* 水曜日【第15話】 *


 こんなものじゃ足らない。二人のようやく訪れた木曜日を壊しても、夏紀の不満は水ぶくれのように広がっていく。
 この家の玄関ドアを開けたときは、とてもウキウキしていたはずだ。美加子を追い出してたまらなく気分が良くなった。しかし、今は大好きな則之の身体を触れば触るほど、犯せば犯すほどえたいの知れない不穏なものが滲んでくる。
 外に出たいと思った。夏紀は横たわる下半身を見ながら、下着とパンツを履き直す。そしてそばにあるキャビネットを開けに行った。戸をスライドさせてボックスを取り出す。中には性玩具が詰まっている。一番手前にあった細いローターを手にした。
 デニムパンツを半分ずり下げて無防備なままの彼の尻を片手で広げる。穴から白い液体が漏れている。柔らかく息をするそこに、夏紀は躊躇いなくローターを突っ込んだ。則之が異変に気づいて身体を動かそうとする。尻尾のように垂れたコードの先にあるスイッチを押せば、抵抗よりもふるえが起きた。彼が意図に気づいても遅い。
「は、あッ! や、だッ!」
 かすかに中で振動する音が聞こえる。夏紀は彼のデニムを力づくで引き上げて着なおさせた。
「ふざけ、……い、や、漏れ」
「漏らすなよ。ほら、立てって。さっき外に出る話しただろ」
「そと、いっ、いやだッ」
 表情を歪ませる。強い拒否に、夏紀もムキになった。
「美加子さんに、映像流してもいいんですか」
 その一言だけで、彼は磔にされたように身体を硬直させる。
「メルアドも番号も知ってるんで、今から送ってもいいんですよ。それが嫌なら外へ出てください」
 くちびるを噛んだ男は、この仕打ちにも首を横に振った。露出狂なのに、夏紀と一緒にローターを入れたまま外へ出るのを拒むとは何事か。イライラしながら、もう一度あの女にハメ撮り画像を送るのか、外へ出るのか、どちらかを選ばせる。彼は首を横にもう一度振った。ローターの振動で身体がふるえていても、心は頑なだ。仕方なく夏紀は行き先を提示した。
「コンビニへ行くくらいなら、いいだろ。すぐ帰ってきてやるから」
 往復だけだ、昼食を買うだけだと伝える。これで則之が納得しなければ強硬手段に出よう……そう思いながら、立ち上がるよう命令した。則之は時間こそかけたものの、ふるえる身体を起こして立ちあがった。顔は俯いている。デニムパンツから出たコードの先にはリモコンを掴む夏紀の手がある。まるで局部に拘束輪を嵌められた飼い犬のようだ。
 よぼついた変な歩き方をする彼は、中の体液とローターがこぼれるのを耐えようとしているためか。リモコンを彼の後ろポケットにおさめ、背へ銃を突きつけるように、彼の腰に手を添えて歩調にあわせる。廊下を歩き玄関に着くと、二人は靴を履いてドアを押した。
 すでに美加子の姿はない。あの女がまだ残っていればおもしろかったのに、と思いながら、夏紀は素早くドアを閉めて鍵をかける。則之はローターを入れた以外は手ぶらそのものだ。夏紀がいないと自宅へ入ることすら出来なくなった。
「露出癖なのに外に出るのを嫌がるって、あんたも大概おかしいよな」
 夏紀のつぶやきに、彼は項垂れたまま反応しない。腰から手を離すと、すぐに則之は後ろへ手をやった。ポケットにあったバイブ機能をストップする。そのやり取りをしているだけでもイラッとする。でも、振動がなくなったとしても歩行だけでも快感は得るはずだ。
 とっとと猥褻な身体をレジの前に立たせたい。腕をつかまえて、夏紀はコンビニエンスストアへ直行した。彼は耐えるような表情のまま、エントランスを過ぎて小雨の降る公道を横切った。
 店内へ入ると不自然な歩き方を止め、自動ドアそばの雑誌コーナーで動かなくなる。頬は少し紅潮している。そんな彼を放って夏紀は商品探しをはじめた。どうせ監視しなくても、無一文で家の鍵すら持っていない変態が、どこかへ逃げることなどできないのだ。
 昼前の住宅街にあるコンビニエンスストアのせいか、客は夏紀と則之ともう一人しかいない。夏紀はぐるりとまわってコンドームを一箱取った。飲み物にしようと思っていたが、こちらのほうがよりプレイらしくていい。後ろポケットにある定期入れから千円札を出して、則之のところへ戻る。
「これ、買って来いよ」
 渡されたものを則之は躊躇いもせずレジへ持っていった。男二人で、コンドーム一箱。明らかに店員は怪しんでいるのだろう。しかし、則之自身は余裕がないのか、店員の手元を一点見つめたままだ。夏紀は対面する二人の様子がおもしろかった。店員がこちらへ顔を向けてくるより先に店内を出ると、ほどなく則之があらわれる。コンドームの入ったレジ袋を持って、夏紀を見向きもせず通りすぎた。夏紀は無視する変態の一歩後ろを追った。マンションのエントランスを抜ける。
 エレベーターの前で、則之は立ち止まらざるを得なくなった。ボタンを押して扉を開くのを待つ背後から、夏紀は彼の股に手を差し込んで股間を掴んだ。
「んっ! やめ、ろ!」
 ねじって逃れようとする。
「声響きますよ。ほら来た」
 エレベーターの扉が開いた。無理な体勢のまま則之を押し込む。箱の壁に彼の身体を挟んで、デニム越しにぐっちょりした中の具合を確認する。
「けっこう濡れてますね」
 揉むと生地の濡れるところが増えていく。則之は手首を噛んで耐えていた。箱の中に防犯カメラがあると知っているのだろう。ボタンを押していないことに気づいて、5の数字を押す。エレベーターが動いている間に夏紀の手はますます湿る。扉が開かれると同時に彼から手を離すと、則之は一心不乱に自宅を目指した。しかし、肝心の鍵は夏紀しか持っていないのだ。
 のんびりやって来た夏紀を、待っていた則之が恨めしくにらんだ。潤んでいる瞳がたまらない。
「俺が開けてあげるにあたって、ひとつやってほしいことがあるんですけど」
「……」
 聞きたくない、という表情だ。だから、諭すように言ってのけた。
「ここで漏らしてください」
「……出ない」
 彼は屈辱に耐えるような顔を隠して、生理的にできないようなニュアンスをこめる。脅迫以外の言葉責めはあまり効果がないのだ。そうわかっていても、夏紀は子どものように繰り返した。
「出してください」
「っ、嫌だ」
「じゃあ、ずっとこのままですね」
 簡潔な押し問答を重ねた後の沈黙から、奥で物音が響く。三つ向こうのドアが開いたのだ。則之がびくっと身体をふるわせた。夏紀はドアを開けた住人を見やる。若い女性は二人のプレイに気づかず、エレベーターのほうへ歩いていった。
「ほら早く、またひとが来ますよ」
 好都合な闖入者を目で見送って、夏紀はそう言いながら彼の股の間に手を差し入れた。デニムはねばつくように湿っていて、少し冷たい。
「触っててあげますから」
 無抵抗の彼に期待した。ほどなく、じわっとあたたかく生地が濡れてくる。則之が漏らしてはじめたのだ。
「出てる」
「も、……はやく、」
 現状すべてが耐えられないという則之の顔を見ながら、夏紀はもったいぶって鍵を差し込んだ。扉は則之が勢いよく開けた。風呂場へ素早く脚を向ける彼を追って下半身を丸裸にさせ、ローターを抜く代わりにプレイルームへ連行する。彼の性器は、強要された変態行為に軽く勃起していた。その残念な性癖に夏紀は胸が熱くなった。
「口では嫌がるくせに勃たせてんなよ、ド変態」
 言葉で蔑みながら、その変態の身体に思うさま己を突っ込んだ。則之は自宅に帰れた安心感か夏紀から逃れられない諦めか無抵抗だ。気力をなくしたまま、覆いかぶさって乱暴に揺らす若い男の快楽に身を委ねる。
「ん、ぁ、……あ、……ぁあ、っ、あ、あ、っふ、あ、ん!」
 感じているような喘ぎ声。ビクビクと前から精を吐く彼の瞳は、とうに快楽以外なにも映していないようだった。夏紀は白濁を全部則之の中におさめてから、ずるっと引き抜く。達成した行為に息をついて静止した。
 そこには確かに快楽があった。征服感もあった。羞恥プレイに気持ちが高ぶった。犯してすっきりして、それで良いではないか。
 夏紀の身体の下で、散々弄んだ男が虚ろな瞳をしている。自分を映さずに目を見開いている。その虚無感。
 欲望が空になった夏紀の心へ、現実が一気になだれ込んだ。
 楽しいのはいつも一瞬だ。セックスの最中だけだ。それがないと、夏紀の手元にはなにも残らない。どれだけ蹂躙しても、彼は自分のものにはならない。
 ……あの女のように。則之と心から寄り添う関係にはなれない。
 普通。ノンケ。帰れ。やめろ。嫌だ。夏紀を否定する単語が次々と頭の中を覆っていく。身体はこんなにつながっていても、心は完全に塞がれている。その疎外感が夏紀の身体を竦ませた。呆然としたように、体液に塗れた則之を見下ろした。
 何年も聴き慣れた音が、窓の外からわずかに伝わり、そばに学校があることを思い出した。聴こえてくるのは栖鳳学園のチャイムだ。まるで自分と則之の立場の違いを明確にするようで、その単調な音を夏紀は激しく憎んだ。立ち上がって窓を開ける。清浄な空気が二人の仲を裂く。曇り空の手前には屋上があった。
 すべては、あそこにある屋上からはじまったのだ。
 夏紀は唐突に身体を動かした。
 素早く服を着付けると、彼は則之を置いて家から離れた。
 わけのわからないものに背を押されて糸のような雨の中を走る。
 学校の正門が見えると、夏紀は我に返ってポケットを探る。意識なく携帯電話を持ってきていた自分を褒めながら、則之へ電話する。回線は一瞬で受け入れられた。あの変態は誰かに助けを求めているかもしれない。でも今は詰問する気になれない。一方的な要求だけ伝えた。
「その部屋にいろよ!」
 了解を聞くことなく電話を切った。私服のまま栖鳳学園の敷地へ入る。狂気の沙汰ではない。そう理性が訴える。それでも夏紀は欲求を満たすことに一途となった。校舎に忍び込む。授業中なのか、余計な気をつかうことなく屋上へ上がることができた。
 暗渠のような階段から光差すドアを開ける。則之の肉体を得て以来、ここを訪れてはいなかった。単純に来る必要がなかったからだ。
 久しぶりに辿り着いた場所は小雨が降っていた。夏紀は濡れるのもかまわず、志村家を覗くポイントに立つ。ここから彼を探した。そして、改めて気づく。
 ……はじめは、こんなにも遠かったのか。
 あの窓の先に人がいるのが見えた。則之だ。下半身裸の男が、あの窓を超えて夏紀を捉えようとしている。立ってこちらを眺めているのがわかる。きっと彼の視界にも屋上の人間が映っただろう。そうして、則之はようやく夏紀との一方的な出会いの状況を知ったわけだ。
 二人の身体は、今や日を置かず密接な距離でくっついたり離れたりを繰り返している。しかし、二人の心の距離は屋上からあの窓までとあまり変わりがないようだった。二人は物質的に近づいただけ。ただそれだけだ。その実感が夏紀を現実へ乱暴に引き戻す。
 鼻につくにおいが気になった。異常なプレイで両手がひどく汚れている。纏わりつく孤独は、こんなすえた匂いがするのかもしれない。
 吐き気がして、夏紀は屋上を離れた。最上階のトイレで手と腕を念入りに洗う。水の冷たさで心も冷えていくようだ。寒い。則之の家に帰りたい。夏紀はあの場所へ帰らなければならなかった。心を温められるものがあるのは、きっとあそこにしかない。
 誰にも気づかれないよう気を配りながら、一階まで降りて学校を脱出した。途切れない雨の糸を撥ね退けるように走る。
 マンションのエレベーターに乗ると、則之が内錠をかけているかもしれないという不安が襲った。ほんの数十分前は、則之をこの箱の中で制圧していた。それなのに、今はどうだ。エレベーターの中で、自分はチェーンをかけられて締め出されることに怯えている。
 夏紀は五階に着くと一心不乱に彼の家を目指した。玄関のドアノブを一思いに引く。扉は呆気なく開いた。鍵はかけられていなかった。許された。そう思ったのもつかの間、自分が画像や動画で散々彼を脅していることを思い出した。
 風呂場から水音がしている。則之が汚された身体を洗っているのだろう。直腸に留まる体液を則之は嫌がって、セックスの後は風呂場へ逃げることが多い。いつもはそれを邪魔しているが、今の夏紀にその気力はなかった。
 よろよろとリビングに辿り着いてソファーに座る。
 ……自分は、一体なにをしているのか。
 自問自答したところで虚しいだけだ。虚しさが募るだけだ。
 そばのローテーブルには、ビニール袋が無造作に置かれている。中身は先刻買わせたコンドームだ。お釣りも中に入っているのだろう。思い出の残骸だ。時間感覚を失ったまま見つめていると、廊下から足音が聞こえてきた。




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