* 水曜日【第17話】 * |
ローテーブルに薄水色の成績表を置いた。社会に出て早数年、現役男子高校生の通知表を見るというのも不思議なことだ。則之が高校を卒業したのはおよそ一〇年前、周囲で学校へ行っているのなんて親戚や早々結婚した友人の子くらいしかいない。学校というカテゴリーを卒業してから、学生との接点はこれまで一度もなかった。 それが今はどうだ。三ヵ月前の自分には想像がつかなかった日々が呆気なく日常として組み込まれている。ひとつひとつが忘れられない。身体に刻まれる嵐のような濃厚な時間だ。 そこの窓から栖鳳学園の屋上が、少しだけ見える。この前、あそこから則之の痴態を覗いていた経緯を夏紀が模倣してくれた。創り上げられた接点は、それぞれの偶然と夏紀の執着心が成し得たものだ。それを今も則之は完全に拒絶できていない。 則之はソファーに深く座りなおして目を閉じた。5段階評価のオール5。トップレベルの大学へ行ける私立の進学校で、この成績ならば紛れもなく夏紀は秀才だ。猛勉強をしているような素振りは一切ないから、生まれつき頭がいいのだろう。 三日前に、一学期の成績は大丈夫だったのか、と、訊いていた自分がバカらしかった。今朝わざわざ栖鳳学園の通知表を持ってきてくれて、夏紀が鼻で笑っていた理由がよくわかった。 彼は頻繁に遅刻や欠席を繰り返しているようだが、特に咎められることなく高校最後の夏休みをはじめたようだ。夏休み。その響きに則之は違和感を覚える。自分も歳をとったものだ、と素直に思うより、なぜそんな大学受験を控えた一〇代のご優秀なお金持ち学生がこの家にいるのか、と不思議に思う。 一〇歳の年齢差は大きい。数日前に夏紀は弟が一人いることを話していた。彼の弟はまだ幼く、小学二年生なのだという。つまり、夏紀と弟の歳の差は、則之と夏紀の年齢差と同等だったのだ。夏紀自身も会話の中でそのことに気づいたらしく、渋い眼で一瞬沈黙していた。 ……でも、私服のときは高校生に見えないからなあ。 あのときはしなかったフォローを心の中で入れつつ、則之はリモコンを取ってテレビをつける。時刻は正午へ向かおうとしている最中で、天気を伝えるチャンネルばかりだ。ここより数百キロ離れた土地の空が映っている。則之は消音にして、天気予報の風景を眺めた。空は青い。リビングから見える空も青い。関東以南の梅雨明けがすでに発表されていた。 エアコンの効いたリビングで、ゆっくり深呼吸をする。身体は昼時にもかかわらずだるい。少し動くだけで、しつこく舐められたところが服にこすれてひりひりする。遠くでかすかに水音がしているような気もする。夏紀はまだ風呂場から出てこない。 夏休みになってはじめての水曜日である今日は、彼が早朝からこの家に訪れていた。私服ではあったものの、夏紀はまるで学校へ登校するような時刻に則之の家へやってきて、授業を受けるようにプレイルームへ則之を連れ込んだ。いろんな小道具を使いながら互いの肉体を密着させて動かす。気温が上昇すると、窓を全開にしていた部屋を離れて風呂場に行き着いた。夏紀とのセックスはスポーツに近い。授業でいうなら、間違いなく体育あたりになるだろう。 襲ってくる睡魔を振り払うべくどうでもいいことを考えながら、通知表の数字を思い出す。そういえば体育の評価も5だった。栖鳳学園に通う前は合気道もやっていたと話していたし、文字どおり夏紀は文武両道、才色兼備の学生である。大会社のご子息らしいから将来は超有望だ。 ニュースから次の番組へ切り替わるのを見つめる。できるものなら消音を戻したいが、夏紀はテレビが大嫌いだ。それにうとうと寝ていようものなら、彼が戻ってきたときに「俺がいるのに寝るな」、「まだ昼ですよ、寝るより昼食でしょう」と命令と敬語を交互に繰り出すに違いなかった。ちゃんと寝られるのは、夜以降だろう。 則之は細い身体ながら、それなりに持久性のある筋力を持っている。でも、一〇代という彼の若さと精力的なしつこさを受け止め続ける力はない。夏紀の性欲は、付き合ってみるとまるで底がないように思える。貪りつくようなセックスをするのだ。濃い情交は体力消耗が激しかった。 それでも、一寝入りすればたちまち自分が元気になることを則之はよく知っていた。悔しいが、快感が激しいほど、後でぐっすり眠れる。どんなに悩んでいることがあっても、夏紀に犯されて眠ると、起床時はスコンと気持ちが晴れていた。はじめの頃は鬱積と背徳感ばかり際立っていたのに、この二ヶ月半くらいですっかり慣れてしまった。 もう、認めなければならない。 則之にとって、性癖と欲を満たす点で夏紀はとても上質な相手だった。目下一番に則之の頭を悩ませるべき問題は、この高校生との爛れた関係である。にもかかわらず、いざ彼に求められるとどうでもよくなってしまうのだ。翻弄されるがまま委ねてしまって、なにも考えられなくなって彼の身体にただ溺れる。欲するのは痴情と熱と体液で、思考も情も世間体も必要なかった。なにも考えないほうがより深く溺れられる。 後は夏紀が自宅へ帰ってくれるか、自分が眠ってしまえばいい。そして、夏紀がいないときは一人身の自由を満喫しながら、恋人の美加子に連絡する。 ……そうだ。今のうちに、美加ちゃんに返事をしないと。 夏紀がいない間にすべきことを思い出して、ローテーブルに投げ出してあるスマートフォンを緩慢に取った。パスワードは先月夏紀に知られてしまって、別のものに登録しなおしている。しかし、もうそんなことをしても無駄なような気もしていた。夏紀はすでに欲しい情報を手に入れているのだ。 今のところ彼は美加子について黙認の姿勢を続けるようだ。なにかあればまた夏紀は悪さをするのかもしれないが、則之がうまくやっていければ波風は立たない。そう信じたいが……則之自身も昨夜、個人的に受けた一件で、彼女へ連絡ことに躊躇いがでてきている。起床時に目にした通知を、しばし既読無視したのもそのせいだ。 今朝、彼女から届いた内容はいつもの調子だった。しかし、則之は紡ぐべき言葉を真剣に考えた。最近は自分も仕事が特別忙しいという設定になっているから、そういったつじつまの合う文面で会いたい想いを伝えながら日程を先延ばしにするという、高度な文章をつくらなければならなかった。恋人相手に妙な嘘をつくのは良くないが、そうでもしないと綱渡りのようになってきている人間関係に均衡ははかれない。それも、昨夜の今日だ。より慎重にならなければならなかった。 昨夜は夏紀が泊まりに来る予定だった。それが彼の家庭の事情であっさり反故された。我を通す夏紀にしては珍しいことで、本人も行けなくなったことが恨めしいという内容を送ってきていた。クールを装っていることが多い彼であるが、一〇歳年上の則之からすれば、青春の域を脱していない夏紀の感情の若さは妙に疲れるところもあり、ムズムズするものもある。複雑なところだ。 自由になった昨日の夜は、仕事上がりに誘われるまま同僚と飲みに行った。帰宅は零時前。平和な休前日を則之が満喫したかというと、そうでもなかった。 こんなことになるなら、いっそ夏紀に無理にでも泊まってもらったほうがよかったかもしれない。そんなことを思ってしまう自分がいる。泊まってくれれば夏紀にかまうことで忙しく、慶介からの電話を取らなかったはずだからだ。 端辺慶介。則之が大学時代に同じサークルで知り合って、今も付き合いのある友人の一人だ。性癖に難のある則之からすれば、まったくもって「普通」の数少ない友人である。彼と知り合った前後に則之は男色の世界へ本格的に迷い込んでしまったわけだが、ノーマルな慶介はいまだなにも知らないし気づいていない。性癖や変態という言葉とは無縁の人種なのだ。則之は密かに慶介を、世間一般の男性像の指標に位置づけていた。 そんな彼から電話が来たとき、なんの用なのかすぐにわかってアルコールの酔いから一気に醒めた。出たくなかったが、電話に出ないわけにはいかなかった。お節介なところがある彼は、身内であるほど親身に接してくる。似たようなタイプにセックスフレンドの兼次がいるが、あちらよりも自分のコミュニティーにたいしての意識が強い。 それに慶介は交友関係が広い男だ。則之に美加子を紹介したのも慶介だった。慶介の恋人が美加子の親友であり、四人で一緒に食事をしたことがきっかけではじまったようなものだ。美加子はなぜか初対面から則之を気に入ってくれて、グループ交際のような間柄を経て今の恋人同士になったのである。慶介とは大学時代より会う回数が減っているものの、美加子と付き合うことによって彼との関係性はより深いものとなった。 これで、則之がただ単に「普通」の人間であれば、平穏にこの交際を続けられたのだろう。則之も「普通」になろうと日々努力をしているわけだが、最近はその努力と間逆の様相を見せており、今の状況であのコミュニティーは地雷に近かった。則之は平静を装いながら、戦々恐々として彼の話を聞いた。 昨夜、慶介が電話してきた用件はやはり美加子のことだった。美加子が慶介の彼女に「最近ノリくんと会ってない、彼がつれない」と、愚痴のような相談を吐露していたというのだ。今までは次に会う約束をすぐにつくってくれた、彼の家へ行くことが当たり前だったのに最近は先延ばしにする傾向がある、倦怠期にはいったのかもしれない。そんなふうな話をしていたらしい。 親友の恋愛相談に心配した恋人は、彼氏である慶介に則之の心情を訊いてほしいと頼んできた。女が好んでやりそうな探り方だ。則之はそれが嫌いではないが、面倒に思う。慶介は身内の女に特別甘い。真面目な性格も手伝って、恋人の頼みどおり電話してきたようだ。 『則之、最近ミカちゃんにちゃんと会ってんのか?』 浮気という行為を極端に軽蔑する慶介は、訝しがるようにそう訊いてきた。則之の貞操の低さを彼はまったく知らない。今の状態がバレれば、なにが起こるかわからない。則之は努めて「普通」を演じた。則之にとって「普通」は理想だ。自分でも、貞操の低さと難儀な性癖にはうんざりしているのだ。 『先週、美加ちゃんと会って一緒に食事してるよ』 則之は、偽りのない事実だけを伝えた。SNSでもほぼ毎日やり取りしている。これも事実だ。慶介はそれで多少安心したようだが、彼女を不安にさせたり心配させたりするんじゃねえぞ、と、お節介な彼らしい忠告をされた。そして仕事を中心とした近況報告を少し続けて回線は途切れた。夏紀と接しているのとはまた違う疲労感に襲われ、寝付くのに時間がかかった。 夏紀にデートの邪魔をされた日から、まだ美加子と一度しか会っていない。それも、あの日の埋め合わせのために早々に則之がプランニングしたものだ。恋人に会いたいというより、会わないとマズイという後ろ向きな気持ちでセッティングしたデートだった。夏紀の動向を考慮しながら平日の夜、お洒落なフレンチを選んだ。そして、苦肉の策で夏紀の嘘に加担した。 仕事が忙しくてこの夏は会いにくいだろうという口実は、かなり効き目があった。ドタキャンについては拗ねられて叱られたが、比較的素直なところがある美加子は全面的に信用してくれた。そこにくすぶる不安や不満は見えなかった。 逆に、美加子は若い夏紀に興味をもったような発言すらしていた。話題のひとつになんとなくあげたのかもしれないが、どういう名前なのか、なにをしている子なのかと訊いてくるから、浅宮夏紀といって仕事で知り合った学生さんだ、とぼやかすように彼のことを話した。美加子いわく、夏紀は周りが騒ぎそうなイケメンだという。肌がピチピチしていて目の保養だなどとのんきに言っていた。則之の胸は痛んだが、それよりも夏紀との関係を怪しまれず性癖もバレていないことに安堵した。 美加子には一生性癖を隠すつもりで交際している。自分自身もこの性癖と決別する努力をずっと続けてきたのだ。しかし、夏紀にすべては覆された。 脅迫という卑劣なやり方で関係をこじつけてきた男子高校生。美加子との関係にまで、手を出そうとしてきている。今回はどうにか丸くおさめられそうだからいいが、同じようなことをもう一度すれば、則之も本気で彼のことを考えなければならない。現に美加子も則之の様子を訝しがっているのだ。 ……本当は今すぐにでも、夏紀の関係についてどうにかしないといけないんだろうけど。 息をつきながら則之は目を閉じた。実のところ、手段を選ばなければ今すぐにでも則之のほうから手を切ることはできるのだ。夏紀は毒だ。危険な甘い毒だ。何度も理性は訴えた。彼の性処理係に徹する愚かさを何度も恥じた。しかし、抵抗するにはあまりに魅力のある若い身体だった。 則之は、雄の肉体を求めてしまう自分の本能を憎んだ。夏紀と関係をつないだはじめの二週間くらいは考えて悩んで、その挙句虚しくなったり絶望したりもした。でも、彼に求められると結果的に拒めない。ずるずると今朝も肉欲をつないだ。 夏紀には一〇代にしか存在しない若さと瑞々しさがある。強い性衝動とスタミナがある。雄のたまらないにおいがする。それらが眩しすぎてときどき胸が痛む。女より男の身体のほうが好きな自分を思い知らされる。 それ以上に、理想的な肉体をもつ男が自分の身体に執着しているという事実は歓喜を与えていた。則之がここまで「普通」に固執していなければ、これは則之のユートピアそのものだった。しかし、それは無理だ。「普通」になりたいと願う則之には受け入れ難い。 ……第一、どうして夏紀が自分を気に入ってしまったのかわからない。 則之のアンテナでは、夏紀は慶介たちと同じようにノーマルだと言っている。そもそも夏紀は女体しか愛せないはずなのだ。 その一方で、性癖的な部分で噛みあっていること関しては否定できない。肌を幾度も合わせているからわかる。セックスの相性がいいというのは、則之にとって夏紀を完全に拒めない最大の理由だ。単純に相性がいいより、性癖が一致するほどタチの悪いものはない。それは難儀な性癖であればあるほどタチが悪かった。 則之は彼のやり方が好きだった。屈辱的なプレイも結果的にエクスタシーを感じられる。則之ですら苦しくて引いてしまいそうなギリギリのところで、彼は美味しいことをしてくれる。そんな夏紀自身も、則之の身体を心から楽しそうに扱ってくれる。 則之が辛そうな表情を見せると、それに悦楽と疲労のどちらが色濃く混ざっているか見定められるようにもなった。若者の衝動は則之の気持ちにかまっていられないときもあるが、この半月くらいは則之がセックスに惰性を見せる寸前で身体を故意に離している。または場所を移動してセックスするようになった。 夏紀の意識の変わり方を、則之は静かに受け止めていた。 きっかけは、美加子との仲を邪魔しにきたときで間違いない。約二ヶ月ぶりのデートを夏紀にぶち壊されて、則之もさすがに堪忍袋の緒が切れた。……しかし、その後に持ち込まれたセックスと夏紀の迷走のような行動で、今や怒りの感情はするりと抜け落ちてしまっている。夏紀に妨害されたことはすでに過去のことで、起きてしまったことは仕方ないのだ。美加子にも夏紀との関係を怪しまれていないからいい。 どうあれ、あのできごとを境に変わったのは則之と美加子の関係ではなく夏紀自身だった。そして、その経緯を見ることになった則之にも気持ちの変化が生まれた。あの日、一番印象的だったのは夏紀の涙だ。忘れもしない。 彼がなぜ泣いたのか、則之は今もわからない。あの日の夏紀は目に見えて混乱しているようだったから、彼自身もどうして涙がでたのかわかっていないのだろう。しかし、あれを経て明らかに夏紀の様子が変わりはじめた。 まず、彼が自分自身のことを語るようになった。うわべだけの日常会話ではなく、則之に知って欲しいように自分の生い立ちや生活環境を話す。セックス以外では沈黙の多かった情景に色が添えられ、肉体だけの関係ではなくなってきた。そうなってきたのも、聞き手役となる則之が彼にたいして聞く耳をもつようになった点にあるだろう。 脅迫されレイプされてはじまった関係だが、それが何度も続けば単なるシチュエーションの一環のようになる。自分の役割も夏紀の性処理係だと受け止めると、気持ちも楽だ。その役に徹すればいいが、……やはり慣れてくると、妙にそれだけでは虚しくなってくる。そうしたときに、夏紀の心情の変化があらわれたのだ。自身のバックグラウンドを話しはじめたことは則之にとってちょっぴり慰めになった。単に身体だけの扱いではなく、則之の人格的な部分も認めてくれたように感じたからだ。 そして、則之のほうも、ただ恵まれたお金持ちのお坊ちゃんだと思っていた夏紀の新たな部分を発見することになった。語られる彼の周りの環境を聞いて、少し同情心も芽生えてしまった。今はもう、あまり彼のことを悪く言えない。 先週の彼は、定期試験や家族行事があったらしく二日しか家に訪れなかった。家族や学校のせいで会えなかったという愚痴を聞くと、夏紀も立派に高校生をしているんだなと、則之も妙に笑えてくる。 夏紀がそうして真面目な高校生をしている少しの間、則之も美加子とは別に会わなければならないもうひとりの人物に会っていた。 セックスフレンドで古い友人でもある、西條兼次だ。彼と会う予定は五月末からずっと先延ばしにしていた。無論、兼次に夏紀のことを知られたくないからだ。夏紀に兼次のことを詮索されても面倒だ。それに夏紀と関係を持ってからというもの、則之の肉体は男日照りにならなくなった。兼次とセックスをする必要もなくなったのだ。そのため彼から連絡が来るごとに、仕事が忙しいとか体調が悪いとか、その日は美加子と会う日だとか、理由をつけてのらりくらりとアポイントをかわしていた。 しかし、さすがに二ヶ月そんなやり口を続けていれば、兼次から「なにかおかしい」と勘ぐられる。則之は致し方なく兼次に糾弾される前に、友人というくくりで一度会うことにした。夏紀に兼次を会ったことがバレても面倒なので、夏休みがはじまる直前に居酒屋を指定して会うことにしたのだが、……結局は彼に押し切られて自宅で二次会をすることになり、成り行きでペッティングしてしまった。兼次は則之の貞操の低さをよく知っている。則之も彼と会えば薄々こうなるだろうと予期していたから、二ヶ月も避けていたのだ。 そして危惧していたとおり、翌々日それが夏紀にバレた。兼次とは挿入まで至らなかったと弁解したにも関わらず、その夜は終始不機嫌だった。セックスで報復され、いろんなことを強要された。そのときに油性ペンで書かれた卑猥な単語の数々は、今もまだ皮膚の上に薄く残っている。先刻も汚れた羅列を撫でながら、夏紀に散々言葉責めされたのだ。彼はまだ根に持っているのだろう。 思い出すだけでも十分疲れる話だが、それより兼次が則之の身体の異変に気づいたことのほうが恐かった。則之の素肌に触れた兼次いわく、この前触ったときより身体つきが良くなったというのだ。感度や仕草、行為に色がついたというより、質感レベルで良くなったとのことらしい。常に男にたいして受身である自分には意味がわからないニュアンスだったが、兼次とは何年も肉体的な付き合いがある。則之の変化には、本人以上に早く気づけたのだろう。 とりあえず不自然にならないよう笑って、気のせいだよ、自慰行為のレベルが上がってそうなったのではないか、と、そんな適当な返答をしておいた。決して、夏紀の存在は見せないように気をつかった。兼次も軽い口調で言っていたのだから、いつものリップサービスだろう。たぶんバレていないはずだ。 また、則之にはセックスフレンドの男がもうひとりいる。元恋人関係にあった馨である。兼次との火遊びを露見した夏紀は、ついで馨とも同じようにこっそり会っていたのか、ときつい剣幕で問いただされた。それについては、誓って会っていない、と則之は胸をはって答えることができた。馨がカレシだったのは美加子と出会う二年も前の話で、今会うことがあっても半年に一度くらいのペースである。そもそもこちらから元カレに連絡することはなく、馨が気まぐれに連絡してくるから会う関係だ。馨は猫のような性質だし、久しぶりに会った四月のときに本命ができたことを本人から聞いている。 情報通の兼次から耳にした追加情報によると、馨は新しいカレシと長期バカンスに行っているらしい。スペインとかなんとか、どういう類の男をつかまえたか知らないが、……則之はそれはそれでよかったと思う。心配事がひとつ減った。 そういえば、美加子と食事をしたときにスペインという国の名を聞いた気がする。美加子の職場の同僚が結婚したらしく、新婚旅行がスペインのバルセロナで羨ましい、本場のスペイン料理を食べ歩きしたい、と美加子は言っていた。近年カップルに人気がある海外先なのだろうか。 ふと、昨夜の電話で慶介が結婚をほのめかすような発言をしていたことも思い出して、則之はなんともいえない気分になった。 ……早く、美加ちゃんへ連絡しないと。 心の中でつぶやきながら手元を見る。その拍子に画面が切り替わった。タイミングのいい振動に、則之はビクッと身体をふるわせる。 着信相手を確認すると、母親からだった。胸を撫で下ろして画面をタッチした。 |
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