* 水曜日【第5話】 *


 水曜日。男の公開マスタベーションから、一週間が経った。
 いつものように屋上へ向かう日だ。前日にコンビニエンスストアへ通い詰める自分を恥じたが、今日は水曜日ということもあって、会える確率は高いと考えなおした。勘と欲望に従って、夏紀はまた登校途中に件のコンビニエンスストアへ寄った。残念ながら、今日もあの男の気配はない。飲み物だけ買って屋外へ出る。
 夏紀はマンションを見上げて眉を寄せた。空の青は淡い。今日は水曜日で、おそらく男は部屋にいるのだろう。公休日に違いないから寝ているのかもしれない。もしくはすでにセックス相手の男か女と会っているのかもしれない。どちらにしても、想像するだけ腹立たしい。
 授業を受ける気力は完全に失われていたが、学校へ絶対に行かなければならなかった。単位や成績のためではない。昼明けに屋上へ行く必要があるからだ。
 二時間目前の休憩中に教室にはいり、昼休みは食堂の日替わりランチを摂って友人たちと別れた。チャイムを聴いてから、一週間ぶりの屋上へ向かう。
 この七日間は妙に長く濃密だった。その割に手ごたえが薄かったから、夏紀はいらついているのだ。
 暗がりの階段をのぼり、曇り空が覗くドアを開ける。屋上は密度のある風で溢れていた。湿った空気が身体に纏わりつく。夕方には雨が降るという予報だ。長時間屋上にいるにはベストな気候だが、光が足りないとあそこの窓の奥が見えづらくなる。
 女、男、女、男、自慰。この流れで、次もハードな自慰を夏紀は願った。しかし、それはすぐに玉砕した。鉄柵からマンションの一室を注視すれば、すでにベッドの上には裸の女が座っていた。男の両肩に手を置いて、なにやら話をしている。夏紀から男は薄い背中しか見えなかった。当てが外れたことに舌打ちをした。
 黒髪の男と茶髪の女。そんな単純なセックスにまったく興味はそそられなかった。むしろ相手が女であることに、不快感が生じた。男の手が女の乳に伸びるのが見える。同性の夏紀には男のしたいことがすぐにわかる。乳房を揉みはじめたのを見ると、フツフツとあらわれた怒りの感情に耐えきれず、夏紀は彼らの前戯を見ることなく屋上を離れた。
 あんな雄の肉をくわえて悦ぶ変態な身体で、オンナとヤッてもなにが楽しいのか。あの男はノーマルな情交くらいで満足するはずがない。あんなものを見せられたところで性欲は一切起きないし、まったく面白みはない。それどころか萎えっぱなしだ。本当に腹立たしかった。あの茶髪の女に、おまえの相手はケツに棒を突っ込んでよがる変態なのだと密告してやりたい。
 現実に戻っても選択授業の特別教室へ行く気は起きず、夏紀は自分の教室に戻ってただ外を眺めていた。がらんどうの室内で男のことを考える。今この時間に行なわれているふざけたセックスではなくて、先週の痴態をしつこく反芻した。
 あの男はオンナを抱くよりもオトコに犯されているほうが似合う。それよりも自慰が恐ろしく似合う。自分の目の前で、あれをやってもらいたい。そして最後にピンクの棒を引っこ抜いて、自分のものを突っ込むのだ。それが理想の展開だ。
 彼の自慰を思えば妙な安堵感が生まれた。頬杖をつきながら、そのことばかりを夢想する。あっという間に時間が経って、今日の授業を束ねるチャイムが鳴った。朝礼に出ていないぶん、終礼に出ないと欠席日扱いされてしまうため、仕方なく教室に留まり、クラスメイトの接触に耐えた。友人たちと話している余裕はない。終礼をすませた担任が去っていくと、夏紀は用があるから、と言ってすぐに学校を離れる。いてもたってもいられなかった。
 夏紀の脚は自然と男の住むマンションへ向かっていた。雨はまだ降っていない。道を歩く生徒もほとんどいない。マンションのエントランスをくぐろうとして、夏紀は自身の無意識の行動に気づいた。男の部屋まで向かおうという足取りだった。慌てて身体の向きを変えて、反対側にあるコンビニエンスストアを目指す。
 ……なにをやっているんだ、大丈夫か自分。
 恰好のつかない自らの行動を恥じながら、開いた自動ドアを抜ける。店内には数人の客と店員がいた。正面から歩いてくるのは、パステルカラーのワンピースを着た女である。手ぶらの様子から、近隣に住む者のようだ。妙に見覚えのある容姿だ。
 そう思った途端、夏紀はハッとして目を見開いた。
 大きな驚きをどうにか心の中に封じて、夏紀もコンビニエンスストアへ用があったかのように店内を歩いた。とりあえず飲み物を買う素振りで奥に進みながら、雑誌ラックのある通路へ曲がっていった後ろ姿をさっと確認した。
 その女の裸を、夏紀はよく知っていた。セミロングでウェーブがかった茶髪は、遠くから見ていても女の特徴のひとつだったといえる。雰囲気も同じ感じがした。半分は直感で判断しているが、間違いはないはずだ。……店内にあと一人該当人物が在していれば確実だろう。
 夏紀は直感を信じて、店内をさりげなく見回った。そして、雑誌ラックのところで引き返した。
 もう見間違えることはなかった。雑誌コーナーに、土曜日に見た背広の男が立っている。今日は私服だ。茶髪の女は、彼の傍にいた。二人は親しげに話している。先刻までセックスをしていた仲なのだから、恋人同士であってもおかしくはない。
 ジワジワと夏紀の胸に黒い感情が生まれはじめた。今日はあの男に見せ付けられるすべてが腹立たしく思えた。自分の心を揺さぶり衝動を引きずり出す、あの変態男はすぐ近くにいる。何食わぬ動作で当たり前のように女を連れている。
 隣の女は本当に邪魔だった。男と同い年か少し下くらいだろうか。比較的かわいい部類の顔立ちで、品の良い服装を身につけ笑っている。夏紀にはそれがおもしろくなかった。女はどこかに行ってほしい。興味があるのは隣の男だ。自分が欲しいのはあの男だけだ。
 茶髪の女が、男からまた離れる。どす黒くにごった感情は、夏紀の理性と上手に結びついた。
 男は連れ合いの女と反対に、店内の奥へ向かっていった。すでになにかを手にしているが、飲み物も購入するようだ。冷蔵棚のドア越しを見つめ、買いたいものを探している。夏紀はその間に、自然につくれる接点を頭の中ですばやく算段した。
 あの変態男が同じ店内にいる。これは願ってもないチャンスだ。なにかしらの次につながるものをつかんでおきたかった。
 男がガラス戸を開ける。飲み物を二本取って閉じる。そうして、次は惣菜棚のほうへ歩いていく。夏紀も商品を探すふりをしつつその後を辿って、男の背後のほうへ回った。彼が身体を向ける同列の冷蔵棚で、パック飲料を探す素振りをする。そしてさり気なく横目で男を確認する。まだ距離はあるが、観察するにはちょうどいい。
 男は片手に買う商品を抱えていた。青チェックの長袖シャツに、黒のパンツを履いている。背広のときにも感じていたが夏紀より華奢だ。後ろのポケットに黒い長財布が飛び出ていた。無用心なものである。彼の自宅マンションは向かいにあって、バッグを持っていないところを見ても家とコンビニエンスストアを往復するだけなのだろう。ここで必要なものを購入して、また女と自宅へ戻るのかもしれない。
 その前に、明確な手ごたえが欲しかった。ただ眺めているだけではダメだ。しかし、どうすればいいのか。どうやってあの男に近づけばいいのか。さりげなく道でも訊いてみればいいのか。栖鳳学園の制服を着ている夏紀が訊くのは不自然だ。知り合いだと信じ込んで話しかけるのはどうか。
 ……しかし、それをやって得られるものはなんなのだろう。その場かぎりで接点は途絶えてしまいそうだ。それでは意味がない。
 下心がある中で、自然な理由をつくるのは難しい。夏紀が頭を悩ませている間に、男はポケットから長財布を空いた片手で引き抜いた。商品を片腕でいくつも抱えながら中身を調べている。必要なものを見つけたらしく、彼は開いた財布を再び閉じてペットボトルと腕の間に差し込んだ。
 夏紀は無用心な財布の扱いに目を光らせた。男は商品棚からまた買うものを手に取る。そして、彼が動き出したと同時に夏紀もヨーグルト飲料のパックをつかみ、急ぐ素振りをした。
 男が対面するようにこちらへ向かってくる。通路には夏紀と男の他に客はいなかった。つまり、なにが起きても目撃者はあらわれない。それは新たに舞い込んだ小さなチャンスだった。夏紀は咄嗟に思いついたまま身体を動かした。意図的な行動に罪悪感など一切生まれなかった。
 すれ違いがてらに、互いの肩と腕が強くぶつかる。派手な当たり具合に、いくつもの商品が落ちて転がった。
「あ、すいません!」
 夏紀はとても自然に声を発して身を屈めた。同じように男が「すいません」と言ったのを無視して、落ちたものをつかむ。片手はすぐ隠した。チラ、と男を確認する。男は落ちた物を拾いながら夏紀に背を向けて脚を進めていた。数歩先には転がっていったペットボトルがある。
 男が落ちたものに気を取られているわずかな時間を、夏紀は有効に使った。屈んだまま、片手に持っていたものを即座に開く。あの男の長財布だ。財布のつくりは大体わかる。開いた右側にはカードをいくつも差し込める部分があった。カードの種類をざっと見て、瞬時に一番使えるものをひとつ引き抜いた。そのカードを抜いた手を使いながら、ついで足元のパック飲料も拾う。
 すべてをそつなくこなし、緊張しながら身体を起こして振り返る。幸運は続いていた。男は商品を片手で何点も抱えながら下をしきりに見回している。落とした品にまだ気を取られていて、夏紀が財布を取ったことには気づいていない様子だ。夏紀は湧き出る喜びを抑えつつ、彼の元へ歩き出した。男の視線が上がる。
 真っ直ぐに彼を見たのははじめてだった。しかし男の顔の印象をとらえるより先に、夏紀は自分の表情をつくることに集中した。少しすまなそうな、それで悪気のない雰囲気をつくりだす。ついで、片手にあるものを彼にちらつかせた。
 眉間に薄くしわを寄せていた男が、あっ、という表情をする。
「これ、落ちてました。すいません、焦ってて」
 爽やかさを込めながら、申し訳なく財布を差し出した。すると、男は安心した表情になって、なんの疑いもなく頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。すいません」
 丁寧な言葉遣い、やさしい感じの話し方だった。夏紀はそれだけでとても満足した。返す言葉を見つけようにも、胸になにかが詰まって出てこない。財布を受け取った男から、すぐに身を離す。
 それ以上会話を続けず、夏紀はレジへ向かった。「ノリくんどうしたの?」と、女の声が後ろから聞こえている。
 男からすれば、悪気のない高校生に見えただろうか。そうであってほしい、と思いながら、ヨーグルトのパック飲料を買ってそそくさと夏紀は店を出た。本当は振り返ってもう一度男を確認したかったが、故意にぶつかった件とそばに女がいることで感情をこれ以上揺らがせたくなかった。
 考えていたとおりに物事が進んだのだ。ラッキーが重なって、すっかり心が浮かれていた。カモフラージュで買ったパックにストローを差し込んで、駅までの道を急ぎ足で抜けていく。
 早く帰って自室に籠もりたい。そんな気持ちになったのは本当に久しぶりだ。いつもならば家に帰りたくなくて散々迂回してから帰宅するか、途中下車のようにパッと自宅へ一瞬寄ってまた外出している。平日の明るい時間から自室に籠もるというのは、近年ほぼしたことがなかった。新鮮な気分にも包まれる。
 電車と徒歩で片道三十分かかる道のりを、長い脚で縮めて自宅に帰った。玄関先で驚く叔母と鉢合わせたが、軽く挨拶して階段を駆け上がった。彼女はまたすぐどこかへ夏紀が出かけていくとでも思っているのかもしれない。しかし、今日は自室から出るつもりはない。
 夏紀はドアの内鍵を閉めると、ポケットから自分の財布を出した。中身を開き、コンビニエンスストアでおさめた大切なカードを指で引き抜く。一般的な、なんの変哲もない免許証だ。まだ、夏紀が所持できるものではない。
 志村則之。
 手にした免許証には、そう持ち主の名が印字されてあった。住所は栖鳳学園のすぐ近く、マンション名は遭遇したコンビニエンスストアの向かいにある建物とまったく同じだ。部屋番号は五〇六。男の顔写真も載っている。
 免許証を翳して、夏紀は笑った。
 いくつかのチャンスをうまく利用して、あっという間にここまで来た。自分の聡明さに改めて自信を持つとともに、確実に男を手に入れる手段が一気に出来上がってくる。あの身体があと少しで手にはいる。あの肌に触れ、変態行為に加担できる。
 屋上で見た痴態がよみがえった。目の前にある顔写真と、コンビニエンスストアで会った生身の彼、交わした声を当てはめる。夏紀の脳内で男は上手に重なった。彼はベッドの上で喘いでいた。夏紀を身体いっぱいに受け入れる。
 それは甘く淫らで、今までで最もリアルな妄想だった。カードを机に置いて夏紀は己の欲望を引き出した。女の中で果てるリアルさより濃く、妙に痺れるような感覚で自身の指を汚す。あの男でマスタベーションすることに、はじめから罪悪感も嫌悪感も起きなかった。自分には男を抱ける素質があったのか、と理性的に考えたこともあったが、性的な反応は唯一あの男にたいしてだけだ。志村則之という男にだけ、夏紀の欲望が強く反応する。
 手をウェットティッシュで拭いて、もう一度免許証に触れた。性欲を処理したことで冷静さが幾分戻る。気持ちを少し落ち着けて、改めてプロフィールを眺めた。
 平凡な名前、平凡な顔。どこにでもある感じだった。なぜこんな男に興味が惹かれてしまうのか。自問してすぐ、この男が変態だからだと自答する。屋上であんなプレイを毎週見せられなければ、夏紀もここまで行動することはなかったのだ。この志村則之という男が最初にけしかけてきたのだから、夏紀自身はなにひとつ悪くなかった。
 それにしても、この証明写真のうつりはコンビニエンスストアで見た顔に比べてひじょうに良くない。免許証の顔写真は誰しもひどくて見せられない、という話を遊び相手となった年上の女たちから以前聞いたことがある。話していたどの女も、決して自分の免許証を見せてはくれなかったが……なるほど、こんな感じであれば誰も見せたがらなかった気持ちはわかる。証明写真は妙にやぼったいのだ。実際の本人と面をあわせたときは、免許証に気を取られていてちゃんと見る余裕もなかったわけだが、本来の彼の造作はもっとシャープで穏やかな雰囲気だったと思う。細部に注視していくと、顔のパーツは比較的整っていることに気づく。とりあえず、嫌いな顔立ちではない。
 この遭遇で一番嬉しかったのは、声だ。今日、はじめて彼の声を聞くことができたのだ。焦がれていた声。それは夏紀のテンションを高める大切な作用となった。
 コンビニエンスストアで会話した部分を繰り返し脳内で再生する。分析する。志村という男の謝ってきた声、会話というより単なる台詞だろう。
 いえ、こちらこそ。すいません。
 そう言った彼の声は、夏紀が想像していたよりも少し低かった。そして安心感を与える甘さがあった。普通にしていれば子どもにも好かれそうな声。あれが喘ぐとどんな声になるのか。
 屋上での観賞で一番不満があったのは、彼の喘ぎが夏紀の耳まで届いてこない点だった。あの男の痴態をよく知っているにもかかわらず、一度も彼の甘美な吐息や喘ぎを聞いたことがないのだ。生々しいセックスや自慰を見れば見るほど、屋上から部屋までの距離が歯がゆくなった。まるで無声映画と同じだ。そのせいで、妄想しても喘ぎ声だけがもやもやして現実味が少し薄れていた。
 そばで声を聞いてみたかった。だから、コンビニエンスストアで一言二言でも話せたのは嬉しかった。ただ、あの程度ではやはり足りない。もっとちゃんと聞いてみたい。喘ぐ声を、すがる泣き声を、夏紀を乞う言葉を自分の目の前で見せてほしい。
 連れていた女のことを考えるとイラついてくるが、志村にも二人の男と仲良くセックスをしていた前科があると思えば、女に負ける気はしなかった。それに、連れの女はおそらく志村則之の近所には住んでいないはずだ。夏紀はイラつきを沈めるために勝手にそう断定した。彼の雰囲気から鑑みると、仮に自分の彼女が近所に住んでいる状態で、他の男を自宅へ連れ込む勇気はなさそうだ。
 同性であろうが、志村のしていることは浮気とほぼ変わらないものである。自分が女だったら、さすがに引く、というより別れの理由になる。なんなら早くバレて別れてしまえばいい、とすら夏紀は思った。
 とりあえず、夏紀のほうがあの女より志村則之が住んでいる町に詳しいはずだ。彼の住んでいるそばの中高一貫校に通っている事実を思えば、夏紀はかなり慰められた。週六日も志村の家のそばで過ごしているのだ。屋上からは家の中も見える。自慰も観賞できる。偶然を装って会えるチャンスはきっと夏紀のほうが多いし、直接会いに行こうとすればいつでも会える。確実に優位だった。
 免許証を眺めながら、夏紀は心の中で呟いた。 
 ……早い内に、俺はこの男の家に行かなければいけない。
 その理由は簡単だ。彼の家まで免許証を返しに行ってあげる必要があるのだ。最も使われる身分証明のカードは、紛失すると運転もできないし悪用されかねない。再発行も少々面倒だ。夏紀はそれを見越して、彼の長財布からあえて免許証を探して抜いてきたのだ。
 彼が営業回りの仕事でしていれば、夏紀のしたことは大した罪になるが、そんなことはかまっていられなかった。ともかく、志村が鈍感な男であっても、さすがに数日経てば免許証がないと気づくだろう。再発行の手続きをしに行く前に、夏紀は志村にこれを渡して、印象を良くしなければならない。
 ……まあ、良い印象って言ったところで、すぐ覆されるんだろうけどな。
 夏紀はそう思って薄く笑った。手の内にあるカードは最大限に利用するつもりだ。人の良さそうな高校生を演じて志村の警戒心を解けば、あとは頭を使いながら上手に目的を果たしていけばいい。そうしたとっさの算段を夏紀は得意にしていた。ただ元々まったく接点のない人間だったのだから、街で女と駆け引きするより慎重にやらなければならない。女相手にここまで頭と時間を使ったことはないな、と思いながらカードを財布の中に閉まった。




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