* 四季のエクストラ【第4話】 *


 好きな代数学の講義中も、仁はらしくなく考えていた。
 陽介がへにゃりと眉を下げて口にした「ふれておちるもの」の答えだ。そのときのヒントがキスなのだろうと思う仁だが、正直あの場面を思い出したくない。どう対処すればいいのかわからないのだ。わからないまま共に暮らす日々が続き、一ヶ月が経過している。
 金木犀に囲まれていたA棟も、やがて香りを払い常時暖房が使われるようになった。併設する午後のカフェテリアには、一コマ空けて次の授業を待つ者が多い。傾く太陽、葉の色を落とす木々の静けさ。窓に映る景色は天然のセピア色だ。
「おーい、笹丸」
 向かいの席にいる田子に目の前で手を振られ、仁は驚いたように焦点を合わせた。
「ああ、なに? 誤字とかあった?」
「ないないパーフェクト。田子、もう書き終わったの? 早くね?」
 田子の隣に座る小山内が、横やりしながら田子と同じようにペンを走らせている。
「まさか、終わんねえって。休憩中なんだよ。手が痛えのなんの」
「……早く書きなさいよ。後二〇分しかないわよ」
 飲み物を買って戻ってきた河北が、田子の言葉を聞きつけて返す。理工学部には数少ない女子の言い分に、田子は一目睨んで作業に戻った。彼女の言うとおり、次の授業までにノート内容を写し終えなければならない。
 仁は頼まれてノートを貸す身分である。とりあえずの礼として、奢ってもらったカップコーヒーが手元にあるものの、中身はすでに冷めている。
 午前中にあった一コマ目の講義は、まったく頭に入ってこなかった。二コマ目から講師の話が耳へ届くようになったものの、暇ができると考えごとをしてしまう。
 このところ、陽介は門限の間際に訪れてソファに沈没する一日を繰り返している。一週間前から教習所に通いだしたようで、朝出て行くのも早くなった。忙しい社会人然のスケジュールだ。仁との接点を極力つくらないようにしているのか、他に理由があるのかは知らない。ベッドに潜ってこなくなったことは、歓迎すべきだろう。しかし素直に喜べない。
 彼の真意が、本当にわからなくなっている。
 考えないようにしていたことがぶり返したのは、昨夜の家庭教師先で、陽介の教え子から聞いた話のせいだ。学習指導の後、凛香は陽介を自室から追い出して、仁だけを呼んだのだ。
『陽介さんが片想いをしているひとのこと、少しでもいいから教えてほしいの』
 彼女の秘めた頼みごとから、仁はそのときはじめて陽介に片想いの相手がいることを知った。凛香自身は、一ヶ月前に陽介から訊いたと言っていたのだから、仁が推測するに、陽介がキスをしてきた日のことだろう。
『一緒に暮らしているようなものなら、仁さんも知ってると思ったのに』
 凛香は得られなかった情報を責めるように呟いたが、仁は代わりに彼女から陽介の想う人にまつわることを入手した。
 想い人とは今年の春に出会った。そして、好きだと気づいて夏に前のカノジョと別れた。
 その事実に、なにかが妙に符合している気もするが、仁はバラバラになっているパズルピースを嵌め試すことに躊躇っていた。その躊躇がどういう感情から浮上してくるのかもよくわからない。自分自身のこともよくわからなくなってきているのだ。
 対人にこうした気持ちを抱くのは、仁にとってはじめてのことだった。何度考えても対処法が見出せない。
「笹丸くん、最近疲れてる?」
 もやもやしたものが表情に浮かんでいたのか、手の空いている河北が尋ねてくる。疲れているのは間違いなく陽介のほうだ、と仁は思ったが、彼女たちは陽介のことなど知るわけがない。
「……疲れてないよ」
「代数学のときも、心あらずだったの見てるんですけど」
 同級生の河北は、仁と選択科目がほぼ同じだ。代数学以外のときも上の空だったと知っているのだろう。今日は隣同士の席ではなかったのだから、どの位置から目撃されていたのか。
 河北の鋭さに笹丸は苦笑した。
「笹丸がぼーっとしてんのは、珍しいよな」
「田子は黙って書いてなさい。小山内くんもう終わるよ」
「マジだ、やべっ」
 黙々とノートに書き写す小山内と田子に視線を向けた河北が、笹丸を見る。彼女は高校時代から男子生徒だらけの教室で生活していたせいか、男に囲まれても物怖じせず媚びない。笹丸にとって唯一の女友達だ。
 ……悶々と考えても仕方ない。答えなんて出ないか。
 仁は三人を見て思った。在する大学で、最も一緒に行動しているメンバーだ。さばさばしているから付き合えている面子だった。変なことを訊いてみたとしても、すぐ忘れてくれるだろう。
「……ちょっと訊いていい?」
「私に?」
「河北さんもふくめて、ここの三人に」
 いつも聞き役にまわることが多い笹丸の頼みに、三人が一様に視線を向ける。
「いや、そんな畏まった質問でもないんだけど」
「でも笹丸がそんな言い方するの珍しいから」
「気になるだろ。早く、後十五分しかねえし!」
 田子が見せてもらっている身で訴える。仁は頷いて息を吸った。
「あの、ふれておちるものって、なんだと思う?」
「なんだそれ?」
「なんかの物質のことかよ? 作用?」
 ノートを写す男二人の呟きと違って、河北の瞳が唐突にきらめいた。前のめりになって笹丸を見つめる。女性はやはり鋭い。
「どういう状況の話?」
 言いたいような言いたくないような不思議な感情にゆられながら、仁は言葉を選ぶ。
「ある友人に、そう訊かれたんだよ。なんのことだか、ずっと考えてて」
「だから、それはどういう状況だったの? ……ほら、それによって意味がいろいろあるじゃない」
 河北の突っ込みは容赦がない。仁は自ら言ってしまった手前、大人しく口を割る。もともと嘘はつけない性分だが、できるかぎり被害の受けない方法をとった。
「……キスのあとに。友人の友人がしてきて、そう言ってきたらしい。それで、友人がオレに相談してきたんだよ」
 湾曲した言い方に、書写組はキスの部分から先の状況把握が厳しくなったようだ。問い返そうとする男二人を、河北がまず制した。
「きみたち、後一〇分」
 すぐテーブルに眼を落とした二人の横で、河北の真っ直ぐな瞳が訴える。当事者ではない物言いをしたが、彼女はすでに見抜いている。
「その場合だと、……うん、」
 気まずくなって視線を逸らした仁に、河北は続けた。
「どう考えても、恋、なんじゃないの? ふれるがキスで、おちるのが恋。単純に考えて、パッと思いつくのは、それよね」
「………恋、」
 まさか、という単語をうっかり復唱する。
 その言葉の重さに思考が停止した。
「むしろ、キスしてからそんなことを言うなんて、半分コクってるようなもんじゃない? なんていうか、ロマンチストというよりもキザっぽい台詞。その友達、すごいね、チャラ男なの?」
 会ったこともない陽介のことを河北にばっさり切られ、そのとおりだよ河北さん、と答えそうになる。
 田子より早く書き終えた小山内が、晴れて背を伸ばし仁を見た。
「笹丸、助かった。って、固まってんだけど」
「……かたまってない」
「顔がこわばってるわよ」
「………」
「げっ、終わんねえ、後何分?」
「後五分」
 河北の言葉に、仁は突っ伏した。


 キス、恋、告白。
 三拍子が揃った恋愛話に、出遅れた田子と小山内が事情説明を求めてきたが、河北は適度に仁をフォローして場を諌め、四人で本日の最終コマを聴講した。仁は着席中、河北から投げられた回答に脳内のほとんどが支配されて、手先だけが授業を受けている状況に陥っていた。
 さすがに河北も心配して「あれ、あんまり本気にしないでよね」と仁に言っていたが、その一方で「言われた友人が、って言ったけど、あれって笹丸くんのことだよね」と、疑問符をつけることなくこっそり暴いてきた。返す言葉が見つからない間に、それぞれの帰路で別れた。
 陽介がしてきた一連の行為が、『恋』にまつわっているのかどうかは、本人に訊かなければわからない。しかし、尋ねれば尋ね返されるのがオチだ。
 彼に、自分のことをどう思っているのか? と訊かれても答えに窮する。混乱していて、自分でも陽介をどうしたいのかわからない。
 どこかで、冗談であればいいと思っていたのだ。
 陽介は女好きなのだ。そして、仁はれっきとした男だ。
 暮れゆく駅のロータリーを伝い、家路を歩く。今日は一週間で最も授業が詰め込まれた曜日にあたる。弟の頼は予備校がある日で、帰宅してくるまで家は静かだ。その間にゆっくり考えよう、と仁は思う。
 駅から十分程度のところにあるのが、笹丸家の一軒家だ。二人で住むには広すぎる。両親は、あと二年海外赴任から戻って来られないだろう。前回の帰国の際に、そう彼らは話していた。
 家の門扉と玄関口の間には、シェパードのハーランドが犬小屋を構えて住んでいる。仁の姿を目にすると、五歳になる彼女は立ち上がって尻尾を振る。ステンレスの深皿には水がなみなみと注がれていた。犬は側に蛇口があっても、ひねることはできない。
 仁はハーランドの頭を撫でながら、夜の散歩をした人物を特定してみる。今日は陽介が別のアルバイトを長時間入れている曜日だから、頼が予備校前に時間を割いたのだろう。
 飼い犬への挨拶を終えて、玄関の鍵穴にキーを差し込む。開錠するためにひねったが、解かれる感触がない。試しにドアを引いて見ると簡単に開いた。なかに人がいる証拠だった。
 弟の予備校が休みになったのかもしれない。しかし、頼はそうしたときにメールをくれる。同様に、陽介も連絡はマメにしてくるタイプだ。
「ただいま」
 外から見たとおり、家はすべてが暗かった。電灯をつけながら、人の気配を探してリビングに向かう。
 スイッチをつければ、ソファに陽介が沈んでいた。掛け布団が二重に盛られて、ローテーブルにコップと封が開いた薬が置いてある。
 ……陽介。風邪を引いてるのかも。
 すぐ彼の側に向かった。
「陽介ただま。もしかして風邪引いた?」
 見下ろす仁の言葉に、彼は眩しそうにしながら目を開けた。
「ん、うんん。引きそうかも、ってかんじ」
 喉の調子は悪くなさそうだし、鼻声というわけでもない。しかし、引きそうな自覚があるならば悪寒でもあるのだろうか。上体を起こした陽介が、途端に咳をする。間違いなく風邪だ。
「引きそうな風邪なんてないだろ。とっくに風邪引いてるんだよ。こんなところで寝てないで客間に行けって。それとも、実家戻る?」
「……ここに、俺がいると迷惑? チビたちに移ってもきついけど。頼の迷惑にもなっちゃうよね」
「陽介。別に迷惑とは思ってないから。本格的に引いてるわけじゃないだろ」
 珍しくマイナス思考に向かった陽介を、仁はやんわり引き止めてソファの隙間に腰を下ろした。陽介が柄に身を寄せる。
 彼の目元が少し赤い。陽介と向き合い、顔を覗き込む。
「熱はある?」
 額に手を当てようと茶色の髪を掻き揚げれば、陽介が反射的にのけぞった。
「ちょっ、」
「なんだよ」
 嫌がられても体温の確認は重要だ。問答無用で額に触れる。外気から離れて間もない手は冷えているが、陽介の額は高熱というほどの熱さではなかった。微熱程度だろう。手を離すと、彼は少し困ったような顔をしていた。
 陽介が照れているのだ、とすぐに気づく。
 同時にそれを、かわいいと思った自分がいた。
「俺も、仁にさわっていい?」
 甘えるような彼の声と胸に湧く感情に戸惑っていれば、腕を掴まれた。陽介の手が上着越しに仁をなぞる。
 またキスされるか。仁はとっさに思ったが、彼はそうしなかった。するっと仁の脇に両手をまわして引き寄せる。まるで、大切なものを扱うようだ。
 陽介に躊躇いはない。仁の身体を抱きしめた。安心したように、息を吐く。首筋に顔をすりつける。子どものような仕草だ。
 ……大学で河北から聞いた、ひとつの答えに動揺している自分がちっぽけに思えてきた。
 彼が苦しげに咳をする。仁は陽介の不安を除くように背中を撫でた。病気になれば、人は誰だって不安になる。
「仁、ごめん」
「なんで謝るんだよ。薬と栄養剤飲んで、ベッドで寝てればすぐよくなるって。バイトは休んだよな。俺の部屋のベッド使う?」
「……客間の、つかう」
「飯は? なんか食べたほうがいいよな。スープっぽいもんならつくれるけど」
「仁、」
 抱きしめてくる腕に力がこもる。……久しぶりに陽介のにおいを嗅いだ気がした。
「もうちょっと、このまんまがいい」
 甘え声に身体の力が抜ける。
「わかった」
 仁は男の肌を撫で続ける。そうすることで彼が安心すると知っているからだ。
 高い体温は晩秋をめぐろうとする空気に染みる。侘びしい季節だというが、仁には不思議と満ちていくものがある。
 すぐ眠りに落ちた陽介の重みを、仁は両腕で抱える。早く風邪が治ればいい、とただただ願っていた。




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