* モアザンパラダイス【第9話】 *


 涼を広げるかすかな空調音に、ハッとして目が覚めた。締め切られたカーテンから薄く光が差し込んで、今日も晴れだと教えてくれる。静かで心地いい室内。
 真幸は、時刻を見るよりも先に寝返りを打って、そっと隣のベッドを確認した。
 ……抜け殻だ。
 宏和がいないことを知って、じっと耳を澄ます。バスルームのかすかな物音。宏和が先に起きてるようだ。
 ……寝る前、お風呂に入ってたはずだけど。また浴びてるみたいだ。
 そう思いながら、ようやく時刻を確認した。八時半。この旅行の中では一番健康的に起床している。でも、夜明けまでシーツの中でグズグズしていたのだ。まだなんとなく眠気が残っていて、真幸はあくびをすると瞳を伏せた。
 別々のベッドに寝たのははじめて、というのもおかしな話だった。昨夜は星見の空から客室に戻ると、すぐに寝る用意をしてベッドへ入った。宏和が自分のベッドに来なかったぶん、安堵と寂寥が真幸に寄り添った。好きな人と同じベッドで寝るのは、緊張で耐えられない。でも、一人寝は寂しいと痛切に思う。昨夜、ぎゅっと握ってくれた彼の手。触れたくちびる。
 ……宏和の体温。恋しい。
 反芻すると、彼への想いがひたひた嵩を上げて溢れそうになる。聴覚を研ぎ澄ませて、宏和のさせる物音を拾う。ドアの開閉に気づき、シーツに顔半分までくるまっていた真幸は、薄く瞼を押し上げた。
 裸の男が室内に入ってきて、鼓動が跳ねた。真幸は寝ていると思っているのだろう。気に留めず、宏和が髪を拭いていたタオルを首にかける。
 真ん中にスッと入った背骨の溝。綺麗に動く筋肉とアウトドアらしい焼けた肌。背の高い彼の男らしい身体つきが衣服で隠されていくことを、真幸はひどく残念に思った。そして、宏和の裸に見惚れていた自分が恥ずかしくなって、シーツを寄せた。
 彼が振り返った瞬間に、慌てて目を閉じた。盗み見していることに気づかれたのではないかという焦りも出てくる。心臓が朝から元気に動きっぱなしだ。
 キシ、と、音とともにベッドの端が沈むような感覚を認める。
 彼が自分のベッドに腰かけたのだ。狸寝入りを上手にしたくても、ドキドキが加速した。
 ……おれ、寝てると思われてるよね?
 一定の呼吸を意識して繰り返しながら心に問いかける。自然な熟睡をどうやって模倣すべきなのか。混乱している間に、髪が触れられる。宏和の手の感触に、ビクッと皮膚がわなないた。
 これで、起きていると気づかれてしまっただろう。観念して、そっと目を開けた。
 宏和は微笑んでいた。片手をベッドにつけて、覗き込むように見ている。
「おはよ。起きてたんだ」
「お、おはよう」
 そのまま数秒、見つめあった。どうリアクションを取ればいいのかわからず、真幸は照れと困惑をない交ぜにして、目をぎゅっとつむった。今の表情を、彼はどんなふうに受け止めたのだろう。
「今日は、海、見に行こうか」
 降ってきた声は変わらない。瞼を上げると、宏和は苦笑まじりに姿勢を正す。
「海、」
「真幸、ちゃんと海見てないだろ? 泳いでもないよな?」
「……うん」
 浜辺で泣いた日からずっと敬遠している。沖縄の海を美しいとは思っているが、嫌な感覚もくっついてしまっているのだ。
 大海原のような孤独。溺れたような喪失の苦しみ。波のように翻弄された感情。
「海のこと、好きじゃない?」
 真幸のネガティヴな気持ちを、ささいな表情から見つけたらしい宏和が、ゆっくり尋ねてくる。
 彼は浜で泣いていたことを知らない。けれど、あのときの自分と今の自分が確実に違っていることも、真幸はわかっていた。
 ……宏和が今日も隣にいてくれる。おれは、一人じゃない。
「海、見に行く」
 回答を聞いた宏和が笑顔になった。ポフンとシーツ越しに胸を軽く叩かれる。
「じゃあ、そうしようぜ」
 彼が立ち上がって、真幸も弾かれたように身体を起こした。促されるように着替えと用意をして、出かける前の腹ごなしに向かう。ホテルのレストランに設けられた朝食会場に、滞在六日目にしてようやく足を踏み入れた。
「やっと朝食券使ったな俺たち!」
 従業員にチケットを渡して笑う宏和に、気持ちはほぐれる。
 バイキング形式の会場は、平日の最終時間前でもそこそこ客が入っていた。連泊して、のんびり沖縄時間を過ごす人たちなのだろう。大きく縁取られた窓の先には、エメラルドグリーンの海が輝いている。真幸はプレートを持ちながら、チラと外を見た。そして、宏和の姿を見直した。海景色に、思ったより不快感はあらわれてこない。
 それ以上に、この海が宏和を育てたのか、と、やさしい想いが生まれてきた。
 ……ここは、宏和が小学校二年生まで住んでいた土地なんだ。
 幼い頃の彼は活発だったはずだ。海で遊んで、従兄弟たちと騒いで、大人たちに見守られて、伝統を大切にして。
 ……小さいときはかわいかったんだろうな。でも、今もそういう部分、残ってると思う。
 彼を見つめると頬がゆるむ。座ったテーブルの向かいにいる宏和は、食べながら思いついたらしいドライブのルートを話しはじめている。
 真幸は彼に連れられるならば、どこでも行きたいと思った。宏和を通してならば、なんでも愛しく感じられる。
 客室へ戻る途中、ホテルマン姿の久継にも会った。少しだけ談笑して、情報ももらう。今日も天気はいいらしい。ところによってはスコールが降るとのこと。
 眩しい太陽を味方につけて、ドライブがはじまった。ぐるりと海岸線をめぐり、遠回りをして目的地の離島の浜へ向かう。宏和は近場の島々に橋が架かっていなかった頃の地元の昔話をしてくれる。
 運転する彼は今日も格好よかった。車を慣れたように扱うので、自家用車を所持しているのかと訊けば、一人暮らしの今は持っていないという。代わりにバイクを持っていると聞いた。想像するだけで、胸がときめいてしまった。
 ……バイクかあ。乗ってる姿、見てみたいな。
 ペーパードライバーの自分と違う。二輪はちょっとした憧れがある。
「バイクで行動すると酒飲めないからなあ。たまに、フラッと乗る感じだけど」
「でも、格好いいよ。憧れるなあ」
「そう? じゃあ、今度二ケツするか」
 てらいもなく言ってくる彼に、真幸はドキッとして運転席を見る。
 今度、という言葉。未来に続いている。
 返答の仕方に戸惑うと、気にしていないらしい宏和はハンドルから片手を離して、前を指さした。
「真幸、ここの橋からすごく綺麗な海が見えるから、見逃すなよ」
 彼の真剣な声に、真幸も動く風景へ目をやった。軽い上り坂が途切れて下る道に変わる。
 途端に、視界が開けた。
 本島と離島を結ぶ大橋。その間に碧と青が織り成す。
 言葉にできないほど、色鮮やかなリーフが当たり前のように広がっていた。
 真幸は魅入ってしまった。ホテルの前から見えていたエメラルドグリーンよりも神々しい色彩。
「ここらは透明度が高いんだ。世界レベルで、だぜ」
 橋に差し掛かって宏和が教えてくれた。
「相変わらず、バカみたいに綺麗だなあ」
 懐かしむように愛しむように呟く彼に、心底同意する。
 おそらく宏和は沖縄へ来るたびにこの海を見に訪れるのだろう。何度見ても見飽きない、また来たいと思わせる景色。
 ……こういうのを、絶景っていうんだ。
 海に対する不快感は、スコンと抜けてしまった。それよりも、なぜこんな色になっているのか、なんでこんなに美しいのか、興味が湧いてくる。
 橋を渡って左折し、物産店前のパーキングに駐車する。車を降りると海のにおいがした。ホテル前より乾いた潮風を感じながら、暑い日差しの中を浜まで歩く。海辺まで行き交う人は多く、水着を着ている人たちもいる。三分ほど歩いて白浜に辿り着いた。
「すごい。この色」
 どれだけ透明なのだろう、と、真幸は好奇心のまま波打ち際まで向かう。海はどこまでも透けていた。塩水はぬるい。サンダルが濡れるのもかわまず、橋の支柱にある岩場のほうまで歩いてみる。岩に乗って覗き込むと、透明度は顕著だ。小魚が数匹のんびり泳いでいる。
 身体を起こして振り返った。後ろから、宏和がついてきている。海ではなく、じーっと真幸を見ていた。なんだかむずがゆくなった。
「はしゃいじゃって、ごめん」
「謝んなくていいよ。そういう気持ち、俺もわかるから」
「ありがとう」
 彼が隣の岩に乗って海へ目を向けた。
「ここは車で行ける近間の海で一番綺麗な浜なんだ。俺も沖縄来るたびにここへ寄ってる。橋からすごいだろ。バーン! ってさ」
「うん、道が開けて見えた景色、本当にすごかった」
「橋を通ってるときは、なんていうか天国に行くみたいな感じだよな。あ、天国っていうとなんかあの世に行く感じか」
 苦笑する彼に、真幸はふとガイドブックの表紙にあったフレーズを思い出した。
「楽園?」
 すると、宏和が頷いて復唱する。
「そう、楽園。パラダイス。ドライブすると最高に気持ちいいんだ」
「おれも思った」
 人工では到底描けないエメラルドとサファイアのような海。そこに架かる橋を渡る感覚は、とても爽やかで解放感に満ちている。帰りがけにまた橋を渡れるのかと思うとワクワクすらしてくる。
「運転してみる?」
 でも、宏和の言葉には首を振った。
「いいよ。何年もハンドル握ってないから」
 助手席でも充分感動できるし、楽しい。真幸を見た彼が微笑む。
「この浜は、橋ができて訪れるようになった場所なんだ。だから、俺もここに関しては観光気分だよ。……でも、俺にとっての海は、やっぱりあのホテルの前にある浜だなあ。透明度は落ちるけど、あっちのほうが思い出は詰まってる」
 海を見遣った宏和の瞳。横顔には、土地を愛する穏やかさがあった。
「思い出の海が、観光的には劣る海でも。俺にとってはあそこが一番だ。って、こんなこと言い切っちゃってごめん。嫌な気してない?」
 本音を口にした彼が、しまった、という表情をする。
「してないよ。宏和の言いたいことは、ちゃんとわかる」
 気持ちを認めると、嬉しそうな顔を見せた。
「それで、ここで泳ぐ?」
 車へ乗り込む前に水着のセットも詰めているのだから、海水浴はすぐにできる。真幸がホテル前のビーチより、この島の浜に好印象を持っていると気づいているのだろう。
 美しい色に魅入られて泳ぐ人たちが、すでに何十人もいる。観光客である彼らをチラと眺めて、宏和へ向いた。
「ううん。それならホテルの前で、泳ごうよ」
 このビーチよりも、宏和が子どもの頃から親しんでいる浜に入りたいと思った。真幸の言葉を聞いた彼が、大きな笑顔を見せる。
「そうしよう。あの海で泳ごう」
 昼過ぎまで島を散策した後は、宏和が事前に連絡していたということで、親戚の家で昼食を摂りに行くことになった。宏和の祖母の妹にあたる人だという。普段は離婚した孫娘とひ孫とともに生活しているそうだが、今日は孫親子が南部へ出かけていて一人らしい。
 着いた家は、島伝統の古民家で驚いた。テレビでは何度も見たことはあったが、実際に住んでいる人を見たことも中に入ることもはじめてだ。
 連れられるまま、玄関ではなく庭へ向かう。遠慮なく開かれた縁側に、宏和は裸足で上がって奥間へ進む。
「おばあー! 来たよー!」
 真幸は恐縮しつつ、物珍しい家を眺めた。全開になった畳部屋はエアコンが備え付けられていたが、昼間は使われていないようだ。しかし、扇風機は二台動いており、風も通るので涼しい。周辺は木々に恵まれていて日陰が多い。
 庭に動くものが見えて、視線を斜めへ落とす。白猫と目があった。首輪がついていて、飼い猫と知れる。
「おばあ、これが東京から来た真幸だよ」
 宏和の姿とともに、ひょこひょこと背の低いお年寄りが歩いてきた。テレビで見たような風情のおばあさんだ。一目見て、現地の人だとわかる顔立ち。
「あらあ、あなたが。宏和の大叔母です」
「はじめまして。真幸です」
「遠いところから、ようこそ。ごはんの支度するから、待っててね」
「すいません、来たばかりで気遣っていただいて」
 頭を下げると、大叔母は穏やかな笑みで手を振った。宏和に口元が似ている。
「いいの、いいの。宏和、中味汁とソーメンチャンプルーだから。ぜんざい食べるなら、氷も削りましょうねー」
「氷は俺がやるよ。あと、なんか手伝ったほうがいい?」
「いいさー。そこ座ってなさい」
 彼女が言ったのにあわせて、猫が縁側へ飛び乗った。台所へ戻っていく大叔母から宏和を見る。
「真幸も上がって来いよ」
 招かれるまま縁側に上がる。彼が扇風機をそばに寄せてくれた。
「本当に手伝わなくて、大丈夫?」
「うん、さっき台所見たけど、ほぼつくってたみたいだから。ソーメンチャンプルーするくらいで、すぐ来るよ。ちなみに、そこにいる白い猫、ウリって言うんだ。俺がつけた」
 日陰に寝そべる猫を指差す。宏和がつけたということは拾ったのも彼なのだろう。
「由来はあるの?」
「うん。沖縄の方言でウリは、それ、とか、ほれ、って意味なんだよ。たとえば……」
 尋ねた真幸へ、宏和が両手を差し込んだ。両脇腹を唐突にくすぐりはじめる。
「ウリウリ〜」
「え、ちょっ、待って!」
 びっくりしたまま、こちょこちょ攻撃をまともに受けて笑ってしまう。彼はいたずらっぽい顔で、パッと手を離した。
「こんな感じ。ほれほれ〜って掛け声っぽいのかな。かわいいなーと思って、そのままつけた。ウリは俺が大学生のときに拾ってきたんだけど、虫とかネズミとか取ってくれる出来たネコなんだよ。夜中、庭でよく格闘してる」
 大学生のときというのだから飼い猫は五歳を超えるということだ。毛並みのよい白猫に目をやりながら、触れられた肌から甘い緊張が染みてくるのを感じる。
 ……不意打ちでちょっとドキドキしてきちゃった。
 彼の話を聞きながら心を宥めていると、ほどなくお盆を持った大叔母が来た。宏和が立ち上がって、お膳の支度を手伝う。飲み物を用意して三人で昼食となった。
 どっしりした長方形のちゃぶ台に乗る料理は、みたことあるようでないものだ。焼きビーフンのソーメン版のような食べ物と具の入ったお吸い物、三枚肉の小鉢に白飯。島のお米だと言われ、沖縄でも稲作をしている場所があることを教わった。
 中でも、中味汁という汁物が格別においしかった。豚の内臓を洗浄し、カツオだしと野菜を加えた郷土料理だという。宏和は毎年彼女の中味汁を楽しみにしていると話してくれた。実はすでに数日前、一度食べに来ているらしい。真幸がお代わりをすると、大叔母は嬉しそうにお椀を受け取った。
 デザートの氷ぜんざいも、はじめての甘味だった。みぞれ金時に似ているが、シロップは使わない。先にお汁粉に似たぜんざい汁と白玉をガラス器に入れて、削った氷を上にこんもり乗せる。登場した電動のカキ氷器は宏和が買ってきたもので、彼が慣れた手つきで三人分用意してくれた。ぜんざい汁は黒糖が効いている。使っている豆は小豆ではなく金時豆。やさしい甘さがとても美味しかった。
 沖縄の味を堪能した真幸は、さらに大叔母から地元のドーナツ菓子、サーターアンダギーを持たされ、嬉しく思うと同時に大変恐縮してしまった。何かお返しをしたほうがいいような気に駆られたが、大叔母ははじめての味を楽しんでたくさん食べてくれただけでも嬉しいと話してくれた。
「おばあの味はここでしか食べられないからね。また来年、二人でおいで。おばあも生きるからね」
 ニッコリ微笑む彼女に心が潤う。真幸は本心のまま頷いた。
「はい」
 二時間強の短い滞在から手を振って別れ、車に乗り込む。大叔母はこれから別の親戚が迎えに来るというので別の準備があるらしい。長閑な村だが皆関わり合いが深く、それなりに忙しくしているようだ。
「すっごい、美味しかった」
 車の中で、宏和へもう一度感想を告げた。隣で頬を緩ませる彼がいる。
「マジ? おばあの料理うまいもんな。俺も大好き」
「どれもはじめて食べた料理だったけど、一番美味しかったかも。あ、宏和が連れてってくれたとこも充分美味しかったよ」
 フォローを入れると、理解しているように返ってくる。
「あの味だけは店では食えないさ。中味汁はすごく手間かかるしな。また一緒に来よう。おばあも喜ぶよ」
 ……また来年も、宏和と一緒に沖縄へ行く。
 そんな未来を宏和も親戚たちも当たり前のように口にする。
 ……来年のことなんてわからない。まして、この旅行が終わった後のことも。でも、また宏和と一緒に来たい。
 真幸は願うまま、「うん」と大きく頷いた。




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