* 水曜日【第8話】 * |
「ハイ、いいんですか」 彼はその返事で身体をずらし、ポケットからキーケースを取り出した。志村が自宅の扉の前に立っている。その後ろ姿を夏紀は拍子抜けしたまま見つめた。なんの策を繰り出すことなく、あっさりと切望した場所へ入ることができる。これこそ願ってもいないことだった。 「うん。お礼といっても、ほんと微々たるものなんだけど」 そう言ってドアを開ける志村は、まだなにも気づいていない。夏紀が自分の変態嗜好を知っていることも、毎週栖鳳学園の屋上からセックスやマスタベーションを見ていたことも、それが原因となって夏紀自身がここまでリアクションを起こしてきたことも……そして、無防備な背中を抱き締めて押し倒したい衝動を耐えていることすら。夏紀は言葉で欲望を制した。 「ありがとうございます。ちょっと喉渇いていたんで、助かります。……お邪魔します」 「靴とかは揃えなくてもいいよ。あんまりきれいな部屋じゃないけどね」 志村は明かりをつけながら、初対面同然の親切な高校生に声をかける。プライベート空間に入った瞬間、敬語が取れた。オンとオフをきれいに使いわけられる性格なのだろう。そうでなければ、今頃公然猥褻罪かなにかで捕まっている。 下世話なことを考えずにはいられないまま、リビングに着いた。眺めるまでもなく、志村がきれい好きの部類であるとわかる家だ。リビングはシンプルな配色で、大型のテレビとソファー、ローテーブル、アンティークな戸棚、その横に水槽があって、オレンジの魚が二匹泳いでいる。少し奥まってキッチンがあり、片面がほぼすべてバルコニーに面した窓になっているのと、家族用のダイニングテーブルがないせいで広く感じられる。一人暮らしであることは明らかだ。採光も良さそうだ。 カーテンが引かれていない窓の外は暗い。しかし、窓の向こうには夏紀の通う学校があって、見上げれば屋上と空がある。雲があって星がある。月の手前に夏紀の幻影も、生霊のように屋上で留まっているのかもしれなかった。 そして夏紀は今、念願の家の中に立っている。だが、このリビングは目的の部屋ではない。一番気になる場所の位置を壁の向こうに探す。おそらくリビングの隣あたりか。見るかぎりリビングには廊下につながるドアひとつしかない。廊下を歩いている間に、禁断の扉が佇んでいたのだろう。 湧き上がろうとする興奮を抑えた夏紀は、ソファーに上着と鞄を置いた家主にならって、同じようにソファーの端を使った。ローテーブルには今日の朝刊が折り畳まれ、その上にキーケースが乗っている。この鍵のうちどれかが家の鍵だ。ネクタイを外しながらキッチンへ赴く志村に声をかける。 「こんな、初対面のひとを気軽にいれるんですか?」 「いや、そんなことはないよ」 そう言って振り返った彼は苦笑していた。ネクタイをするりと取って、上からふたつほどボタンを外す。首筋から胸元が少し露になって、夏紀の視線を固定させる。 「でも、きみはそこの学校の生徒だよね。栖鳳学園なら昔からよく知ってるから」 素行は悪くないだとか、良家の子息が集まるだとか、頭の良い子ばかりだとか、……近隣住人の栖鳳学園にたいする共通の印象を彼もまた持ち合わせているのだろう。確かに間違ってはいない。夏紀にとっては通いだして六年目の飽き飽きしている場所なのだが、この学校の良い印象のおかげで志村の家まで難なく入れたのだ。 「飲み物、アイスコーヒーでいいかな? 甘いのだったら、ジュースみたいなのがあるんだけど」 冷蔵庫を開けて好みを訊く志村に、夏紀は「アイスコーヒーでいいです」と答える。わかった、と、返した彼が用意をはじめた。その様子を焼き付けるように見つめる。すると志村が振り返って夏紀を見た。 「きみは、ミルクと砂糖はいる?」 「……いえ、ブラックで大丈夫です」 一瞬だけ、鼓動が熱く跳ねた。それと同時に、「きみ」と呼ばれて自己紹介をし忘れていたことに気づく。アイスコーヒーをふたつ持ってきた志村が立ったままの夏紀に飲み物を渡し、ソファーへ座るよう促した。 「すいません、俺、自己紹介するの忘れてました。浅宮夏紀です」 それに頷いた志村が、夏紀の隣に座りながら口を開く。 「僕の名前は……あ、そうか、免許証にあったんだっけ」 「志村さんですよね」 「はい。志村則之です」 答えあわせのように、自分の名前を復唱する彼を夏紀は見つめた。近い。くつろげられた首もとは、上から降るライトにあたって白く、鼻を突っ込んで嗅ぎたい衝動も生まれる。 すぐそばに彼が座っている奇跡。それを必然にすべく質問を続けた。 「ここ、一人暮らしなんですか?」 「うん、そうだね。以前は両親も住んでたんだけど、今は田舎に引っ込んで」 あっさりと肯定した上で、志村は自ら高校進学直前にここへ住みはじめたことも明かしはじめた。夏紀が近所の栖鳳学園生であるという共通項が彼の警戒心をよく解いているのだろう。免許証から年齢も今年で二十八歳になるとわかっている。越してきたのはだいぶ前の話だ。夏紀はグラスを傾けながら聞いていた。 「ここへ引っ越してくる前は、そこの高校を受験する気でいたんだ。新居に近いから……でも、調べてみたら僕が行けるようなところじゃないってわかって」 「まあ、あそこは高等部からの編入は受け付けてませんから」 夏紀の相づちに、彼は苦笑するように微笑んだ。 「うん、それもあるんけどね」 そう言って飲み物を傾ける彼の首を見る。わずかにせりでた喉仏がゆっくり上下した。いやらしい動きだ。夏紀は学校の話が出たのをいいことに、在校生の好奇心を装って栖鳳学園の話題を続けた。質問すれば返してくれる気さくなひとだ。家にも気軽に入れてくれるし、飲み物までくれる。臆病さもなく神経質な感じもしない。これは意外だった。変態なのに。 近所の話に移ってから、志村が免許証の件に戻った。 「それでなんだけど、僕の免許証ってあそこのコンビニで見つけたんだっけ? 普通に落ちてた?」 どうやら、免許証を落とした経緯が気になっていたようだ。夏紀はそのとおり頷いた。 本当は落ちていたのではなく、ぶつかったときに拾ったのだ。そう答えようと思っていたわけだが、それではつじつまが合わなくなる気がした。本人がぶつかったときのことを忘れているのならば、思い込んでいるように落ちていたことにしたほうがいい。初対面ながら比較的好感触で過ごせている。これまでの経過をふいにしてはならなかった。 「何日か前、学校帰りに寄ったときなんですけど」 「へえ、そうなんだ」 いつだろう、と考える素振りだ。それとあわせて、コンビニのどこらへんで、どうして落ちたんだろう、とも考えているのかもしれない。あの長財布から免許証だけ滑り落ちるというのはよほどの偶然が重ならないと無理なことだ。夏紀は彼にこれ以上深く考えさせないように会話を足した。 「あそこのコンビニ、よく使うんですよね?」 「そこの? うん、マンションの向かいだし、よく使ってるよ」 「一人暮らしなんですよね、料理とかしないんですか」 「うーん、あんまりしないかなあ。しなきゃいけないとは思うんだけど、一人だと、あんまりね」 社会人の怠惰を苦笑交じりに語る。 「とか言って、彼女あたりがやってくれるんでしょ?」 カマをかけるように強引な親しみを込めれば、彼の表情が変わった。グラスをテーブルに置いて、ソファーの背に深々ともたれる。そのふくみ笑いは、言葉なき肯定だ。 夏紀の胸の内に黒くどろどろしたものが芽生えはじめた。それは計画的な感情ではなく、善意を潰す衝動に直結していた。わずかでも普通に会話できて嬉しい、と思ってしまった自分を心の中で塗りつぶす。目的を変えることはない。中途半端は一番恰好がつかないのだ。 志村の人良さそうな雰囲気に呑まれることはなく、夏紀は十代らしい人懐っこさを演じた。 「俺……実は、志村さんのこと、何度もコンビニで見たことあったんですよ」 まるで以前からよく知るような素振りで言った。 「あそこのコンビニ、よく寄るんですよ。そこの学校には長く通ってるんで」 虚偽と事実を上手に混ぜ合わせる。志村は夏紀の思惑にまんまと乗って、じっと夏紀を見た。思い出そうとしている表情だ。確かに二度は顔を合わせているのだから、志村が覚えていてもおかしくはない。しかし、数分前のやりとりで、周囲からイケメンと称されるほど爽やかに目立つ夏紀の容姿とぶつかったことを忘れているのであれば、やはり覚えていないだろう。 「うーん、ごめん、僕は覚えてないなあ。でも、きみはどちらかっていうと、あそこの生徒でも目立つほうだよね」 この発言は、夏紀がぶつかってきたことを忘れていると宣言したようなものだった。それとともに、志村から見た夏紀の印象がこめられた。 「まあ、そうですかね」 栖鳳学園内では、容姿というよりも成績や遊び癖の噂で目立っているようなものだ。繁華街で女たちと遊んでいたときでも、顔というより若さが先行して可愛がられていた節がある。この見てくれは都合がいいとはいえ、それだけで目立っているわけではなかった。 「僕は見てのとおり、これといって顔に特徴もないし身長もないから、覚えられにくいと思うんだけど。逆にきみのほうが……なんか、もてるんじゃない?」 志村が自身の容貌について冷静に語るついでに、そんなことを言い出す。夏紀は口元に笑みを浮かべながら彼を見た。 確かに中等部時代から幾度となく女から告白を受けている。これまで付き合った中で、自ら告白したことはない。この前まで一応彼女だったリナとサユリも、双方告白してきたから付き合った。特にサユリは、他に好きな人がいてもいいから、と、のたまって尽くしてくれたから付き合っていたようなものなのだ。……とりあえず、共学校に通っていればさらにモテていただろう。 「でも、あそこ男子校ですよ」 女に鞄で殴られたことも思い出して、ため息をつきそうになりながら現実を伝える。志村もすぐ納得したようだ。 「そういえば、そっか」 「……俺、そんなにもてそうですか?」 「うーん、違う? 好みもあると思うけど、……背もあるよね。浅宮くんって何年生?」 「三年です」 「じゃ、今年受験生?」 「はい。まあ、まだ本腰入れるような時期じゃないんで」 「ああ、そうか。頭良いしね、栖鳳は、」 「でも、志村さんもけっこう頭いいんじゃないですか?」 「いやあ、ぜんぜん。そんなことないよ」 確かに夏紀より賢くはないかもしれない。顔も本人がいうように中の上というと褒めすぎになるかもしれないが、比較的パーツは整っている。それよりも雰囲気がまず良かった。知的で親切そうな感じで、人に好かれやすそうな風体だ。夏紀はそこを素直に褒めた。 「知的な感じで、雰囲気もいいですし」 「それは、……うん、ありがとう。雰囲気だけ、だけどね」 志村が水滴で濡れたグラスを取る。仕草に艶やかさがあると思った。話途中にシャツをまくる手の動きから、出てきた細く白い腕。体毛は薄い。触りたい衝動にかられる。 「身体のバランスもけっこういいですよね」 それは廊下で見たときから夏紀が思っていたことだ。すると志村は、そんなところまで見ていたのか、という顔をした。できるものなら、今すぐにでも彼をソファーに押し付けて身ぐるみを剥がしたい。今まで見てきたセックスの上書きがしたい。 「近くで見ると、肌もきれいですよね」 妙に女を口説いている気分になってきた。あちらもそう感じたのか、どう答えるのが正しいのか考えている顔だ。アイスコーヒーを飲み干した彼が、トーンを落とした。 「ありがとう。でも、それほどでもないよ。若いときにやんちゃした跡もあるし」 「そうなんですか? 見てみたいなあ」 「そんな見せられるもんじゃないよ。ひどい跡だから」 「なにで、したんですか?」 「あんまり、いえることじゃないんだよ」 苦笑する志村に夏紀の黒い部分が揺り動かされた。志村の飲み物は空になり、夏紀のグラスも氷で薄まったアイスコーヒーが少ししか残っていない。 軽いお礼として振舞われた時間は、やがて彼の手によって幕を下ろされる。そうなったら挽回するのが面倒だ。早く貶めたい。だらだらと会話をして、またいらぬ良心を生み出したくなかった。 「あの部屋でするような?」 彼を見つめながら話す。無意識に少しだけ笑みが混ざっていた。 「窓から、見えてましたよ」 「……窓?」 脈絡ないように出てきた言葉に、志村が不思議そうな顔で復唱する。この高校生はなにを言い出しているのだろうという表情だ。週末の仕事を終えてぼんやりしているらしい彼の脳に、直接響く一言を添えるしかなかった。 「水曜日」 夏紀が単語を口にすると、一瞬にして志村の表情が変わった。それは大きな変化ではなかったが、ここ最近で一番面白い他人の態度の変化ともいえた。 彼からすれば、露とも想定していなかった展開だろう。初対面の高校生から、突然変態行為のことを持ち出されたのだ。 強張った志村は目を泳がせながら視線を落とす。使い果てて乾きはじめるグラスと眼球の色が重なれば、夏紀はあえて無表情で言葉をつなげた。 「うちの学校の屋上から、何度も見えてましたよ。あれ、わざとなんでしょう?」 長い沈黙がはじまった。ここから志村がどんな切り返しをしてくるのだろう。夏紀は体力に自信があった。バスケットボール部の前は、ずっと合気道をしていたのだ。最悪殴り合いになってもかわせるだろう。それに、志村はどう見ても殴り合いができるような腕の持ち主ではない。 志村が表情を失くしたまま、夏紀をようやく見つめる。 変態行為を暴露された彼の瞳は、絶望に飲まれていなかった。思いのほか精神的に強い人間なのかもしれない。もしかしたら、変態男らしくプレイを見てくれたことに感謝しているのかも……と一瞬思ったが、それにしては喜びも楽しさも表情にまじってはいなかった。 望遠カメラで撮った証拠写真もある、と、さらに脅かせば慄いて身体を差し出してくれるだろうか。動かない志村へ有効な嘘を伝えようとしたが、先に彼の口元が開いていた。 |
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