* 水曜日【第10話】 *


 風に湿気が孕む。
 しとしとと則之の中に滞る倦怠のような雨は、開かれた窓の先で止む気配すら見せない。掛け時計は午後二時を過ぎていた。ソファーの上で夢と現を繰り返した。無理を強いられ、汚れた体液で開かせられた身体が痛い。
 太陽が昇る前までにどうにか犯された箇所を処置して、汚れたシーツと床を始末することはできた。引っ掻き回された心を律することに時間がかからなかったのは、それだけ則之も経験を積んでいるからだ。
 血が出たくらいならば、治るまで大人しくしていればいい。男を受け入れて裂けたことは一度や二度ではないのだ。昔やんちゃしてつくった、内股の付け根にある大きな煙草の焼き痕よりましだった。激しいセックスで身体がだるくなれば、安静にしていればいい。蹴ったり殴られたりしていないのは幸いだ。それに、男とセックスするときは女のときよりも体力勝負になることが多かったではないか。
 則之は一定した呼吸を続けながら目蓋を下ろした。雨はおさまるどころか、少しずつ激しくなっているような気がする。日曜日にしては残念な天気である。人と会う約束がなかったことは不幸中の幸いだった。
 目を閉じた先には、……窓から見えていた星と月がまだ鮮明に映っている。昨夜は今の雨が嘘のように晴れていた。月は丸みを帯びて星の煌きを薄め、それを則之は裸のまま長いこと眺めていた。淫らに溶け合った自分と男の体液が痛みを連れ、己の業の深さを教え、呆然としたまま理性を取り戻すまで動けなかった。
 ……なんでこんなことになってしまったのか。
 正直な話、則之には今もまったくわからない。かわいらしい小川だと思って泳いでいたら、濁流に呑まれて最終的に滝つぼに叩きつけられたようなものだ。自ら選んだものではなく、無抵抗のまま蹂躙された。
 自分の性癖がコントロールできなかった若い頃に、一番手ひどいセックスを強要させられたことはある。煙草の焼き痕がその証拠だ。ハッテン場で出会った男と恋仲になりかけて、好意を持ったまま連れられた先で複数の男たちに輪姦された。あのときは友人が助けてくれた。ハッテン場への出入り禁止令が彼から出され、則之もあれを境に自分からあの世界に首を突っ込む気はなくなった。……ただ、あの頃は持って生まれた性癖に悩んだ挙句、自暴自棄になっていた時期であって、レイプも焼き痕も半ば自業自得の部分があった。それだからこそ、手ひどい経験を許容できたし、本気で性癖を律そうと思えたのだ。
 しかし、今回のことについては晴天の霹靂といっても過言ではない。高校生に犯される兆候も経緯も一切なかったのだ。彼が玄関前で待ち伏せしているときが、則之にとってほぼ初対面であった。
 浅宮夏紀。
 栖鳳学園の制服だから、あそこの学生に間違いはないだろう。彼の言うとおり、近所ですれ違っていても不自然ではない。しかし所詮、次元の違う金持ち学校の生徒の一人である。
 則之から見た浅宮夏紀の最初の印象は、親切な男子高校生だな、程度のものだった。確かに自分より一〇歳離れているだけ若さを感じたし、背が高くて女の子にもてそうな爽やかな容貌だとも思ったが、……少なくとも、ああいうことが平気でできる雰囲気はまったくなかった。だから、油断した。お礼として家へ招きいれてしまった。
 男を抱ける男なんて少ない。だからマイノリティーとして疎んじられるわけであって、則之も世間と共通の認識だった。則之には、あの高校生はノンケなのだという勝手な安心感があった。そのせいで、会話の流れがおかしいと気づくのも遅かった。高校生の思惑に気づいたときは、すべての道が塞がれていたのだ。舞台となってしまったここは親から譲り受けた家で、浅宮夏紀は脅迫対象をすでにいくつも用意していた。
 ただ、則之だけをターゲットにして脅すくらいならば、どうにか対処できただろう。自分の性癖が最悪露呈されたとしても、今の則之ならば耐えられる。……しかし、彼女はダメだ。美加子のことを考えたら、自分の身体を差し出すしかなかった。
 現恋人である君津美加子は、本当にごく普通の価値観を持つ女性だ。こんな自分でも一般的な人間として生活できる、という希望ときっかけをつくってくれた大切なひとだ。元々則之は男だけでなく女も愛せる。美加子と出会って、普通の人間になれるよう一層努力した。この二年くらいで、ようやく同性の身体が猛烈に欲しくなるようなこともなくなってきたのだ。おかげで精神的にもあらゆる面で自信がついた。
 ……それらを、一瞬で裏切ってしまったような気がする。
 則之は胸元へ手を置いた。その下に生まれている妙な罪悪感。あの浅宮夏紀という高校生の仕打ちが憎い、というよりも、自分のもっている性癖の業の深さを思い知らされた。
 校舎の屋上、窓の中、覗かれたプレイ。彼が脅してきた材料に虚偽はない。浅宮夏紀は本当に学校の屋上から則之の痴態を見ていたのだろう。
 ……脅されて合意を求められる前にヤラれた。だから、あれはレイプだ。
 そう思っていたほうが、気は楽だった。無理やり犯されたことにショックを受けるほど、則之は初心な生きものではない。それにこれも結局のところ自分の醜い性癖が招いたものなのだ。外の風や光を感じながらセックスするのが好きでなければよかったし、アナルセックスや男に身体を愛されることで何度も血を見て、いくつも消えない傷をつくってきた。そんなキツイ痛いものなんて嫌いになればいいのだ。
 ……それが簡単にできれば、今頃とっくに幸せな家庭を築いている。
 則之は心の中で自嘲するように呟いて、瞳を開いた。
 ソファーに横たわると、バルコニーの先から栖鳳学園の校舎が少しだけ見える。開放的な部屋が好きな則之には、カーテンを引くという習慣がなかった。ここには一〇年以上住んでいるが、栖鳳学園から視線を感じたことは一度もなく、校舎にも則之の家の中が簡単に見えるような位置に窓はない。このマンションは隣接する校舎以外、バルコニー側に高い建物はなく見晴らしがいい。開放的に過ごせることが最上階の利点だった。
 盲点は、校舎の屋上が開放されていて、そこから則之の家の一室が丸見えだったということだ。しかも、見える場所がよりによってあの部屋だということ……親が田舎へ引っ込んだときに、あそこをプレイルームではなく単なる寝室にしていれば、性癖も暴かれず脅迫ネタもつくられずに済んだかもしれない。しかし、この3LDKの用途を今更後悔しても遅い。
 ローテーブルに置かれたスマートフォンが振動した。ふるえはすぐに止む。
 この番号でつながっている人間は少ない。友人は電話をしてくることが多く、SNSで連絡してくるのは恋人の美加子くらいだ。則之は鈍く痛む身体をずらして、腕を伸ばした。
 画面を開いて確認すれば、やはり美加子だった。絵文字が踊っていて一見してもかわいらしい。前回会ったときに、彼女は「六、七月は仕事が忙しくなるからちょっと会いにくくなるかも。シフトの融通があんまり利かなくなっちゃうみたいで」と、話していた。そのとおり、SNSは近隣の会えそうな日を事前にピックアップしたという内容だった。
 彼女と会える日の数字を見て、則之は目の高さに持ち上げていた腕を落とした。いつもならば、すぐに手帳を開いて日取りを調整する。それで、空いた水曜日に悩みの種ともいえる性癖を慰める予定を組むのだ。そうやって、長いこと自分の欲望と付き合ってきた。
 今はなにも考えたくなかった。
 というより、昨夜のこと以外なにも出てこない。縛られて犯された。それだけならいい。自分が恐怖と痛みで苦しめば、より気持ちは楽だったろう。……則之にはできなかった。浅宮夏紀に、恐怖心を持つことができなかったのだ。別の恐怖ならばある。大きな不安もある。
 ローテーブルにあるキーケースを何度見ても、この家の鍵はない。それが、則之の未来にひとつの不安を持たせている。
 玄関ドアが閉まっていると気づいたのは、すべての処理が終わって、よろよろと施錠を確認したときだ。最初は、ちゃんと鍵がかかっていたか、程度にしか考えていなかった。安楽を求め、寝室のベッドに寝そべろうとしたところで、「あれ?」と思った。あの高校生が出て行ったときに、鍵をかけに行った記憶はない。それこそあの高校生が出て行ったことすら気づかず、翻弄された快楽の余韻に呆然としていたのだ。最終的に理性が飛んで感じていた自分に絶望していた。その状態で鍵をかけに行けるわけがない。
 鈍い痛みに耐えながら、リビングに戻って革のキーケースを確認した。鍵がひとつ消えていた。この家の鍵だ。則之は玄関ドアにチェーンをかけて施錠を二重にした。翌朝管理会社に連絡することを考えたが、起床してマスターキーがあることを思い出した。
 鍵の件に気づいたとき、則之は栖鳳学園生の小狡さを感じたものだ。おそらく免許証も、……なにかのときに抜き取られていたものかもしれない。今思えば、浅宮夏紀という学生はそういうことがぬかりなくできそうな威圧感を持っていた。ひとが羨むようなものを当たり前のように全部持って、平然としている。則之みたいな人間にはなにをやっても合法だと思っているのだろう。
 それは、結局社会に出ていないから保つことのできる若さのひとつであった。栖鳳学園生はすでに将来が保障されているような生徒が多いというから、そうした特殊な中で、大人になってからも彼はそうしたプライドを誇示していくのかもしれない。強いられた則之からすれば大変迷惑な話だ。
 しかし、近いうちに彼はまた来るだろう。この家の鍵を持っているのだ。
 鍵をつけかえることを考えるべきか。そう考えていれば、手の中でまた振動が起きた。携帯電話が則之を我に返させる。着信相手は、西條兼次。背中に大きなタトゥーを入れた彼は同性愛者で、則之の身も心もよく知る男だ。則之は安心してボタンを押した。はい、という声は掠れて咳払いした。
「なんだ、風邪引いてんのか?」
「違うよ。ちょっと、うとうとしてた」
 バリトンの良い声が心配そうに響いたから、則之は自然と声のトーンを上げた。兼次は則之がハッテン場通いをはじめていたときに出会い、関係が続いている男の一人だ。……そして、昔遭ったレイプ中に屈強な身体で救い出してくれた友人でもある。今では、則之の意向に沿ってくれる一番の理解者だ。
「気をつけろよ。そんで、次の水曜日、会うんだろ?」
「……あ、ああ、そっか」
「忘れてんのかよ。ノリが先に言ってきたんだろ」
 彼は水曜日にこの家でするのかどうか、という確認の電話をしてきたようだった。いつものことだ。
 兼次の言うとおり、大抵は則之が会う予定を決める。彼はゆがんだ性癖を処理してくれるひとだ。そんな兼次のほうが、気を遣って「彼女がいて、いいのか?」と、時々関係を続けていることに負担はないか尋ねてくれるのだ。
 則之はいつも同じことを、彼に答えていた。
『彼女は別物。兼次はそういう間柄ではなく、浮気ではない。第一、彼女は男ではない。性癖とは別のところで彼女のことを愛している』
 そういう旨を話すと、兼次は不思議そうな不安そうな表情をするが、理解を示してくれる。
『おまえがわかってやってんならいい、俺は女が一切ダメだからバイのおまえの気持ちはよくわかんねえしな』
 こうしたやり取りを、この二年近く続けていた。
 しかし、今日は則之の心が揺らいでいた。不安を吐露するように、声を洩らした。
「う、……ん。ごめん、ちょっとわかんなくなってる」
「どういうことだよ?」
 かかさず兼次に問われたが、気持ちが整理できない今は言えないことばかりだった。それに、無理やり何度も挿入されたせいで、水曜日にアナルセックスすると言われても受け入れられるかわからない。傷がついていることを知られれば、彼から尋問を受けるのは必須だ。前科のある則之に、またなにかが起こったと思うに違いない。
 ……なにかが起こったのは確かだ。それも、ここ二年の中で最もまずい予感がする。 「仕事が、忙しくなってきてるのと、あんまり体調が、」
 胸を巣食う不安に無理やり蓋をして、真っ当そうな言葉を選んでつなげた。文面どおりにしか受け取らない彼は、則之の声にかぶさった。
「そうなのか? 最近寒暖の差激しいからなあ。俺の周りもけっこう風邪引いてるぜ。病院とか余裕あったらすぐ行けよ」
 朗らかで親切な男の好意が、則之に鈍く刺さった。
「……おい、聞こえてんのか」
 もう一度問いかける男の声に、則之は沈黙していた自分に気づく。無意識に伏せていた目蓋を持ち上げた。 
「聞いてるよ。……わかった。また、会えそうな日をつくって埋め合わせる」
「オーケー。わかったから、おまえも無理すんなよ。ヤるってだけじゃなくて、外で軽く飲みとかでも俺は付き合うんだからさ。でも、家以外でヤんのはダメなんだろ?」
 彼の言葉に、うん、と答える。則之は昔の痛い経験から、煙草の焼き痕の他にひとつ無理なものができた。自宅以外でセックスができなくなったのだ。兼次には、完全にトラウマだと言われているが、別にそれ以外の不具合は起こしていないのだから問題ない。自宅以外で性癖を披露するつもりはないし、トラウマは良いストッパーになってくれている。
 しかし、その安心感も昨日で潰えた。則之はここで高校生に性のかたちを打ち込まれ、精液を注がれた。家の鍵も盗られ、蹂躙された痴態もカメラで撮られた。あれが一夜で終わるとは思えない。
「おい、ノリ、おまえ、ほんとに話聞こえてんのか? 大丈夫か? やっぱなんかあったんじゃねえか?」
 再び黙ったことを兼次に責められる。
「いいや、大丈夫だよ。水曜日がダメになっても、近いうち会う日をつくるから」
 則之は自嘲するように明るい声を出した。電話は表情が見えないからいい。今の気分じゃ、そこまで取り繕えない。
 彼は則之の台詞にテンションが上がったようで、水曜日がダメでも日曜日はどうか? と、訊いてくる。彼と会ったほうがいいかもしれない。日常を取り戻せるかもしれないし、馴染みの男とするセックスのよさを思い出すかもしれない。浅宮夏紀との夜を上書きする男の身体が必要な気がして、結局一週間後に会うことにした。
 彼と話を終える前に、則之は自分の印象を尋ねた。
「兼次。……僕は、なんなんだろうな」
「なんだよ? なんなんだって、おまえは良いやつだよ。やさしくて、気遣い屋で……まあ、おかげでたまにこっちが心配になるんだけどな」
 あと、身体の具合は大好きだぜ。けっこうタフだしな。そう返ってきた兼次の言葉に、則之は苦笑するしかない。自分の痛い過去を知る男。輪姦から救ってくれたとき、仲間を引き連れて野郎たち全員をぶん殴ってくれた。一生消えないだろう煙草の焼き痕に憤慨していた。あれから、喫煙者であった彼は煙草を吸わなくなった。
 回線の途切れた携帯電話は、手から滑り落ちた。カタン、と、フローリングに当たる音がする。昨夜もそんな感じで浅宮夏紀にベッドから落とされて後ろから突っ込まれた。そして正常位にさせられて舐められて……空気が変わったのだ。
 あの高校生は、則之との関係を一度きりで済ませはしないだろう。それが、鍵を奪ったことに如実にあらわれている。たとえ、則之が窃盗罪や暴行罪で訴えたところで、不利になるのは則之だけだ。彼は立場上、あの程度の悪さではきっと咎められない。
 やって来たらどうするか。自宅にいるときはチェーンをかけて過ごすか。それでも限界がある。それこそ、則之の外出中に鍵を使われて室内に居座られてしまえば、また逃げようがない。第一、則之の性癖を知っているのは、友人二人だけだ。一人は兼次で、もう一人は元カレの馨である。後者は則之と同じくバイセクシャルで、先月この家で会ったときに恋人ができたと言っていた。兼次も馨も性格にクセがある。昨夜の話を吐露して事態が変なふうになるのは避けたかった。
 我慢するのは慣れている。諦めることも慣れている。
 また昨夜のように無理やり求められたら、……それならそれで、無感動に対処すればいい。簡単なことだ。則之は自分に言い聞かせる。人形のようになればいい。プレイの一環とでも思えばいい。犯されるなら、痛いだけならいいのだ。
 ……でも、そこにそれだけじゃないものが付随してきたら?
 尊厳を潰しながら犯してくる高圧的な高校生ではなくて、若くてガツガツ則之を求める雄として、身体が認識してしまったら?
 考えれば考えるほど、則之の胸に大きな不安の花が咲いていく。終盤のセックスは、犯すにしてはやさしい手だった。幼子のように夢中になって乳首を舐めていた彼に、則之は反応してしまった。
 一度そうなったら、痛みは快楽に切り替わる。すると、犯された苦痛から甘い悦びも引き出せるのだ。短時間で何度も貫ける若さ、痛いことも平気でできるのにやさしいこともできる手、子どものようなしつこさ。
 ……頼むから、早く飽きてくれればいい。男の尻に突っ込むなんて、あのときは気が狂っていたと思ってくれればいい。
 次は、変態、オカマ、汚物、と罵って、それで、もう二度と顔を見せてこなければ……則之は空いた両手で顔を塞いだ。
 今はもう、なにも考えたくない。思えば思うほど傷つくだけだ。身体よりも心が痛むのは避けたかった。ただ、眠りたい。誰の目にも触れられることなく、ただ眠りたかった。
 彼は塞いだ手の下で息を止める。音が鮮明になった。孤独な部屋に則之を責める者はない。澄んだ耳元では、ささやくように雨が溶けていく。




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