* モアザンパラダイス【第8話】 *


 ズキッとした痛みが頭に響いて、唐突に目が覚めた。この感覚は何度も経験がある。二日酔いだ。
「あたまいたい」
 かすれた声で呟けば、何かが髪に触れた。労わるように撫でられる。
 宏和だ。今日は間違えなかった。
 真幸はそっと首を動かした。照れと軽い頭痛がない交ぜになって感覚がはっきりしている。
「おはよ。水分いる? 二日酔い?」
 具合を伺うような彼の顔。間近すぎて、少し瞼を伏せる。
「うん、おはよう。頭がちょっと重いけど、飲み物飲んで一時間くらい静かにしていたら落ち着くと思う」
 対処の仕方を口にすると、宏和はホッとしたように起き上がった。
「ゆっくりしてて。俺、ちょっと売店行ってくる」
 お節介なほど世話焼きで、やさしい。
 昨夜親戚が彼のことを称した通り、売店で二日酔いを解消する品物でも買ってくるのだろう。ドアが閉まる音を聞きながら、真幸も身体を起こす。
 ……ここに来てから、ずっと甘えっぱなしだなあ。
 頭の痛みに眉間を寄せながら冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを取る。缶ビールもついでに目に入ったが、今日はなるべくお酒を飲みたくない気分だ。
 ……でも、昨夜の飲み会とカミングアウトで、心の距離はより近まった感じだ。
 会話の弾みでからかうようなキスまでされた。ドキドキしたまま寝れないかと思ったが、結果的によく眠れていた。頭痛に起こされなければ、ずっとそのまままどろんでいたかったくらいだ。
 宏和の体温は、心をあたためてくれる。
 半分ほど中身を飲んで息をついた。窓から注ぐ日差しは二日酔いの身体に眩しいが、その先に見えるエメラルドグリーンの海は相変わらず美しい。しかし、一人で眺めるのには抵抗がある。
 浜で長い時間泣いていた記憶も痛みも、まだ胸に残っている。隆章のことを考えると、そわそわして落ち着かなくなる。
「早く戻ってこないかな」
 無意識に宏和を待つ言葉がもれた。真幸は自分でもハッとして俯く。
 ……誰もいなくてよかった。
 カチャ、とドアノブが開かれる音につられて顔を向ける。彼がレジ袋を提げて戻ってきた。
「頭痛、大丈夫?」
「うん、軽度だから。ごめん、世話かけて」
「いいって、俺も買いたいものがあったから」
 ガラスのテーブルに出されたのは、ドリンクタイプの胃腸薬とパン。そして、うっちん茶という名前がついたペットボトル。それぞれ二つずつ。
「うっちん茶って何?」
「ウコンのこと。俺、ここで酒飲むときはコレをかならず飲んでる。二日酔いにいいよ。飲む?」
「ありがとう。助かる」
 どんな味か気になって、渡されるままに飲む。ウコンのお茶は漢方のような独特な味がした。宏和が隣で一気にお茶を飲み干すと、「先に風呂使うぜ」と行ってしまう。
 彼と出逢ってから、はじめての味に遭遇してばかりだ。真幸は好きになれなくても彼が戻ってくるまでに全部飲んだ。二日酔いに苦しんでいる場合ではない。
 時刻は一〇時半。ホテルでのんびりしていたいと思う反面、その時間がもったいないと思った。
 ……はじめはあんなに、時間が過ぎることを願ってたのに。早く一週間が終わればって思ってたのに。
 今は逆だ。明後日には宏和とお別れになってしまう。
 ……次、いつ会えるかわからないんだ。住まいは埼玉だって聞いたけど。
 旅先の関係は日常に戻っても続くものなのかわからない。思えば思うほど、とても寂しい気分が寄せてきて、真幸はバスルームのドアを眺めた。
 ほどなく、彼がバスルームから出てくる。ボクサーパンツ一枚の姿が飛び込んで、慌てて目を逸らした。最近運動していないと言っていたが、宏和の身体はしっかり筋肉がついていて男らしい。
 ……そういう見方は、ダメだって!
 自分を叱咤して、真幸は逃げるようにバスルームへ移動した。身体を洗うとだいぶ頭痛が引いていることに気づく。無理をしなければそのまま沈静してくれるだろう。
 タオルを巻いて室内に戻る。キャリーバッグから衣服を取り出して着替え終えると、名前を呼ばれた。
「真幸、頭痛は?」
 振り返れば、彼と目が合う。着替えをすっかり見られていたようだ。
「落ち着いたよ。もう大丈夫」
 安心させるように言う。宏和は表情を緩めた。
「なら、よかった。それでさ、……今日、俺と一日デートしない?」
 昨日と同じく唐突な提案がやってきた。期待していたものだから素直に「うん」と頷く。けれど、デートという言葉は少し引っかかる。
 ……あ、そうだ、お金。
「売店の代金忘れないうちに渡すよ」
 サイドテーブルに置いていた小銭入れを取る。すぐ彼の声が響いた。
「いらないから! 俺、そもそもここの宿泊費払ってないんだよ。今日はそのぶん全額出したいんだ」
「そんなこと……だって、昨日も車のガソリンとか、出してもらってるわけだから」
「いやいやいや、そのあたりは俺の気持ちを汲んでほしいっていうか……嫌なんだ。誠実さに欠けるし、ずっと気になって後ろめたくもなるし。お願いだから、ホテル代払うか一日デート全額につきあうか。どっちがいい?」
 目の前に来た宏和を、真幸は見上げた。
 真幸自身もここのホテル代を払っていない。隆章がカードで事前に支払っていたからだ。手切れ金のようだと思うと、気持ちはあからさまに降下する。宏和に救われたくなって迷いなく後者を選んだ。
「一日デート」
「な、それがいいよな!」
「お金のことは、今日までだよ」
 煩わしいことは考えたくなかった。宏和も同じように思ったらしく、明るく話題を戻す。
「で、真幸は南部の観光してないよな? 空港から高速バスで直接ホテルに来たって言ってたし」
「してない。城とか、有名なとこいろいろあるよね」
「あるある! 城周辺の観光とか市場の散策とか……その前に飯だな。さくっと食べられるやつにしようなー」
 ……宏和のペースに、おれ、ほんとに救われてる。
 心で呟いた彼の名を呼び捨てにしている自分に気づき、ドキッとしてしまう。でも、散々彼がサン付けはやめてと言っていたのだ。真幸が視線を上げると、背の高い彼が視線を下げてニコッと微笑む。
「用意して行こう」
 すぐホテルを離れ、高速道路を使って南部に辿り着いた。中心街に入る前にタコライスの専門店で昼食を摂り、高台にある城と周辺の観光をした。その後、多くの車が行き交う一番の通りへ向かう。
 月曜日にもかかわらず、街の中心はたくさんの人で溢れていた。北部に比べて外国客も多い。この地が観光に特化した県であることを実感する。
 ……皆、バカンス気分で訪れるんだよね。
 真幸自身も観光客の一人だ。しかし、宏和と一緒にいると旅客気分は薄くなる。宏和に付き合って帰省しているように感じられるのだ。彼の大切にしている記憶や人々を、共になぞる不思議な感覚。南国の時間をゆっくり味わいながら、彼の説明や思い出話に耳を傾けた。
 聞けば聞くほど、宏和のことをもっと知りたい、笑顔が見たいという想いが募る。
 ジリジリと熱を放つ太陽に暖房のようなぬるい南の風。海のにおいは少し遠い。暑さには辟易するが、大通りに並ぶ店に入ると涼しくて気持ちよかった。アイスを食べたり土産を買ったり、市場へ向かいつつ、ちまちま歩を止めて散策する。
 その途中、四軒目に寄った店で宏和に手招きされた。前には安物のサングラスや眼鏡が置かれている。紫外線対策のコーナーのようだ。
「これ、ちょっとかけてみてよ」
 一番透明に近いレンズの眼鏡を渡される。視力は良いほうだから、ほとんど眼鏡をかけたことはない。言われるまま両手でそっと耳にかけると、宏和の強い視線が絡んだ。
「どうした?」
「やっぱり似てるよな」
 確信したような返答は噛みあっておらず、改めて問いかけた。
「誰に?」
「奥の島に住んでるハトコ。昨日居酒屋で話してたんだよ。真幸、芳花ねーちゃんに少し似てないかって。あのひとは眼鏡してるから、ちょっとやってみたかったんだ」
 真幸は驚いた。昨夜の居酒屋でそんな話がされていたとは思わなかったし、自分の顔と似ているハトコがいることも意外だった。
「実は、最初からなんか誰かに似てるな、誰だーって思ってたんだ。だから、お互いさまだよ」
 苦笑まじりに明かした宏和は、真幸の耳元へ両手を添えて、眼鏡をゆっくり引き抜く。親近感が増す一方、やさしい彼が無理やり似ている親戚を探して言ったのではないかと思ってしまう。
「おれは沖縄っぽい顔してないと思うけど」
「でも似てる。うちのやつらも言ってたし」
 譲らない態度に、真幸は口を噤んだ。宏和だけが思ったことではないと言われると、そうかもしれないと思う。どちらにせよ芳花という女性の顔を見ないとわからないことだ。
 ……それにしても、沖縄の人ってなんか本土と顔立ちが違うよなあ。
 日本でも地域によって、土地特有の顔や体格というものがある。しかし、この島はその違いが顕著のように見えるのだ。
「昨日思ったことだけど、親戚の皆さん、顔が外国人っぽいひと多かった。東南アジアっぽかったり、ちょっとフランス人ぽいひととか」
 素直に思ったことを述べると、宏和も店を出ながら同意する。
「確かにそうだな。沖縄は昔から船が難破してここに辿り着いてって感じで、いろんな人種の血が混ざってるらしいんだよ。大叔父なんかは瞳の色がちょっと緑がかってたりするぜ。二代前くらいにオランダ人の血がはいってるって聞いたよ。俺の四代前か」
 当たり前のように話してくれたが、ヨーロッパの血が混ざっていると知って一気に憧れが生まれた。
「すごい! 先祖に外国人がいるの!」
 ……だから身長もあって、格好いいんだ!
 妙に納得してしまったが、宏和自身はあまり意識していないようだ。
「いやいや四代も前だし、俺はただの日本人だよ。まあ、沖縄は米軍の出入りもあるから、クォーターとかハーフも多いな」
 話しながら、また別の店に立ち寄る。そして、宏和がシーサーのキーホルダーを買ってくれた。水族館での反省を覚えていたらしい。気にしすぎだと思いつつ、彼の記憶力と気遣いに感動してしまった。
 シーサーのキーホルダーと屈託なく好感度を上げて行く宏和を交互に見る。
 彼とデートして楽しくないと思う人なんているのだろうか。そう思って口を開いた。
「モテそうだよね」
 彼が目を大きく開いて顔を向ける。意外な言葉だったらしい。
「全然。そうでもねーよ」
 遠慮なのか謙遜なのかわからない答えが返ってくる。そのまま、最も気になっていることを尋ねた。
「今は?」
「いない」
 即答だった。真幸はひどく安心する自分に気づいた。
 ……おれ、何に安心してるんだよ。でも、いないんだ。よかった。それだけでも、嬉しい。
 嘘がつけなくなってきた気持ちをひっそり認める横で、宏和が「四ヶ月前からフリーの身だよ」と改めて話しはじめる。相手から『連絡が毎日で、束縛されているように感じる』と別れを告げられたらしい。
「毎日連絡って言っても、何してんのかな? 具合悪くなってたり困ったことになってたりしてないかな? って、つい気になってメールとか電話したくなるだろ。でも、それが嫌だったんだって。俺は束縛してるつもりないし、返信も逐一求めてないのにさ。あわないなーって思ったら、案の定ダメになった」
 包み隠さない彼に好奇心が膨らむ。恋愛経験について訊くと、素直に答えてくれた。
 今まで付き合った人数は七人。隆章としか付き合ったことのない真幸からしてもだいぶ多い。しかも、すべて相手の恋愛相談から付き合う展開だったという。彼のやさしさに惹かれてしまうのは真幸も理解できる。だが、半年くらい経つと不穏な空気がでてくるのだそうだ。宏和の言葉を聞いて首を傾げた。
 別れの理由を聞くと、やはり心配性のところから派生する束縛じみた部分が原因になっているようだ。その他には、『すぐ家族に紹介しまくるのがイヤ』と言われたり、飲み会で潰れた女の子を介抱したらそれが彼女に伝わって『誰にでもやさしくしてるんでしょ』と疑心暗鬼で毎回嫌味言われるようになったり。また、『思いつきで振り回されるのがイヤ、段取りちゃんとつくって』と怒られたこともあったと話してくれた。メールでは遊園地に行こうと言っていたのに、当日になって暑いから水族館にしようと言い出すのが心底腹立つとキレられたらしい。大喧嘩してまもなく別れたという。
 真幸には、それらが別れる理由になること自体が不思議だった。彼女たちの言い分を多少わからないでもないが、気持ち的には「それほど嫌なことかなあ?」と思えるのだ。
 それをそっくり伝えると、宏和は嬉しそうに微笑んだ。
「だよなあ? だから、性格とか価値観の一致って大事なんだよ」
 経験者が語る。真幸は大きく頷いた。
「それは言える」
 同時に、ズキッと胸の痛みが走った。
 ……宏和の言う通りなんだ。
 結局のところ、隆章とは価値観が違っていたのだ。
「けどさ、おかしいよな。俺って、かなり尽くすほうなんだけど。それはいつも脇に置かれてるんだぜ」
 隣から聞こえる不満声に、落ちかけた気持ちが戻る。ついクスッと笑ってしまう。
「自覚はあるんだ」
「うん、相手に時間あわせてデートしたり、どこか行ったらちゃんと土産も買うし……料理とかもそこそこできるし俺。何品も用意して、」
 主張する彼は、何も間違っていないと思い込んでいるらしい。
「あの、ひとつ訊いていい?」
 真幸は一緒にいて感じた、彼のズレている部分を何気なく確かめてみた。
「おにぎりにワインあわせるとか、そういうことしてる?」
「うん? おかしい? ミートソースのパスタに日本酒とか美味しいよ? 黒ビールにチーズケーキもあうんだよなー」
 予想通りの回答が来た。食べ物と飲み物の相性が独特なのだ。そういう部分が嫌な人もいるだろう。
「俺、がんばってるよね?」
 不安になったのか、子どものように確認される。思わず笑みがこぼれた。
「そうだね。がんばってる」
 しかし、時々がんばりがズレている。
 鈴与が宏和を『思い込みが激しい』と称したのは正解なのだろう。もちろん、話を聞いている真幸も彼のやることを全部肯定しようとは思わない。でも、許容できる。自覚がないところが、かわいいとすら思える。
 ……同性相手にかわいいって思ったの、はじめてだ。宏和は格好いいのに、かわいい。
「あの、すいません宜しいですか?」
 突然、年配者の声がして足を止めた。市場に入る前のアーケード。紙を持った白髪の女性が困った顔で真幸を見ている。
「このお店を探しているんですが、通りはこれであっていますか? 通りの名前が見当たらなくて」
 申し訳なく尋ねられたことに戸惑ったが、連れ添っていた宏和はこの土地に詳しい。
 彼に訊こうと横へ顔を向けたが、すでにどこにも姿はなかった。十字路が間近だったせいか、真幸に気づかず角を曲がってしまった可能性は高い。
「すいません、僕もはじめて来たばかりで、」
 慌てて答える。彼女は「そうなの。ごめんなさいね」と引き下がってくれた。
 人の多い商店街で宏和を見失ったことに動揺しつつも、この場から離れないでいようと冷静に構えた。幸いにもスマートフォンを持参している。
 ……電源つけたくないんだけど。そんなことは言っていられない。
 数日ぶりに電源をつける。宏和から連絡は着ておらず、代わりに溜め込んでいたメールが受信されてきた。すべて黙殺する。
 ……そういえば、宏和の電話番号があったっけ。
 はぐれたら掛けてきて、とメモ用紙を渡されていたことを思い出した。急いで財布から紙を取り出す。
 それよりも早く着信音が鳴り響いた。
 救われた心地になって画面を見る。途端に、ザッと血の気が引いた。
 隆章からの着信だった。
 真幸は反射的に電源を落とした。携帯電話を見なかったことにして、バッグの奥底へ押し込む。
 ドクドクと鼓動が異様なほど早打ちしていた。
 ……どうしよう。怖い。
 恋人から受けた痛手が迫る。だいぶ静まっていたのに、じくじくと心の傷がまた裂けていく。女性と結婚するから別れたい、と言い放った隆章。台詞がいくつもリフレインしてきた。
 今のアクションひとつで、背筋が凍る思いに囚われてしまった。鳥肌が引かない。暑いのに、ものすごく寒く感じる。足が氷に固められたように動かせなくなった。自分からは逃れられない言葉と記憶の呪縛。
 ……宏和! 助けてッ!
 振り切るように、心の中で強く叫んだ。
「真幸!」
 想いに答えるような声が響いて、ハッと視線を向ける。走ってくる宏和が見えて自然と足が駆け出していた。
「よかった。見つけた!」
 モノクロだった世界が、鮮やかに色づく。涙が出そうなくらい安らぐ瞬間を胸に刻みながら、彼の目の前で立ち止まった。
 決定的な想いは、真幸の視界をクリアにさせていた。
 ……おれ、このひとがいい。
 宏和の見上げ、はっきりと自分の新しい気持ちを感じ取った。
「ごめん。ついてきてると思ってて、先走った」
 胸に手を押さえて謝る彼は、今、自分のことを第一に思ってくれている。
 すごく嬉しい。隆章よりも愛しい。
 ……宏和のことが、好きだ。
 でも、それ以上は望まないように心を押し留めた。
「こちらこそ、ごめん」
 友達同士のように言葉を返す。
「いや、俺が悪いんだから。もっとゆっくり歩く。俺がよく知ってても、真幸ははじめてのところだもんな。気になるところ全部見てていいよ。一緒についてくから」
 宏和のやさしさが心に染みると同時に、少しずつ切ない気持ちも生まれていく。
 本心に気づいたところで、想いを伝える勇気はない。
 生まれてしまった恋愛感情を知られたら、彼を失うかもしれない。両想いになれるなんて、夢のようなことだ。真幸も恋の辛さは十分知っている。
 ……好きでも、今はこのままでいい。
「宏和」
「あっ、名前、普通に呼んでくれた! 嬉しいな。それで、何か見たいのあった?」
 真幸の変化に気づかない彼は問いかける。せめて、今言える一番の想いを告げようと、少し照れながら口を開いた。
「頼りにしてるから」
 聞いた彼の表情が、びっくりするくらい晴れやかになった。
「それ、マジ?」
 たった一言で、こんなに嬉しそうな顔をするとは思わず、真幸も笑顔になった。彼が一番求めていた言葉を送れたのだと気づく。
「真幸のためなら、なんでもするよ! じゃんじゃん頼りにして。いっぱいして!」
 それから、浮き立ったような宏和と市場を見回った。興味ある店や路地に全部ついてきてくれて、わからないことや物を説明してくれる。彼の上機嫌につられて、さらに愛しさは増していった。
 日が暮れて、彼のおすすめのステーキハウスで夕食を摂った。アメリカ仕様の大きなステーキにメロンクリームソーダを選ぶ宏和を、子どもっぽいとネタにして笑う。車に乗って談笑すれば、ワープしたみたいにあっという間にホテルに着いた。楽しい時間ほど体感速度は早い。過ぎていく日々を切なく思いながら、二人でエントランスへ回る。
「宏和ー! 待てー!」
 男の大声が後ろからして、ビクッと肩をふるわせた。
 宏和は知り合いだと察したのか、足を止めて振り返る。真幸もつられて声の主を見れば、宏和より少し背が低く見たことのある風貌だ。昨日見た、辰良に似ている。
「久継か。おまえ、やっと顔出したか」
「今回は本当にゴメンな!」
 真幸は、なるほど、と思った。宏和の宿泊予約をダブルブッキングさせたひとだ。手にリボンのついた長細いボックスを持っている。包装は上品な藍とゴールド。
「紹介するよ。コレがこのホテルに勤めてる久継。辰にーちゃんとこの末弟」
「こんばんは、真幸と言います」
「あ、あああ、お客様、このたびは申し訳ございませんでした! 本当にこのたびは私のミスで大変なご迷惑をおかけして、誠に申し訳ございません!」
 私服のまま彼が猛烈に謝りはじめた。さざめく波音とともに深々と頭を下げられ、真幸は慌てる。
 彼の不手際に巻き込まれてしまったのは間違いない。しかし、久継の手違いがあったおかげで宏和と出逢えたのだ。逆に感謝したいくらいだった。
「いえいえ、本当に大丈夫ですから。ちょっと、恥ずかしいので、やめてください」
 平謝りをどうにか制して安心させる。久継は最後に頭を垂れたのち、手に抱えていた詫び品を渡してきた。箱の中身は少し重い。上等なスパークリングワインだという。こちらこそ恐縮してしまった。
「久継の落ち度なんだから、もらってよ。俺からも、今回はごめんな。そして、ありがとう。真幸のやさしさに助けられた」
「いいよ、そんな畏まらなくても」
「ありがとうございます。宏和、こちらのお客様、人間的に素晴らしい方ですね」
「素晴らしいよ。俺、最初感動したもん」
 自分を賞賛するような会話は恥ずかしかった。いいことをしたわけではなく、下心があったのは否めない。後ろめたい気持ちになるのは避けたくて急いで口を開く。
 ただ、話題を探そうにも、芳花という女性のことがずっと頭の端に留まっていて、そのことしか出てこなかった。
「それで、あの、……僕って芳花さんって親戚の方に似ているんですか?」
 唐突ではあったが、不自然な質問じゃないと信じて彼に訊いてみた。久継は真幸をじっと見つめはじめた。
「芳花ねーねー? あのひと、眼鏡かけてるけど」
「取ったときを想像してよ。どうだよ? 似てるだろ」
 宏和も気になったのか、カマをかける。凝視され続けるのは気まずかったが回答を待った。
「あー、わかった、似てる」
 彼が正解を見つけたように背を起こした。
「目の感じと、全体的にちっちゃいつくりが。口元も似てる」
 そう言って、お客様であることに気づいたのか慌てて謝られた。宏和がその様子を見て笑っている。
 ……親戚の方が見ても似てるって思うんだったら、宏和の気のせいではないんだ。
 すると、なんだか宏和の親戚の一人になれたような感覚が訪れた。妙に嬉しくて、心が近づく。もっと引き寄せたくて、久継に問う。
「雰囲気とかも似てるんですか?」
「それは違いますね。あのひと怖いから」
 素早い答えが返ってきた。わずかに落胆するが、怖い、という単語は先に続いていた。
「ぼく、正座で三時間説教されたことある」
 久継の告白に、宏和のほうが驚いた顔をした。
「マジ? 俺、そこまでキツイのはされてないや。でも、ガミガミうるさいよなあ」
 ため息をもらすような同意を重ね、久継が説明してくれる。
「芳花ねーねーは小中学校の先生で、男にだけすごい厳しい人なんです。宏和の初恋のひとだよね」
「言うなよそれ。あまりに口うるさくて萎えたんだけどな」
「女見る目ないんだよね」
「おまえなあ、俺の部屋ダブルブッキングしたくせして」
 仲良さそうな従兄弟同士の話を聞きながら、真幸は大きな引っ掛かりを感じて宏和を見つめた。
 ……おれに似てる芳花さんって、宏和の初恋のひとなの?
「で、芳花ねーちゃんって元気にしてんの?」
「元気してるよ。先月、用事で本島来てた。来年あたり、フェリーで島渡ればいいさー」
「そうだな。来年はもうちょっとがんばって、休み取ってみようかな」
 久継は明朝から仕事があると言って会話を切り上げる。別れを告げ、真幸はなんともいえない気分のまま宏和と部屋へ戻った。
 抱き締めていたスパークリングワインを冷蔵庫におさめる。
「懐かしいな、芳花ねーちゃん」
 彼の言葉には、当時の想いが残っているように感じられた。
「何年も会ってないんだ?」
 振り返ると、宏和がこちらを見て目を細める。
「四年くらいかな。離島だから船使わないと行けなくて、教員のうえに主婦で子どもも三人いるんだよ。何か大きな行事がないと会わないなあ」
「似てるって言うから、ちょっと見てみたいなと思ったけど」
 芳花さんって初恋のひとなの? とは、勇気がなくて確認できなかった。宏和は、真幸の想いを知らず見つめている。
「写真か画像探してみるよ。けっこうかわいい顔してんだぜ。コスモスの花みたいに可憐なのに、芯が図太くて言葉がきついって親戚の女連中にも言われてる。子どもときは大好きだったけど、同時になんであんなおっかねえんだろうとも思ってたよ。真幸みたいな性格だったらよかったのになあ」
 予想外の言葉が揃っていた。
 ……かわいい。コスモスみたいに可憐。それが自分に似ている。しかも初恋。
 どんな相づちを打てばいいのかわからなくなった。
「その点、真幸は俺がこれしたいあれしたいって言っても、いいよって答えてくれるから」
 面と向かって言ってくる瞳は真剣だ。告白されているような心地にされる。でも、真幸は冷静に受け止めた。ここで取り乱してしまったらこれまでの関係が失われるかもしれない。
 それに、自分のことを買いかぶりすぎだと思った。
「おれはそんないい人でもないよ。それに、宏和は強引ってわけでもないから」
「いい人だよ。俺がそう思ってるんだから間違いない。それに、真幸の許してくれる感じが、ホッとするんだ。そういうとこすごくいいなーって、好きだなーって」
 畳み掛ける真っ直ぐな言葉に、真幸は耐え切れず照れて口をきゅっとつぐんだ。
 ありがとう、と言うべきなのだろうけれど、今口を開いたら恥ずかしさと甘い期待でふるえてしまいそうだ。
 ……どういう意味、なんだろう。今のぜんぶ。
 困ったように見返すと、宏和も照れたように顔を俯けた。
 ……期待しちゃいけない。でも、好きだって言った。おれのこと、好きだって。
 真幸は身じろぎひとつできなかった。ぐるぐるしはじめた感情に収拾がつかなそうだ。見つめたまま、何もできない。
 不自然な沈黙を破ったのは、やはり宏和だった。顔を上げて、愛嬌のある笑みを向ける。
「星、観に行く? また、一緒に観ようよ」
 照れ隠しにわざとつくった笑顔だと気づく。唐突な誘いもそうだ。
 宏和が妙に意識していることも直感で知れて、真幸は弾かれたように頷いた。
 先ほど通ったばかりの道を伝って駐車場へ戻る。緊張のあまり早足になった。彼が言葉少なになっていることを、真幸は気にしないよう心がけた。静かなドライブはすぐに終わって、満点星の空の下へ辿り着く。
 今夜も闇は星のキャンバスだ。二日前はただただ感動した場所。
 見上げても、眺めても、星は真幸の目を滑った。流れ星を探そうとしても無駄だ。隣にいる男に意識が向いてしまう。
 ……星座とか、恒星の話とか、話題をつくらないと。
 風と海のにおいと虫の声。それ以外は暗闇に溶けた静寂の隙間を、真幸は緊張の中で感じ取っていた。口を開いて気軽に話しかけたいのに、できない。宏和を想えば想うほど、簡単なことが難しくなる。
 ゆっくり深呼吸すると、右腕に体温が触れた。
 ビクッと肌がふるえ、電流のような鋭い感覚が身体中を貫いた。
 宏和の手が滑って真幸の手首を掴む。探すように指が絡んで、繋がれる。
 言葉では語れない想いと意味。真幸は彼の熱を右手で受け入れながら、昨夜の不意打ちのキスも思い出した。
 同時に、ぎゅっと力がこめられる。顔はますます赤くなった。皮膚が悦びと緊張でふるえたことに気づかれたかもしれない。静けさのせいで、自分の鼓動がとてもうるさく感じている。
 ……真っ暗闇でよかった。
 宏和へ視線を向けることもできず、星を観ることもままならず瞳を閉じる。
 真面目な顔で彼が言ってくれた、許してくれる感じがホッとする、すごくいい、好き、という台詞。あのくちびるの感触。性別は気にしていないと言った意味。
 試そうとしているのか、純粋な本心か、真幸自身への好意ゆえか。
「さっきみたいに、どっか行っちゃうと嫌だから」
 ようやく、彼の声が耳に届いた。とってつけたような理由だと思った。
「行かないよ」
 握られている手が汗ばむ。
 ……宏和はずるい。
 やさしいを通り越して、なんてずるいんだろう。真幸はくちびるを噛んだ。
 好きで、好きでたまらなくなってくる。
 ……本当に好きなら、強く抱きしめて欲しい。
 想いのまま、瞳を開く。快晴の空に、恒星が宝石のように瞬いている。流れ星がスゥーと横切っていく。
 新たな流れ星を真幸は祈るように探した。まもなく見つけた先で、願い事を心の中で唱えようとして、……結局やめた。
 ……願いすぎだ。隆章との別れも、まだうやむやにしているのに。
 贅沢な空間と日々を与えてくれる宏和に、それ以上のことを期待する自分を恥じた。
 ……おれは、欲張りだ。
 それでも、繋がれる手はあたたかく愛しい。真幸は最後まで宏和の体温を離せずにいた。




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