* モアザンパラダイス【第5話】 * |
「立てるよな?」 尋ねられて頷くと、両手で真幸を支えるように立ち上がらせた。片手を繋いで連れられるまま、ゆっくり道を歩く。彼が言った通り、誰にも気づかれずあっという間に七階の客室に辿り着いた。スペアのカードキーでドアが開けられ、すぐシャワールームに押し込められる。 自動人形のようにぐちゃぐちゃになった服を脱いで、真幸は頭からシャワーをかぶった。水はすぐ柔らかい温度のお湯になった。 ……宏和さんも、ずぶ濡れだった。 ぼーっと浴びていたが、彼のことを思い出してコルクをひねる。バスタオルで身体を拭き、腰に巻いてバスルームのドアを押した。 「お、出てきたか」 上半身裸の宏和が微笑んで出迎える。手には新たなバスタオルが二枚。 「今フロントに連絡して、タオル追加でもらった。好きなだけ使っていいよ。俺も、ちょっと浴びていい?」 一枚を渡され、真幸は頷いた。 「よし。じゃ、行ってくる」 ポン、と頭を触られ、着替えを持った彼がシャワールームへ向かう。 空は晴れ間に戻っていたが、日の光が随分弱くなっていた。デジタルロックを見ると六時半。あと少しで夜がはじまる。 のろのろと足を動かして、新たな服をバッグから見繕う。下を履き、シャツのボタンを留める。着替えをはじめたばかりの幼子のように、ひとつひとつに時間がかかった。何をやっても動きが遅い。今日は何をやってもダメだ。 静まった客室を振り返る。ライトがつけられると、とても広く感じる。防音がしっかりしているのか水音は聞こえない。 いつの間にか引っ込んでいた涙が、また瞳をにじませた。 悲しいよりも、虚しいよりも、寂しい、と思った。 心臓を握りつぶすような孤独感が襲ってくる。誰も見つけてくれないと思っていたのに、ちゃんと自分は部屋に戻ってきた。宏和が見つけてきてくれたからだ。 ……でも、今日で泊まりは最後って言われたら。宏和さんに、心の底では女々しい男だって思われてたら。 段ボールの中から拾われた子犬のような、つかの間の安堵と未来への強烈な不安。今日はよくても、明日はまた捨てられてしまうのではないかという恐怖。 ……ここに、独りでいたくないよ。 瞬きをすると、にじんでいたものがこぼれ落ちた。頬を幾重も筋が伝っていく。ドアが開閉する音がしても、真幸は立ち尽くしたまま動けなかった。風呂上りの宏和と目があう。彼の表情は涙のせいでよく見えない。 「え、ちょっと、ごめん」 驚き慌てたような声が近づいた。間近に心配するような男の表情が映った。 「悪い、そこ座ろう。……それで、訊いていいか? どうしたんだよ、ぼろぼろ泣いて。昨日も、泣いてたんだよな?」 促されてソファに座る。彼はやはり真幸の妙な様子に気づいていたらしい。 真幸はタオルを押し当てて頷いた。泣きたくなくても、涙が出てくるのだ。 「ご、めん、なさい」 くぐもった鼻声は、自分でも嫌になった。でも、それ以上に宏和に愛想を尽かれるほうが怖かった。 「男が、こんな、泣いて、気持ち、悪いね」 「そんなこと思ってねえから。辛いことがあったんだろ? 泣きたいくらいに」 宏和の反応は意外なほどやさしかった。ふと、濡れた髪に何かがあたる。彼の手だ。 「言いたくなきゃ、言わなくてもいいよ」 許すように頭を撫でてくる。二つ下の男が泣いていて、同情してくれているのだろうか。しかし、年下といっても二十六歳になる成人の男だ。しかも、昨日会ったばかりの相手。 「なんで、そんなに、知ら、ないひとに、やさしいん、ですか」 どうにか喉と心を落ち着けて、感じていたことを訊いた。真幸が宏和の立場だったら逃げていたかもしれない。けれど、彼は不思議なほど献身的なのだ。 「知らなくないよ。すごく困ってた俺を泊めてくれた。真幸はいいヤツだし、真幸が困ってるなら俺もなんかしたいなって思うだけだよ」 真幸は顔からタオルを離した。てらいなく答えた彼の表情を見たかったからだ。横に視線を向けると、覗き込むような姿勢の宏和が映る。 誠実な瞳が重なる。大丈夫だよ、と、言わんばかりにニコッと微笑まれた。 ……おれは、ずるい。勝手だ。 相部屋をOKしたのは親切心ではない。独りきりにされた虚しさが嫌だったのと、宏和が恋人の隆章に似ていたからだ。 ……最低だ。おれのほうが、最低だ。 罪悪感と申し訳なさで、また涙が溢れた。 「え、なんで、俺なんかまずいこと言った?」 狼狽する彼に、大きく首を横に振る。 「ごめん、おれ、のほう、が、」 鼻をすすって唾を飲む。バカみたいに泣いている理由とリゾートツインに一人でいる理由を伝えなければいけないと思った。真幸の誠意だ。隠し事をしてうやむやのまま宏和と離れたくない。 「どうした?」 宥めるように彼が伺う。そっと一呼吸して口を開いた。 「おれ、恋人に、捨てられたんだ」 受け入れたくなかった事実を、自ら吐き出す。途端に、大きな胸の痛みが襲ってきた。 「えッ! 捨てられた! って?」 目を大きく見開いた宏和が、悪気なく痛い言葉を滑らせる。復唱された単語に血の気は引いたが、真幸は涙を堪えてきちんと説明した。 「泊まる予定、だった。でも、来れなくなったって、メールで、おれが先に、沖縄着いて、ホテルで、……別れたいって、電話、」 一昨日の夜起きた出来事を思い出すと、ギリギリ心臓が痛む。 ……でも、これが現実なんだ。 泣かないように慎重に呼吸をする。痛ましい顔をした宏和は、申し訳ないことをしたように頭を下げた。 「そっか。悪いことした。本当に辛い話だったんだな。そんなときに俺、能天気に部屋泊めさせてって言っちゃって、迷惑だったよな。ごめんな」 反省するような台詞にかかる言葉を、真幸は恐れた。この部屋に泊まるのは今日までにする、と言われてしまうほうが嫌だ。 彼の名を呼んで、服を掴んだ。 「宏和さん、独りで、一週間も、こんなとこ、いたくない」 成人した男あるまじき発言だったが、かまってはいられなかった。知らない土地に一人きりで、あと五日も呆然としていたくない。泣きたくもない。独りにされたら悲痛な感情しか出てこない。 彼は綺麗な瞳で見つめていた。隆章によく似ている目元。でも、宏和のほうが澄んでいるように見える。 「そうだよな、一人はキツいな」 真幸が押し付けた感情を、そっと噛み締めたように呟いた。労わるような表情を見せる。 「わかるよ。辛かったよな」 肩に置かれていた手が伸びて、またやさしく頭を撫でられる。「わかるよ」という言葉の響きと彼のぬくもりがダイレクトに心を包む。真幸は泣けてしまった。 理解者がほしかったわけじゃない。ただ、この苦しみを打ち明ける相手が欲しかっだけだ。 宏和は泣くことを許してくれた。タオルを顔に押し付けて、気が済むまで涙を流す。黙ったまま彼は慰める手を止めなかった。 静かな時間は、少しずつ真幸の心を軽くさせた。掻き毟しられるような痛みも負の感情も和らいでいく。呼吸が自然なものになると、今まで遠慮していた腹の虫が勢いよく鳴り出した。 ぐるるるる。昨夜も響いた同じ音に、宏和がたまらずプッと噴出した。 「ご、ごめんなさい。おれ、なんか、最低だ、」 我に返ると全部が恥ずかしくなる。もごもごと謝れば、宏和は明るい調子で手を離した。 「何言ってんの。お腹すいちゃった? 俺、ちょうど飯持ってきてるから、待ってて」 ソファから冷蔵庫に移った彼が両手一杯に何かを取り出して持ってきた。テーブルにごろごろと転がる。 おにぎりが五つ。茶色い炊き飯だが、具もいろいろと入っている。 「おばあから持たされちゃってさ。こんなに食べきれないから、一緒に食べよう? これ、沖縄のまぜご飯でジューシーって言うの。真幸は食べたことないだろうから、ほら、おいしいよ」 一つをポンと渡される。家庭的な食べ物を見ると、空腹感がよみがえる。 「あの、ありがとうございます、気を遣わせて」 「いやいや、全部食べていいから。俺は昼も食べてたし」 昨夜と同じように、ラップをもいで素直に口にする。醤油ベースの混ぜご飯かと思ったが、出汁がかなり効いている。昆布や肉、野菜の味が引き立って、今まで食べたことのない味だった。 「おいしい?」 宏和に訊かれて大きく頷いた。ペロリと食べて、「もうひとついただきます」と、二つ目を手に取った。 「どうぞどうぞ。あと、飲み物もほしいよな。そういや、ワインがあったな」 真幸の食いっぷりを見ていた宏和は、冷蔵庫前で再び腰を落としてグラスとワインを持ってくる。 「これ飲もう。グラスも冷えてるぜ」 スパークリングワインを開ける姿を見ながら、二つ目を食べ終えた。グラスを渡され、発泡した白ワインが注がれる。 ……ワイン、ジューシーご飯の味にはあわないと思うけど。 しかし、もらった好意は受け取った。口をつけると喉が潤される。度数が高くない甘めの酒だ。飲み干して、遠慮なくまたおにぎりへ手を伸ばす。グラスを持った宏和は、傾けようとしてすぐに戻した。 「そうだ、真幸。星、観に行こうか」 たった今思いついたような提案だった。真幸はジューシーを咀嚼しながら顔を向ける。彼はグラスを置いて、もう一度尋ねた。 「数日前新月だったから、今夜は星綺麗だぜ。行きたくない? 俺とドライブ」 アルコールから手を引いたのは、宏和自身が行く気になっているからだろう。真幸が行きたくないと行ったら、じゃあ俺一人でちょっと行ってくる、とでも言いそうな雰囲気だ。 「ドライブ……」 ホテルの前でも充分観れるのではないか、と思ったが、沖縄に元々住んでいた彼が車を出すということは、お気に入りの場所があるのかもしれない。けっこうロマンチストな面もあるようだ。 「大丈夫、ご飯は急かさないから。足りなかったら、ついでに買い物もして。ビールとかも買ってこようか」 楽しい遊びを見つけたように、宏和はポンポンと話しはじめる。真幸は少し考えた。 ……ここにいるより外に出たほうがいいと思うし、暗いところだったら泣き顔も他のひとに見られないだろうし。宏和さんと一緒だったら、少しはいい思い出つくれるかも。 「行きたくない? しんどい?」 三つ目のご飯を食べ終えて、首を横に振った。悲しい気持ちは、もう充分だった。 ……少しでも、楽しいことをしたい。 「行く。行ってみたいです」 「じゃ、そうしよう。残りのワインは、後で飲むとして」 彼が片付けと準備をはじめる。結局おにぎりを四ついただいて、真幸は宏和と一緒に部屋を離れた。人に会わないよう裏手の出入り口を通って駐車場に着く。宏和は、親戚が南部で整備工場を経営していて、毎回所有している一台を借りていると話してくれた。意外にも海外メーカーのミニクーパーだ。 「いつも渋られるんだけど、レンタカー代ってお金渡すと貸してくれるんだよね」 宏和が笑いながらシートベルトを締める。助手席に座った真幸は親戚関係の広さにも感嘆していた。沖縄は一族の繋がりが強いと聞いていたが、思った以上だ。県といえど大きくない島だから、親戚も近間に揃うのだろう。 車は動き出すと、中心地区と間逆の外灯がない道をぐんぐん進んだ。 「真っ暗ですね」 「そう、星を見るには抜群だよ。空気も澄んでて快晴。台風の影響もなくてよかったよな」 運転する彼に言われて頷く。確かに、バカンスに来ていて台風に遭遇したら切ない。 ……でも、独りきりで一週間と、一週間ずっと台風だったら、台風を選ぶかも。 そう思っていると、車は広場前に着いた。少し高台になっているようだ。促されて降りると外は真っ暗闇だった。ライトが消えると踏み出す足も躊躇する。 「ライトあるから」 彼の言葉で小さな光がついた。懐中電灯を持っている。真幸は光を頼って宏和の傍についた。 「ここ村営広場なんだけど、夜になると門が閉じられるんだよ。今日は……ガキどもが遊んでいないな、よし、こっち」 ぐるりと回って、門の横にある大きな隙間から中へ入る。光がなさすぎてわかり辛いが、駐車場のようだ。 「上、見て」 宏和が灯りを消した。地上が一面、音と風しかない闇の世界になる。 そのぶん、天上には、おびただしい数の光が、まるでプラネタリウムのように輝いていた。 ……うわあ、すごい。これ、ホンモノ? ここまで見事な天然の宇宙の煌めきを見たのは、はじめてだ。 「俺、ここで星観るのが好きなんだ。ばーって、こんな綺麗なの、他にないぜ」 ロマンチストな提案だと少し思っていたが、情緒のない人間でもこの星の瞬きは見入ってしまうだろう。 「宝石箱から、一気にちりばめたみたいだ」 ……でも、宝石よりも綺麗だ。 「すごい良い表現するね」 横から投げられた言葉に、ハッとして少し照れた。 「実は内地……内地って本土の意味なんだけど、内地と見えてる星が違うの。緯度が関東より9度違うから、より赤道に近い星空なんだ。もっと南に行けば、南半球でしか見られない南十字星とかも普通に観られるよ」 「そうなんだ」 彼の腕が天に伸ばされているのがわかる。星の明るさで、人の動きがわかるというのも今まで経験したことがない。 「星座盤持ってくればよかったなあ、そこの蠍座って内地では見えにくいんだけど、とか言ってもわかりにくいよね」 指差す方向へ視線をあわせる。詳しくわからなくても、極めて強い恒星同士でなんとなく星座が導ける。古代の人々が頼りにした星々は、これくらい鮮明に輝いていたのだろう。 「ううん、星観てるだけで、本土とは全然違ってるのがわかるよ。本当に、びっくりするくらい綺麗だ」 「綺麗だよね。でも、真幸、もっと空を見て。俺が一番好きな星の見方。ずーっと、同じところ、見ててね」 また彼が指差して言う。真幸は彼の言う通り、じっと一点を見つめた。 「見てます」 何かが動くのか、流れ星が落ちるのか。そう考えていると、ある拍子に、ふわっと視界が広がった。頭上から注ぐように星が浮かび上がる。黒いキャンバスの隙間から数多の光がさらに生まれていく。 「なんか、感じない?」 「……増えてる?」 見つめれば見つめるほど、星が増えていくように感じられた。目がおかしくなったのか。一度閉じて一〇秒数える。 「そう。星空をずっと見つめてると、今まで隠れていた星まで見えてきて、それがまるで増えてるように感じられるんだよ」 声を聞いて瞼を押し上げると、星の数は元に戻っていた。しかし、また一点を鋭く見つめると、今まで見えなかった等星も一気に溢れてくる。視界のピントが噛み合ったのか、星の光に慣れるからかわからない。 「星が湧くみたいだ」 魔法のような感覚を繰り返す。真幸は星を観ることが楽しくなっていた。 「うん、湧くんだ。そんな感じ。あ、流れ星」 「本当だ」 「ずっと見てると、たくさん流れるよ」 「なんか、すごいですね。流星群の時期とか関係ないんだ」 「いいだろ。……真幸、ここに連れてきてよかったな」 嬉しそうな声を聞いて、真幸もなんだか嬉しくなった。 ……宏和さんは、本当に、いいひとだ。 キラリと光る流れ星に願い事を祈るよりも、この偶然の出逢いに感謝した。あんなに苦しんで泣いていたことが、彼のやさしさと星の光で洗われる。 「沖縄、悪い印象になってない?」 静かな問いに、真幸は顔を声の方向にあわせた。 思ったよりも近くに彼は居て、瞳は星ではなく真幸を見ている。夜目が利いて真剣な表情を感じる。 この地は、恋人に捨てられた場所だ。 印象のことを言われると、輝く星はいいが、まだエメラルドグリーンの海には不安を覚える。部屋に独りでいることを考えると、早く島から離れてしまいたいと思ってしまう。 真幸は黙った。宏和は、沈黙から回答を拾ったようだ。 「すごく良いところだから、この島。真幸が帰る頃には、来てよかったって思えるようにするから、」 何かを決めたような物言いにあわせて、宏和の手が真幸の腕に触れる。暗闇の中で彼の指が滑り、片手が重なった。手を繋ぐというドキッとする仕草に、さらなる言葉が紡がれる。 「俺、代わりになれるかな?」 とても、不思議な問いかけだった。真幸は小さな戸惑いを抱えながら、星の光に押されて頷いた。悪い意味ではない。けれど、どういうつもりで言っているのか、わからない。 ……沖縄を好きになって帰ってもらえるようにって、意味かな。 慎重に解釈を探す真幸の前で、手を握る彼は「がんばるよ」と屈託なく笑顔をみせた。 |
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