* 水曜日【第11話】 *


 こんなに突き抜けたように気持ちの良い朝は久しぶりだった。天気は残念ながら雨であったが、夏紀は気にすることなく日曜日の午前中から傘をさして都心の繁華街へ向かった。気に入っているカフェで軽く試験勉強をしてから、弟の誕生日プレゼントを買いに行くのだ。
 該当駅を降りて、少し肌寒い並木大通りを歩く。ショップの開店時刻前だからか、高級志向の路面店が連なる長い道はまだ閑散としている。車のほうが多いくらいだ。真っ直ぐ一〇分近く歩いた夏紀は、ようやく左の路地を曲がる。二十メートルほど進めば、ここ一年くらい贔屓にしているカフェがそこにあった。
 打ちっぱなしのコンクリートづくりに型の違うソファーと木製のテーブルセットが並び、ガラス窓そばに吊るされた観葉植物は雨粒を求めるように窓枠へ蔓を伸ばしている。ここは去年少しだけ仲良くしていた年上の女に教わった穴場のカフェだ。まだ営業時間がはじまったばかりで客はいない。一番乗りできた夏紀は、気分よくブランチ用にカフェラテとパニーニを頼んだ。早速、本業ともいえる試験内容の確認をはじめる。
 こんなに品行方正に生活しようと思えたのも久方ぶりだ。いつもは成績順位を意識して勉強はしない。実力だけでどれだけ点数が落ちないか試しているくらい、夏紀の学力偏差値は元から高かった。唯一成績を気にした教科といえば、二年生のときにはじめて触れたフランス語である。そのときばかりは、プライドもあって毎試験ごとにここや図書館で勉強をしていた。
 今はそうした特別科目がないので楽なものだ。大学の受験科目も、栖鳳学園の試験科目とさほど変わらない。難関大学へ合格するための学校なのだから、少なくとも夏紀ほど秀才でなくとも授業さえしっかり聞いていれば中堅大学にはまず合格できる。
 定期試験は二日間をかけて行なわれる。夏紀は明日のテスト範囲をざっと見直しながら、時間をかけて食事を終えた。その合間に、叔母から「今日はこの時間までに帰宅してほしい」という主旨の連絡が送られてきた。
 今夜は弟の誕生日パーティーだ。家族団らんで夕食をとるのも久しぶりになる。夏紀はすぐに了解の返信をした。いつもはなるべく避けたい家族行事だが、今日は素直に受け入れられる。そんな気分になっているのも、昨夜願っていたことが達成できたからである。その幸福感は長いこと持続していた。
 夏紀は、志村の部屋から見た外の風景を鮮明に覚えていた。
 昨夜は、今日の雨が嘘のように快晴だった。変態男のマンションを離れると、夏紀はすぐにタクシーを捕まえた。日付が変わる寸前に着いた家はすでに暗く、誰とも会わず自室へ入ることができた。彼はシャワーを浴びてすぐに寝た。
 熟睡後、外の雨に反して夏紀の心は澄み渡っていた。リビングで誕生日会の準備をする麻奈美に挨拶して、制服のクリーニングを頼み、弟と会わないまま家を離れて今に至る。叔母にはひとつも不審な眼で見られていない。余計事を招きそうなワイシャツと下着は自室に隠した。時期を見計らって捨てる予定だ。
 雨降りの空に、傘が色を添えて道を行き交う。その風情を眺め、活字を眺め、時々スマートフォンをいじる。そうしてショッピングを楽しんだ女たちがカフェテリアへ雪崩れ込む頃に、夏紀は教科書とノートを閉じた。会計時に、財布の小銭入れから裸の鍵を取ってデニムパンツのポケットに入れる。そして彼はまた傘を差した。若者向けのファッションビルが揃う方面へ向かう。あらかじめ目星をつけていたデパートに入ると、乾いた涼風が肌を撫でていった。まずは、スペアキーをつくりに行く。
 裏の目的は、戦利品の合鍵をつくることにあった。志村のキーケースから抜いてきた鍵は、盗んだものではなく単に借りてきたものだ。合鍵をつくれば志村に返すつもりである。技師に二本分の料金を払って、鍵を一時ショップへ手渡すと、誕生日プレゼント探しに出かけた。秀才の兄が贈る品物なのだから、文具のような実用的で恰好いいものならなんでもいいだろう。去年もその系統のものをあげて、明良は素直に喜んでくれた。小学校で活用していることも叔母から聞いている。
 文具用品が揃う階で用事を済ませて戻れば、真新しい銀色の合鍵が二つできあがっていた。夏紀はそのうち一本をすぐ自分のキーチェーンに加える。志村の鍵は、とうとう夏紀の鍵になった。満足した夏紀は荷物を持ちながら傘を広げ、駅近くの大型本屋に向かった。早く帰っても家族団らんの時間が長引くだけだから、約束の時間までは帰宅しない。大学受験用のコーナーで、赤本や問題集を吟味して二冊ほど購入を決め、腕時計を見ながら洋書コーナーと雑誌コーナーで時間を潰した。
 街灯がつきはじめる頃に、夏紀は外へ出た。改札口を通って、自分の家に行き着く番線へ向かう。車内はまだ空いている時間帯のようで、座れることもできた。雨は最後まで途切れることなく続く。
 自宅に着いて、呼び鈴を鳴らす。兄の帰りを待っていたのか、玄関ドアを開けたのは今日の主賓である明良だった。弟の表情は明るい。リビングには寛ぐ父親の姿もあった。夏紀は必要なもの以外を自室に置いてリビングにはいる。キッチンに叔母がいて、一間に皆が勢ぞろいするのは珍しいと思った。普段は夏紀が率先して家を離れているし、父親もゴルフや仕事でいないのだ。
 明良の機嫌のよさは、いつもいない家族に向けられていた。夕食時の雑談は、麻奈美と明良が提供してくれて不自然な沈黙は起きなかった。友人を集めた子どもの誕生日会は昼すぎにはじまり、午後四時すぎにはお開きとなったのだという。父親も誕生日会が終了したのを見計らってセカンドハウスから本宅へ戻ってきたそうだ。ここ数週間は海外から要人が来るということで忙しいらしい。長男を呼び寄せるつもりだったパーティーの話も出てきたが、夏紀は当たり障りなく聞き流しておいた。弟は一日に二回もケーキが食べられることに喜んでいた。兄から貰った誕生日プレゼントも明日から早速学校で使うそうだ。
 無理に微笑を顔に貼り付けなくても、気持ちよく弟の誕生日会を終えられた。面倒さや窮屈さを感じないで済んだのも、合鍵という新たなお守りを手にしたからだろう。お守りのうち一本は志村に返す予定だが、残り二本は一生夏紀の手元に残る。それが免許証のときとおおいに違うところだ。
 一生、手元に残る。
 いい言葉の響きだ、と、夏紀は思った。物は基本的に所有者のもとを自発的に去ることはない。  彼はすでに夏紀がしたことに気づいているだろう。免許証のときと異なり、下手な芝居をすることなくあからさまにキーケースから抜き取ったのだ。玄関鍵を付け替えるというのもあり得ることだが、昨日の今日で彼も素早く行動に移せるだろうか。志村はあのセックスでけっこうなダメージを負ったはずだ。無理強いで流血までしている。
 万が一、玄関ドアの鍵の形状が変わっていたとしても……夏紀の手元には明確に脅せる動画と画像があった。周到に集めた証拠は安心感と優位性を持続させる。近々、学校帰りにでも彼の家へ訪れるつもりだ。
 日曜日は不思議と志村の痴態動画を確認する気は起きず、早々と就寝した。翌月曜日はホームルームから試験まできっちりスケジュールをこなす。昼の終礼後は柏木と守屋とともに食堂で腹ごなしをして、夏紀だけ地元の図書館へ移動した。明日の試験内容をゆっくり確認しながら閉館を待つ。
 清く正しく生活する気でいられたのは、ここまでだ。帰宅すると真面目な二日間の反動がやってきた。自室に入ると我慢できず、あの夜に撮った動画を見た。夏紀の下で、男が汚れた身体を捩じらせて泣いていた。あッ、あッ、と喘ぐ声は紛れもなく男のものだが、女とさほど代わりがない甘さを孕み、律動にあわせて揺れていた。
 スマートフォンで動画を凝視していると強制的に中断される。最中に叔母からの通知が着て、夏紀は盛大に舌打ちした。夕ご飯は食べないの? という誘い文句を、試験勉強を理由に拒絶した。かかさず彼女から了解した旨の返信が来る。物わかりがいい麻奈美は、一つ屋根の下にいる夏紀へこれ以上のリアクションはしてこないだろう。空腹を感じたら、自室に保管している携帯栄養食でもかじっていればいい。
 しかし食欲などどうでもよくなっていた。志村が卑猥に泣いて動く短い動画と画像に、夏紀は興奮させられていた。食事は本当にどうでもいい。それよりも志村則之とセックスしたい。縛って犯して泣かせたい。
 ムラムラする衝動のまま、指を使って己の欲望を解放する。しかし、こんな自分の右手だけでおさまりがつかないことくらいわかっていた。日曜日にこの動画を確認しなくて正解だった。これを見てしまったら、いてもたってもいられなくなる。学校から真っ直ぐ、志村を犯しに出向いただろう。
 いっそのこと今からでもそうしたかった。もう、こんなものでは足りない。動画の時間が短すぎるし、途中でスマートフォンを放り投げているせいで後半は天井しか映っておらず、志村の喘ぎ声しか聞こえないのだ。
 においもなければ触ることもできない映像は、若い男の欲求を中途半端に駆り立てるものでしかなかった。何遍も繰り返せば、次第に動画の中にいる過去の自分にすら苛立ちを覚えた。なぜここに志村がいないのか。ここが志村の家ではないのか。
 それからの夜はやたら長かった。あまりに長く感じて、我慢できず動画を見てしまったことを夏紀は珍しく後悔した。
 しかし、会いたいと思う衝動をもう無理におさえる必要はない。軽い仮眠のようなもので翌朝を迎え、まずは学生の本分を通すため二日目の定期試験を受けた。今日も昼までで授業が終わる。用があって先に帰るという柏木の代わりに別の友人二名と守屋とともにのんびり昼食を済ませ、夏紀は一人図書室に身を落ち着けた。志村の家へ行きたいが、まだ行くには時間的に早すぎる。変態でも彼は一応社会人なのだ。
 試験明けであるせいか、栖鳳学園の広い図書室に生徒は数えるほどしかいない。夏紀はハイレベルと明記された数学の問題集をノートに写して解く。数ページ分こなすと、夜はやってこなかった睡魔が訪れた。夏紀は素直に身をまかせ、区分けされたテーブルに突っ伏す。何度目かの学校のチャイムで目を覚ませば、時計の針がいい具合に動いていた。ちょうどいい昼寝になった。
 今日は火曜日で、明日は水曜日。
 当たり前のことを子どものように心の中で復唱して、夏紀は立ち上がった。口元には笑みが浮かんでいた。借りていた鍵を返すために、志村の住む家に向かう。足取りは軽い。まだ夕暮れ前の時刻で、彼の帰宅を待つことになるだろう。しかし、会えるのならば苦にならなかった。
 はじめて訪れたときと同じ手順で志村の家の玄関前に行き着く。今回は合鍵がある。夏紀はインターホンを押さず、下ろしたてのキーを鍵穴に差し込んだ。スッと入っていく感じは気持ちいい。カチャリ。夏紀はゆっくり玄関ドアを開ける。中を覗いたところで人がいる気配はなかった。靴も正面を向いているものがひとつもない。志村はやはり仕事に出ているのだろう。
 夏紀は中に入ることなく、ドアを閉じた。大人しくまた鍵をかける。室内で待つことを考えたが、不法侵入は品がない。今回も大人しく共用廊下で本人を待つことにした。前回の帰宅時刻を踏まえると、何事もなければあと一時間半程度で帰宅してくれるだろう。それを越したら仕方ない、室内に入って待とう、と夏紀は決めた。
 待ち伏せ用として一昨日買っておいた洋書を広げる。三分の一ほど読み終えた頃、靴音が遠くから響きはじめて夏紀は顔を上げた。空は暗くなっている。
 外灯のつく共有廊下を、志村則之は顔色ひとつ変えずに歩いていた。
 志村は夏紀の姿を先に見つけたはずだ。しかし、まるで行く先に誰一人存在していないような焦点で前を向いている。夏紀はその視界へ無理に入り込むことはせず、彼が自宅ドアの前で立ち止まるのを眺めていた。
 あの夜の痴態が嘘のように清潔感あふれた背広姿だ。こうも自分の性癖を上手に隠せるものなのか。人は見た目によらない、と、鍵を開ける志村の背中を冷静に見つめる。
 ドアが動くと夏紀もようやく壁から背を離した。志村も急いで室内へ逃げる素振りはない。しかし、内鍵をかけられると待ち伏せは台無しになる。夏紀は志村が玄関へ入ると同時にドアを掴んで引き広げた。
 その強引さに志村はドアから手を離したが、なにも言わず表情も変わらない。何事もないように玄関で靴を脱いでいた。
 ……この男は、自分が来ることを期待していたのかもしれない。
 ポジティブなことを思いつきながら、夏紀は玄関ドアの内鍵をかけチェーンもつける。靴を脱いで彼の歩く道を辿るようにリビングへ入れば、志村が鞄をソファーに置いて振り返った。
「鍵、返してくれないか」
 想定していたとおりの台詞が響く。夏紀は大人しく、ブレザーのポケットから用意していた彼の鍵を取り出して見せた。
「今日はそれを返しにきたんです」
 手のひらに乗せた鍵を一瞬だけ見た志村は、それを取ることをしなかった。返してもらってももらわなくても一緒だとわかっているのかもしれない。夏紀はすでにこれの他に二本、自分用にこの家の合鍵を所持している。こうなると二本も三本も同じだ。
「自分の将来に、傷がつくようなことをしてもいいのか」
 手の代わりに出た言葉は、機械のように感情が抜けていた。能面のような表情で諭されて、夏紀は開いていた手を鍵ごと握る。欲情よりも先にイライラしたものが生まれはじめた。
 志村はひとつも動かない。動じない。
 夏紀に一度脅され犯され、これからまた脅されて犯されることになるというのに、彼は怯んでいなかった。この事態を先読みして助っ人を呼んでいるのか。夏紀の弱みでも握っているのか。
 しかし、夏紀には自信があった。志村の痴態を映した動画や写真はディスクに焼いている。自室のPCから世界中へすぐにでもバラまける脅迫材料があるのに加え、前回の脅し文句も引き続き有効であるはずだ。それに、先ほど用心して内鍵も二重にかけた。密室のようなここへ、助けに来られる者などいないはずだ。第一、男が男に犯されるほど他人に見られてキツイものはない。屈辱にもほどがある。
 ……そういえば、志村は露出好きの変態だった。
 夏紀は口許を持ち上げた。
「変態のあんたに、言われたくない」
「社会に出ている先輩として、言っているんだよ。こんなことは、もう止めたほうがいい」
 卑しい眼で見る夏紀に反して潔癖を装う静かな声は、苛立たせる以外になにも与えなかった。変態男がまともなことをほざいている。声も身体も震わせない志村にはなにかしらの自信があるのだろう。変態なのに自信なんてあるのか。ふざけている。
 だったら、その自尊心を屈したい。粉々になるまでぶっ壊せば、きっと満たされるはずなのだ。
「変態のくせして、なに言ってんだよ」
 この男を犯した夜が、目の前で重なろうとしていく。身体を組み敷いて犯して、あの夜の夏紀は気持ちよく熟睡できた。翌朝も幸福感が続いていた。あの感覚が欲しい。この男の身体から得られるものが恋しい。
 期待をまじえた半笑いのまま、夏紀は歩を進めて近づいた。




... back