まりの中の指が二本になった。いつものように拡げる準備の後、彼が周乃の片脚を掲げる。あられもない姿のまま体重を預けた。
「は、ん……んっ……あ、」
 ……陽輔さんがはいってくる。
 圧迫感が愛しい。揺さぶるように奥を突かれて腰が揺れる。そして、長く放っておかれていた性器に男の指が触れた。挿入されたまま自分がするときよりも強くしごかれて、周乃の下半身が跳ねた。
「あ! あっ、あっ、っあ、や、あ!」
 性器と手を使った快楽の拘束に、周乃はあっけないほど早く果てた。肩で息をする姿を陽輔の両手がやさしく撫でる。その動きは新たな快感を生む。
「ん……は、……んっ」
「周乃、元気だ」
 また勃ちはじめていることを口にされて、わずかな理性が羞恥をもつ。でも、繋がれた箇所がずぷっと抜き差しをはじめれば、どうでもよくなった。
「あぁ、あ、あっ、ぅん!」
 一度精を吐いた安堵感から、彼のつくる刺激をじっくりと追えた。ピストン運動で昂るものは自分だけではない。自分の身体で悦楽の果てへ昇っていく恋人の顔を見て、鼓動が大きく飛び跳ねる。下肢の中心も膨らんだ。
 陽輔が最奥へ突こうと周乃を丸め込むようにした。すると性器が腹にあたってこすれた。絶妙な振動と触れ具合が不可避の悦びを見つけた周乃は、ぎゅっと身体を固める。陽輔がそれに反応して、より動きが激しくなった。
「はぁ、ん、あっ、あ! あ! あっ!」
  ベッドのきしむ音が強くなり、唐突に鳴き止んだ。ぐっと押し付けて種を注ぐ行為を、先に果てた周乃が目を閉じて飲み込む。目尻から一粒の涙が汗に溶けた。
「周乃、大丈夫? ちょっと、我忘れた」
 身体を離した陽輔が素直に言ってくる。周乃は呼吸を整えて頷いた。
 ……気持ちよかった、って言いたいけど、なんか言えない。
 事後は冷静さが戻ってくるのが厄介だ。その一方で陽輔は律儀に簡単な後始末をすると周乃を抱きしめに戻ってくる。
「気持ちよかった、って顔だよな」
 独り言に近い台詞を耳元で呟かれた。周乃は心を読まれた、と思ったものの、代わりに言いたい台詞をわかってくれた彼の勘の良さに妙な安心をもった。
「陽輔さんって」
「うん?」
「おれが心で思ってることわかってくれるから、いいんだ」
 そう言うと、頭にぐりぐりと彼のげんこつが唸った。
「いいのはいいけどなあ、心で思っていることは言ってほしいよ。心情を通訳するんじゃなくて、俺は直接周乃の口から聞きたいよ」
 暗に甘えちゃいけないと言われて、周乃も唸った。
「……うーん」
「今はどう想ってる?」
「……」
「やっぱり言えない?」
 落胆をこめずやさしく尋ねてくる。言えなくても陽輔は呆れたりため息をついたりしないことは知っている。だからこそ、信頼に甘えてはいけないと思い直した。
「気持ち、よかった」
 心は読まれているから同じ台詞になってしまうが、それでも周乃は応えた。すると、陽輔がぎゅっと抱きしめてくる。
「ありがとう」
 応えただけ返してくれる恋人の愛情。手を引いて自分を促し、未来を見せてくれる稀有な人。周乃は彼からのキスの後、手を繋いだ。
 もう、離しはしないように。




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