* 水曜日【第3話】 *


 夏紀の緩めたネクタイが揺れ、白いワイシャツの中に少し風が通って抜けた。
 黒髪の男が前屈みになる。俯いているのと物理的な距離で顔が見えない。それを夏紀は憎いと思った。モザイクのかかった卑猥な画面よりも憎らしい。
 人数のいるセックスと違い、動きはどれも小さくわかりにくいが、男の身体はゆるゆると動きはじめているようだった。片方の指が探っているのはアナル部分に違いない。
 身体の半分を日差しにあて、風に晒しながらアブノーマルな自慰をはじめた男の腰は、少し経って動きを止めた。放置されていた道具に手が伸びる。どれを選んでも悦楽を呼べる装置になるだろう。夏紀はいまだ性的なグッズに手を出したことはなかった。自分には必要のないものであったし、付き合う女とは自分の性欲を満たすためにセックスをしていたわけで、そこにプレイ趣向を見出すほど労力を割く気持ちはなかったのだ。
 液晶画面上でならばアダルトグッズを使用するプレイも鑑賞したが、女の悶える顔がイイと思うことはあっても使いたいとは思わなかった。男用の道具もオナホールくらいしか知らない。それも、この高校で珍しく夏紀と等しい人種の友人から、一度試したことがあるという話を聞いただけだ。思った以上に良いという感想だったが、「でも、やっぱりオレは女のほうがいいな」と、一言付け加えていた。
 彼が手に取ったものは、そうしたシリコン状の筒のようなものではなく、薄いパステルカラーのコードがついた小さなものだった。つながっている先には長方形のものがついているようで、彼はそちらにタッチしてから、反対の小さい部分を茂みの奥へ連れていった。トイレを我慢するようなポーズの後、サポートしていた片手を床につけて身体を屈める。少し浮かせた腰は、先ほどより滑らかに動き出した。
 後ろの穴の付近を刺激するように浅く出し入れしているのかもしれない。ローターの振動で腰が自然と動くのだろう。自分の肛門で想像することは不可能でも、未知の動作に快楽の見当をつけることはできた。しかし、彼は男の象徴である陰茎を一向に触る気配がない。アナルだけのマスタベーションでイケるのか。男でも、そんなことだけで射精できるのか。
 未知の行為への大きな期待とワクワク感に痺れながら、夏紀は瞬きをせずに男のアナルを使ったマスターベーションを見つめていた。それはさながら子どもがヒーローショーの佳境に固唾を飲んでいるのと変わらない。いつも人から一歩引いて淡々と日々を受け流す普段の夏紀の様子からは考えられないほど、彼は見ず知らずの男の痴態にのめり込んでいた。しかし、この露出プレイが視界の内に繰り広げられれば、誰だって目を輝かせて見入る。もしくは気を動転させて逃げ去るしかできないだろう。
 見せ付けるのも快楽の一種となりうる。ローターを使っている変態男が、露出好きであることに間違いはなかった。そうでなければ、窓を開け、わざわざベッドの下で日光に照らされ風に晒されるがまま、こんな変態行為を繰り広げない。
 性に関心の高い高校生ならば、今の時点で自分のパンツを下ろしてセンズリをはじめてもおかしくはなかっただろう。その点、夏紀は冷静だった。彼の理性はまず見届けることに重点を置いていた。欲はいつでも吐き出せるのだ。自分の自慰行為に気をとられて、大切な部分を見落とすことだけは避けたい。
 太陽に晒された彼の肌は白く反射している。身体をあやすように後ろの快楽と遊んでいた男は、ローターを持った手を抜いて陰茎に押し当てた。夏紀はイレギュラーなものから日常に戻った気持ちになった。亀頭にローターを押し当てて得る快楽ならば、夏紀でも容易に想像できる。使ったことはないが、振動は気持ちいいに違いない。
 陰茎はじょじょに勃ち上がっているようにも見える。俯いてばかりで表情の変化がわからない彼だが、さすがに甘い息づかいになっているはずだった。しかし、音声が届かないぶん、吐息や喘ぎは想像するしかない。夏紀はそばでその声を聞いてみたいと願った。それよりも、二本の手で快楽を追うには限度があるはずだ。それなら、いっそ自分が手伝ってみたい。
 男が大きな動きを見せはじめた。ローターで射精には至らせず、次になにをはじめるのかと思えば、夏紀の見ているところで身体をねじった。膝が動くとバスタオルもよれていく。薄そうな背面とともに小ぶりの尻が窓側に一面晒された。夏紀のところでなびいた風は、じきに彼の裸体を撫でるだろう。
 なぜ反対向きになったのか。道具でなぶられた白い双丘のクレバスを凝視しながら、フィニッシュの射精まで見せてくれるはずではなかったのか、と、夏紀は少し憤りを感じた。ここまで見せておいて、最後は隠すのか。露出好きの変態であることは、とうにわかっている。射精の瞬間まで見せてくれたっていいではないか。
 彼はローターを置いて、膝立ちのままローションを取った。そしてもうひとつの道具を掴む。夏紀は彼の手にしたものに瞳を瞬かせた。最初に液体を塗っていた玩具のひとつに、蛍光ピンクの少し反れた細長いものがあった。どういう名前のものかわからないが、それを彼が再び持って濡らしている。
 推測するまでもなく、彼は準備を終えると、あの一点にそれをゆっくりあてがった。夏紀の目が見開いた。上体を起こして膝を立たせた彼は、躊躇うことなく肛門に少しずつ奇抜な色のものを埋め込んでいる。
「マジかよ」
 自然と言葉が洩れていた。彼はピンクの棒を揺するように腰を動かし、一度引いてまた肉の奥を突いていく。騎乗位のような体勢になって波の満ち引きのように何度も出し入れする姿から、夏紀は完全に現実から置き去りにされた子どものような表情で息を止めていた。肌の色とヴィヴィッドな道具が上手に交ざりあうと、手が離れて彼の身体がガクガクとうねる。
 ……マジの露出好きだ。ド変態だ。
 何度目かわからない確信を心で叫ぶ。男はピンクの棒を突っ込んだまま、びくびくと震えている。少し痺れがやむと、また棒に指を這わせて同じ満ち引きをはじめる。際限なく快楽を貪っているようだが、なにか射精感を伴っているようには見えない。何度も同じことを繰り返す。明らかに強い快感なのだろう。止められないくらい強く甘い痺れなのだろう。気持ち良さそうなのが遠くからでも手に取るようにわかってくる。
 ……今度こそ、双眼鏡をもってくればよかった。なんで俺はこんな大事なときのために持ってこなかったのか。
 夏紀の心臓はバクバクと波打つ。これをなまじ夢で見ていたとしたら、夢精で目覚めていたかもしれない。それくらいの言葉にならない熱が身体の中で凝固しはじめていた。男の自慰を見たことも生まれてはじめてだが、道具に翻弄されている痴態を生で見たのもはじめてである。あたりまえだ。こんなものは普通ありえない。覗き見していた夏紀に問題があるというより、見せ付けている男が色狂いなのだ。わざと窓を開けて、アナルプレイを外に晒しているのである。変態以外の何者でもない。
 先週までの男同士のセックスがかわいらしく見えた。時間も日光の暑さも立ちすくんでいる疲労もすべて抜け落ちて、彼が快楽の海から自らを引き上げるまで、夏紀はただ見つめていた。青いタオルはぐしゃぐしゃになって大そう濡れているようでもある。四つんばいに近い状態で一人腰だけ振る姿は、まばゆい太陽の光を味方につけていた。とても卑猥なのに無邪気だった。彼の肌質はとても滑らかなのだろう。白くて美しく映えている。
 何分そうしていたのかわからない。長い時間だったが、最後まで身体を四つんばいで支えていた。タオルをぐしゃぐしゃにしながら埋め込まれた棒に四肢を震わせ、ビクン、ビクンと悶えた硬直した後には、水溜りのようなものがフローリングにつくられた。窓に向いた下半身のあたりから、キラキラと水のようなものがこぼれている。
 感じすぎて大量の体液が出たのか、最後に放尿してみせたのかわからないが、夏紀にとってそのラストは衝撃だった。男がアナルから器具を抜いて、濡れ散らかしたまま這うように消えていく。痴態のかぎりを尽くされた跡を、夏紀は呆然と眺めていた。感想ひとつも出てこない。言葉は一切奪われていた。日光は男の水溜りを輝かしく見せる。窓の先にある沈黙に夏紀は慄いていた。
 気づけば、自分の下半身は反応していた。ダメだろう! そう、夏紀は強く目を瞑った。半勃ちしている自分のものに、可能なかぎり冷静さを押しつける。
 ……落ち着け、ここは学校だ。そういうのは好きじゃない。今はまだ見てきたものを反芻するな。
 目を開けると、太陽に照らされたコンクリートはただただまぶしかった。鉄柵の外を見ないまま、屋上の出入り口へ脚を向ける。腕時計を見れば、とうに六時間目がはじまっていた。チャイムは一体いつ鳴り響いたのか。日陰のドアを抜けて閉めながら、いつも聞いているチャイムの音を思いだす。やはり屋上にいた間に聞こえた覚えがない。
 教師に嫌な顔をされてもいいから、選択授業に合流しようと思った。一人でいると、あのできごとを反芻してしまう。トイレから出られなくなる。帰宅して自室に籠もるまでは、今見たすべてを忘れようと勤しんだ。しかし、忘れることはできなかった。第一、あんなものを見たすぐ後で、席に座って辛抱できるわけがない。
 夏紀はがらんどうの教室に戻ると、自分の通学バッグを取って廊下へ出た。急いで階段を駆け下りる。半地下の広いロッカールームに着くと、靴を取り出して履き替えた。この学校から、この土地から一刻も早く出たかった。
 誰にも悟られないように校門を通過して、スマートフォンの電源を入れた。学校もマンションも振り返って見ることはしなかった。通知がいくつか着ていたが、付き合い上の適当な女のものは未読のままで消去する。代わりにまだ授業を受けている仲の良いクラスメイトに、急な用で帰宅する旨を連絡した。
 あの男のことが、もっと知りたい。
 帰宅するまで、痴態の残像をどうにか振り切りながらも心の中で繰り返した。あの男の肌に触れてみたい。喘ぐ声が聞きたい。男の瞳に映っている自分を見てみたい。
 いつもより長く感じる下校路を経て、家に着いた。ひとつひとつが大きな区画が取られた高級住宅地はとても静かで、まだペットを散歩させる住人もいない。夏紀は手早く鍵を取り出した。アンティーク調の鉄製門扉を開ける。些細な動作が煩わしいが、室内にいるであろう叔母か弟の手は借りたくなかった。
 誰の助けも借りず玄関ドアを開錠すると、夏紀は駆けるようにして階段を上がり自室へ向かった。木製のドアを開ける。閉める。内鍵をかける。
 すっかり男に魅了されていた。どれだけ思い出さないようにしても、別のことを考えようとしても、女とのセックスを痴態を脳裏に映し出そうとしても……出てくるのは、あの男のことばかりだ。
 夏紀の大切にしていた理性はメッキのようにはがれ落ちた。外の物音は耳に届かない。密室となった部屋のベッドで、夏紀は自らの性器に手を添え、性の衝動と放心を何度も重ねた。痴態を思い出して体液がこぼれる。胸の中に起きた嵐は、絶えることがないようにも思えた。言葉にしようがない嵐だ。今日明日で落ち着いてくれるようなものではない。
 考え込むように動作を止める時間が長くなり、やがて夜になると、自分らしくない感情を引き出した男を呪わしく思うようになった。あれだけのものを見せられて、女を抱く気も起きない。少し前から、付き合っていた女たちにも飽きていた。興味と好奇心はこの一ヶ月あの男に向いていたが、夏紀の性欲まであの男によって狂わされた。それは異常なことだった。おかしくなった心を直す手立ては、きっと男の中にしかないだろう。
 それならば、あの男を手に入れたい。もうそれしか渦巻く感情を抑えることができない。
 あれだけのものを見せ付けて、自分の心を翻弄して、また明日からなんでもない素振りで変態男は普通の生活を続けているのか。それを思うと、夏紀には腹立しかった。
  触りたい。あの身体を下に敷いて服従したい。そして、男の中に自分の熱と嗜虐心を解放する。
 すべてはあの男にけしかけられたようなものなのだ。だから、それくらい許されるはずだ。
 正当化できる糸口を見つけると、夏紀はようやく少し安堵した。彼らしい笑みを浮かべる。


 どんな方法でもいい。あの男を、ものにしよう。




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