* 四季のエクストラ【第2話】 *


『あれ、もしかして吉秋のトモダチじゃね?』
 家庭教師先のリビングで、陽介とはじめて顔をあわせたとき、彼は驚いたようにそう言った。
 それが、すべてのはじまりだったのだ。五月日和の、空が美しい夜のことだ。
 桜が咲く前から金井家の長男に数学を教えていた仁は、あの日、学習時間を終えて居間へ招かれた。長男の朔太郎には、同じく高校受験生で双子の姉がいる。凛香はとても頭が良い子だが、気難しい性格だった。
 彼女は片割れの朔太郎が家庭教師と仲良くしていることを知って、自分にも同じものが欲しいと親に訴えたらしい。両親は凛香の相手ということで女性を希望していたようだが、やってきたのは陽介だった。
 彼は、大学の友人の知り合いから紹介されて金井家を訪れたというのだから、再会は本当に偶然だった。どう見ても軟派な出で立ちの陽介だが、仁と顔見知りだったことと、彼自身に双子の弟妹がいると知り、雇い主である朔太郎と凛香の母親は信用することにしたらしい。
 実際に、その判断は正解だった。陽介は英語が大の得意で、元から良い凛香の成績をさらに押し上げている。その学習内容は受験用というより、検定試験専門の域だ。主張の激しい凛香も陽介が来る曜日を楽しみにしている、と、彼女の母親が言っていた。
「仁先生、なんでこれはこうなるんですか」
 双子の姉と比べて大人しい朔太郎が、数学の証明問題に首をひねる。仁は新たな白紙を取り出して、丁寧に説明をはじめた。隣にある凛香の部屋では、発音を練習する声がかすかに聞こえている。検定の面接試験の演習をしているらしい。
「これとこれは実はイコールなんだよ。この数字が、引かれてこうなるから。だから、解答はこうなるんだけど、わかる?」
「……なんとなく、」
「じゃあ、似たような問題を試してみようか」
 朔太郎は不安げな表情を見せるが、彼に自信をつけさせるのが仁の仕事だ。
 隣から、陽介さん、と、大きく呼ぶ声が聞こえ、はいはーい、とのんきな男の声が響く。凛香は軟派な男が大嫌いなはずだったが、陽介が中学校まで剣道を習っていたと聞き、一瞬の内に評価を変えたらしい。朔太郎が幼い頃から剣道に励んでいるせいで、中身の軽そうな男に親近感を持ったようだ。正直なところ、仁も陽介を少し見直した。
「仁先生、」
 パラパラと問題集を開いていた仁に、朔太郎がもう一度声をかける。
「どうした? まだわかんない?」
「あの、ひとつ訊いていいですか」
 躊躇いが表情に出ている。数学にまつわることではない、と、仁はすぐに判断した。進路の問題だろうか。朔太郎は今のところ、実力より二ランク上の進学校を狙っている。仁と陽介の母校だ。
「それって、進路のことかな?」
「あの、違うんです。凛香から、仁さんに訊いてって頼まれて……」
 凛香の頼みごとならば少し厄介だ。この前は、授業終了間際に陽介とロールケーキをつれて朔太郎の部屋へ乱入し、仁の大学生活についてしつこく訊いてきた。彼女の志望先は理工系なので、その道を真っ直ぐ進む仁の話を聞きたかったようだ。
 彼女の母親が止めに入るまで、仁はとりわけ派手なこともない大学生活の日々を話すことになった。三人が真剣に聞いているのが、とても妙な心地を持たせたものだ。
「凛香ちゃんの進路?」
「そうじゃなくて、あの、」
 生真面目に問いかける仁に、朔太郎は視線を落として息を吸った。
「陽介先生って、カノジョっているんですか。えっと凛香が、その、陽介先生には秘密で!」
 中学三年生の慌てた発言に、仁は少し驚いたが、すぐ口許を緩めた。朔太郎は内気な子だから、こうした話は好きではないだろう。まして、年上の家庭教師に訊くのは気まずいことだ。
「陽介ね、いないらしいよ」
 仁は素直に答えた。朔太郎が顔を上げる。
 凛香は陽介が好き。それを自らの口から仁に教えることが、朔太郎にとって一番居たたまれなかったはずだ。仁も先日友人の吉秋から聞いたことで確証はないが、言葉を続けた。
「こないだまではいたんだけどね、最近別れたって聞いたよ。本人から聞いたわけじゃないけど、たぶんそれは確かだと思うよ」
「そうなんですか」
 朔太郎に安心したような表情が浮かぶ。言葉がきつい凛香に、良い返事ができると安堵したはずだ。
「あの、陽介先生には」
「言わないよ。そんな野暮なことしたら、オレも朔太郎も凛香ちゃんに怒られるだろ」
 仁が小さく笑むと、朔太郎が凛香の剣幕を思い出したように口許を緩ませる。凛香の話に深入りする気はない。仁は色恋に関心が薄く、それは陽介の管轄だとも思っている部分があった。
 すぐ雑談を切り上げ、問題集から拾い上げた証明一問を朔太郎に渡す。彼が黙って解きはじめれば、仁は次に使う演習問題を探す作業が待っている。
 数学を懇切丁寧に教えていれば、二時間はあっという間に過ぎる。これで、凛香のわがままに付き合うこととなれば、帰宅が二十三時を過ぎることもざらだ。
 しかし、今日は学習時間が過ぎても凛香がドアを開けに来ない。テーブルにばらまいた紙を整理してから、仁は椅子を引いた。
「今日は、これで終わり」
「ありがとうございました」
 コンコンとドアを叩く音が聞こえ、凛香の顔がようやく隙間から現れた。鼻梁の通ったきれいな顔立ちをしている女の子だ。バレエを習っているだけの品性が雰囲気ににじみ出ている。二卵性双生児のせいか、朔太郎とタイプがまったく異なるものの、仲は良い。
「朔太郎、」
 双子の弟の名を呼びながら彼女は仁を見て、珍しく困った顔をしていた。仁もその表情を察する。
「先に部屋でてるね」
「仁さん、リビングに陽介さんもいるから、」
 早く出てって、と暗に言いたいだろう。彼女は見るからに焦っているのだ。焦っても、朔太郎の返答は同じだ。凛香はおそらく喜ぶだろう。仁はそう思いながら部屋を出て、階段を降りる。リビングにはなにも知らない陽介が、チーズケーキを食べていた。
「おつかれ。これ、金井さんの手作りだって、すんごいうまいよ」
 嬉しそうに言う様子は、本当にのんきだ。その様子にすっかりほだされている金井夫人は、子どものような笑みを浮かべる陽介を見てほほえむ。彼女はもともと仁の母親と友人関係で、昔から見知った人だ。
「ごくろうさまです。仁くんも食べる?」
「はい、いつもすいません。ありがとうございます」
 彼女の言葉を受け止め、礼を言う。陽介の隣に座って、おかわりとかいうなよ、と、仁が小声で伝えれば、じゃあ半分ちょうだい、と、返される。そのやり取りを金井夫人に見られ、お土産のチーズケーキもあるから、と、仁の皿と手提げ袋をテーブルに置かれてしまった。
 家庭教師の身として静かに退散したいのだが、陽介のせいでいつもなにかしらの雑談がはじまる。凛香と陽介は、周囲を巻き込むのが上手だ。
 陽介にケーキを半分取られながら掛け時計の下にあるカレンダーを見る。陽介だけでなく、仁も大学の後期がはじまっていた。シラバスを眺めて決めた時間割は、陽介が見たいというからコピーを渡した。文科系より融通は利かないが、アルバイトに響かない仕様にしている。
 仁は、金井家の他に家庭教師を受け持っている。陽介のほうは、飲食店関係のアルバイトを兼ねている。もっぱら二人が顔を合わせるのは、家とその周辺だ。
 ごちそうさまでした。大学生二人はそれぞれ口にして席を立った。
「先、チャリ取って来る」
「荷物、持つよ」
 陽介は仁に言われるまま手渡して、廊下を出て玄関を開く。仁は多くなった荷物を持ちながら、陽介のたどる道筋を歩いた。キッチンの水音が止むと同時に、階段から双子が降りてくる音がする。
「仁さん、」
 先に地階に立った凛香が、仁を呼んだ。百六十を越えたスレンダーな体型は、名のとおり凛としているが、いつものような殊勝さはない。そわそわしている理由を仁は知っていた。
「あの、ありがとうございます」
 なにについての礼かを聞かず、いいよ、と、簡潔に返す。朔太郎は母親の元へ向かったようだ。この子たちは来月、十五になる。
「陽介は外にいるよ」
「ううん、いいの、また来週会えるもん。仁さん、黙っててね」
 少しはにかんで言う姿は、ロングストレートの黒髪と相まってかわいらしい。どうやら、忍ぶ恋を続ける気のようだ。仁は頷く。
「仁、」
 玄関ドアが開き、陽介の声に振り返る。凛香に気づいて、リンカまた来週なー、と、付け足した。
「はーい、気をつけて帰ってね」
「今日もありがとうね。また来週お願いします、」
 先に出て行った陽介に代わり、仁は玄関口へ来た金井夫人に会釈をする。そして金井家の扉を閉じ、陽介に追いついた。
 陽介がまたいでいる自転車は、二人乗りできるタイプで仁の母親ものだ。前のカゴにバッグを詰めこんだ仁は、横向きになって自転車の後部に座る。正方形の手提げ袋は手元に残し、陽介の胴へ片手を回した。
「なんかドキドキするなあ」
「ケーキあるから蛇行運転するなよ」
「はーい。出発進行!」
 言葉のわりに、ゆっくりした速度で自転車が動く。徒歩で二〇分もかからないところにある笹丸家へ、夜道をのんびり進んでいく。
「凛香ちゃんって、かわいいところもあるよね」
 仁が今までの彼女の様子を思い出して、言葉をもらした。いつから陽介のことが好きになったのか、思い出してみたのだ。早い段階から、彼女が陽介を気に入っていたことは知っている。
 だが、陽介は驚いたように顔を向けてきた。
「え、まさか、仁ってああいう子が好み?」
「違う、そういう意味じゃない。陽介、前見てろよ」
「じゃあ、どういう意味よ。気になって漕げなくなっちゃう」
 食い下がる陽介に、仁は巻きつけた手で彼の皮膚をつねる。いたい! という、おおげさな声が響いた。そこから仁は話題をそらす。
「あの二人、来月誕生日だったっけ?」
 あまりこうしたことを覚えない仁だが、陽介のせいで気にするようになった。人といることが好きな陽介は、誕生日や記念日を覚えるのが得意だ。こうした点が女にもてるのだろう。
「うん。サプライズでもしようかなって、」
 そのとおり先々月の陽介は、実兄が忘れていた弟の誕生日をしっかり覚えていて、彼にケーキとプレゼントを渡していた。しかしプレゼント内容は、アダルト雑誌という救いようのないものだった。高校生の頼が大喜びしていたのを、仁は呆れた眼差しで眺めていたものだ。
「……朔太郎に、ヘンなもん買うなよ」
「ヘンなもんって、なによ。あ、仁、ひとつおねがいがあるんだけど。誕生日の日、ちょうだい」
 むくれたような声を出した彼が、途端に願いごとを口にする。唐突感に、仁は疑問符を打った。
「誰の?」
「仁のに決まってんじゃん」
 そう言われても、まだ秋になったばかりだ。仁の誕生日はクリスマス直前にある。
「まだ先の話だろ」
「でも確約させたいの」
「いいよ、でも先に、」
「サクとリンカの誕生日プレゼントだろ、一緒に買いにいこ」
 弾む陽介の言葉とともにオーケーすれば、仁の家が見えてきた。二階の灯りは弟の頼がいる証拠だ。自転車を置いて玄関前に着くと、眠っていたはずのハーランドが尻尾を振って出迎えてくれる。
 大型犬をかわいがる陽介を横目に見ながら、仁は家の鍵を開けた。




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