* 手の中のひかり【第2話】 * |
「そういや今日も、合澤見てなくないか? 昨日は? 講義にもいなかったよな?」 右隣に座る村尾の声に、くわえていたストローを抜く。甘さが欲しくて飲み干したコーヒー牛乳は、思っていた以上に甘かった。変な後味に顔をしかめながら、三池は答えた。 「火曜まで用があって休むってよ。今日は来るって聞いてたけど」 確かにまだ来てないよなあ。 そこまでつぶやいて、手元にあるスマートフォンの動きを眺めた。先週末、父親が入院したことで合澤は帰郷した。こちらにまた戻ってくるときはメールするという話だったが、連絡はいまだ来ない。 三池は、少し心配していた。 頼まれた分の講座は手伝えるかぎり寝ずにノートも取ったし、合澤分の出席もこっそりチェックできるものはした。来ると言っていたはずの今日の分も、三池は自主的に代理出席を取ってあげた。自分が大学を離れるまでに合澤から連絡がなければ、こちらからメールを送るつもりだ。 「へえ。ちゃんと受けてるやつが珍しいな」 「そうか? たまに休んでるときあんじゃん」 「でもそういうのって、あいつの場合バイトで頼まれて仕方なく、とかだろ」 居所が不明になっている合澤の話に、残りの二人が加わる。テーブルを三池含め四人で囲い、暇を持て余していた。普段、水曜日のこの時間は三池の受講時間だ。カフェテリアで友人たちと井戸端会議をしている場合ではないが、今日は迷わず友人たちと次の講義を待つことにしていた。 サボりではなく、今回も不可抗力だ。定年直前の准教授が受け持つ講座が、またしても自主学習だったのだ。今回は学会のための休講らしく、来週からはちゃんと授業する旨がE棟の掲示板に張られていた。文明の機器を使わず、E棟に行かなければ開講しているのかわからないというのも性質が悪い講座だ。三回目でここまで振り回されるくらいならば、いっそこのまま単位を落としてもかまわない境地にまで至っている。 まあ、先週も休講じゃなけりゃ、今頃合澤の状況すらわからなかったってことだからいいけどさ。 三池はスマートフォンを取り出して息をつく。左隣の沼田がその様子を見て問いかけた。 「ミイちゃん、合澤にメールした?」 「いや、まだしてねえ」 「してみろよ。メールならいつか返事来るだろ」 向かいの柳瀬が、ペットボトルの蓋を開けながら言えば、頬杖をついた村尾がつぶやいた。 「ほんと律儀だもんなー、あいつ」 「そうそう。合澤って、ひとのいいところあるからなあ。言われるままノート見せたりとか」 「柳瀬にノートとかコピーさせてって頼んだら、なにかおごれとか言うよな絶対」 「あたりまえだろ。書いてないやつが悪いんだよ」 「さすが非情! どうよ、ミイちゃん」 「専攻コースが柳瀬と一緒じゃなくてよかったぜ」 「おまえは合澤と一緒だもんな。ミイちゃんすっかり甘ったれになってんなー」 「合澤に、これ以上三池甘やかすなって言わねえとな」 「なんだよそれ。今回、合澤に頼まれてノートとかけっこう取ってんだよ」 向かいに座る友人をにらむ。友人内で最も背の高い柳瀬は、信じておらず手を出した。 「じゃ、合澤に渡す前に、俺が確認してやる」 「なんで上から目線なんだよ。見せるかよ」 「興味ない必修、ほとんどぼーっとしてるもんなおまえ」 かくいう村尾も合澤と同じ講義を受けているときは、彼を頼みの綱にしているのだ。三池が眉を寄せれば、柳瀬と沼田が低レベルと言わんばかりの顔をして口を開いた。 「村尾、そりゃどっちもどっちだろ」 「レベル低いなあ」 「おい、待てよ。俺は好きな講義はちゃんと受けてんだよ」 「三池の場合、所詮好きな講義は、だろ」 言葉が巧く抜け目のない柳瀬に言われ、黙っていた村尾は被害を免れたという表情をする。三池は目を眇めた。二年近くつるんでいると、それぞれの性格に見合ったポジションが固定化してくる。 特に五人の中で、自分の好き嫌いで人を動かすのは三池だ。講義の受け方や偏食なところからも好き嫌いははっきりしていて、友人たちによく呆れられ、からかわれる。三池自身も直そうという気はあるが、実践に結びついていなかった。物を忘れたり遅刻をしたり、三池の奔放なところを一番サポートしてくれるのは、柳瀬の言うとおり合澤かもしれなかった。 次に比較的やさしいというか、話題の調停役をしてくれるのが沼田だ。彼は合澤と同じく一人暮らしをしており、宅飲みで場を提供する係でもある。村尾は三池にとって合澤の次に受けている授業が同じで、柳瀬は友人たちの中で目印になるくらい背が高くかなりの情報通である。彼は三池が現状振り回されている水曜午後の講義について、約一ヶ月前の講座選択時から「お薦めできない」と、三池に助言していたほどだ。それを振り切った三池は、その講義が休講するたび柳瀬に「俺の言ったとおりだろ。だから、あの准教授タチ悪いって言ったんだ」と、けなす。性格はきつい。 合澤はそうした五人の中で、冗談が通じる律儀な男という扱いになっていた。五人のうちで一番授業をちゃんと聞いているし、ノートを書き取り課題もきっちりこなす。ただ、それは彼が真面目だからというより、義務感に近いようだ。三池は合澤本人から、単に言われたことをしないと気持ち悪いからだ、と聞いていた。学校の宿題はしっかりするものの、それ以上のことをするのは特にあまり好きではないらしい。 それもあって、生真面目というより几帳面に近いよな、と、このメンバー内では結論づけられていた。 「……四人揃ってんだ、この時間、」 その五人目の声に、テーブル席を囲っていた四人は、一斉に視線を同じ方向へ動かした。話題の張本人、合澤がテーブル近くまで来たのだ。 「合澤だ! ちょうどおまえの話してたとこだよ」 沼田の笑顔の籠もった科白に、呼ばれた彼は首を傾げながら立ち止まる。講義がないにも関わらず、大学に合澤が来た理由は明白だ。わざわざ自分に会いにきたのだろう。律儀な合澤らしい、と、三池は心底思った。 「オレの話って? なにかあった?」 「なにかって、合澤が今週大学来てないよなーって。そういう話してたんだよ」 「ああ、用があって帰省してたんだ」 軽く答えた合澤を見る。すぐ目が合った。躊躇いが瞳の奥に隠れていて、三池は飲み物のパックとバッグを持った。 「三池、ちょっといい?」 彼の促す言葉に、おう、と答えて立ち上がる。友人たちは違和感を持つことなく、いってらっしゃい、と、視線だけで二人を見送った。 三池が合澤とともにカフェテリアを出る。外は暖かい日差しと木々や花が穏やかな季節を彩っていた。先週より体感温度は下がっているが、まだ心地よい初秋の陽気だ。 なにか話があるのだろう、という暗黙の了解で外に出向いたわけだが、合澤は歩きながら無難にも天気の話をはじめた。そして、あそこ空いてるから、と座る場所を指した。 「このくらいの気温がいいよなあ」 「そうだな。で、合澤、講義のことなんだけど」 「うん、どうなった?」 「出席、一緒のやつは全部代理でとったぜ。あと、今日の分もおまえいなかったから代わり出席にしといた。必要なプリントももらったし、あとノート、コピる?」 三人掛けのベンチに着いて、すぐ三池はバッグを開ける。今日は合澤が来ると言う話だったから、今日の講義に必要ないノートやプリントまでわざわざ持ってきていたのだ。ここで渡しておかなければ忘れてしまう。 合澤は、三池の働きに眉を下げた。 「今日のも? ありがとう、気遣わせちゃったな」 「いいよ。たぶん、これで全部だな」 一式を渡すと、もう一度ありがとう、と言われた。 「オレからは、土産。甘いもの好きだと思って」 「おう、悪いな」 「ううん。こっちも助かったから」 三池は合澤から土産を受け取りながら、ノートは次の講義までに返してくれればいい、と重ねて伝える。合澤は頷きながら、プリントとノートを確認した。いつもテストやレポート提出前に手伝ってくれる礼もあって、ちゃんと書いたつもりだ。もう一度納得したように頷いた合澤は、ノートを閉じて、提出物の有無も確認してくる。特にまだ言われていないことを話した。 「つか、今日別に来なくてもメールすりゃよかったのに」 「あ、確かに。なんだか、すっかりそういうのも抜けちゃってるなあ」 バッグにプリント類をしまう彼の顔色は、……どう見ても冴えなかった。合澤が来たときから、少し気なっていたのだ。三池は俯きがちの彼を覗いた。 「そんで、大丈夫なのか?」 あえて主語は抜いたものの、合澤には的確に通じたようだ。彼は顔を上げないまま、首を横に振る。なにかしらの経過を話してくれるだろうと思ったが、話す気力はないらしい。 それはつまり、芳しい状態ではないということだ。 「なんか顔色悪いっぽいけど、おまえ」 心配を口にすれば、うーん、と合澤は唸って顔を上げた。 「あんまり寝てないだけだよ。……昨日も帰ってきてからすぐバイトだったし、今日もこれから、振替のシフトはいってるから」 妙に歯切れが悪い。親の入院で急な帰郷をしていたにも関わらず、合澤は戻ってきてすぐアルバイトに勤しんでいた。しかも、大学の講義にも出ずに……それは合澤らしくないようにも感じた。講義に来ないのは実家の滞在日数を延長させたからだと、三池は思っていた。大体、こんな大変なときまでアルバイトをする必要はないと思うが、……人の生活にとやかく言っても仕方がない。 ベンチから早々と腰を浮かす合澤を三池は眺めていた。 「だったら、わざわざ来なくてもよかっただろ。明日も講義一緒じゃねえか」 「でも、いいよ。うちは近いんだし、気晴らしになるから」 学内を見渡す彼に、ふうん、と相槌を打つ。合澤の帰省理由は三池以外聞かされていない。だからこうして友人たちと距離を置いてみたのわけだが、本人は進展について話す気はないらしく、三池も彼の家庭事情に深く突っ込む勇気はない。アルバイトがあるという彼を引き止める理由もなく、三池は立ち上がった。合澤と別れてまたカフェテリアに戻るつもりだった。 ところが、その合澤が目をつむって眉を寄せていた。立ち竦んでいる彼の異変に、三池はいち早く気がついた。彼の身体がぐらりと揺らつく。しゃがみこむ寸前に、慌てて三池は合澤を支えた。 「おい! 大丈夫か?」 訊かなくても彼が眩暈を起こしたとわかった。顔色の悪さどおりのよくない状態だ。寝てない、と、今しがた言っていたことを思い返しながら、合澤からの反応を待つ。少し経って、ごめん、と、くぐもった声が聞こえてきた。 「おまえ無理すんなよ。とりあえずベンチに戻るぞ」 抱えるようにゆっくり動いて、ベンチに座らせる。バイト開始の時刻を聞けば、まだ少し余裕があった。 「俺も次の講義まで時間あっから、ちょっともたれとけよ。肩借りたほうが楽だろ」 三池の言葉に合澤は素直に従った。目を閉じた彼の重みが肩に乗る。男同士で寄り添っているのは異様かもしれない。しかし、それより合澤の具合の悪さが気がかりだった。 多少事態が好転してくれたのかと期待していたが、そう簡単にいかないらしい。今の様子が合澤の状況をそのままあらわしているようだ。 「ん、ごめん。ちょっと休む」 小さくつぶやいた彼は、それからすぐ静かになった。体重のかかる様子から眠ったのは明らかだ。 合澤の邪魔にならないよう、三池はそっとスマートフォンを取り出す。まだ半袖で過ごせるものの、もう夏とは言えない季節かもしれない。外の日差しは、まるで肌のぬくもりと同じだ。三池は液晶画面から目を離した。そして、そばにある合澤の顔を見る。閉じた目蓋と長い睫毛を確認する。鼻梁の整った小鼻と滑らかな肌だ。彼の寝顔は何度も見たことがある。顔立ちの良いの男だが、眠るとあどけなさが増す。童顔の部類なのだろう。 しかし、今は少し眉間に皺が寄っている。よほど疲れているのだろう。睡魔より悩みごとのほうが勝っているのかもしれない。寝てないというから、実家に帰っても眠れない日々だったはずだ。 銀杏がかすかに色を変えはじめ、緩い風に揺れる。構内を歩く学生は、講堂近くのベンチを占拠する三池たちに気にせず各棟へ吸い込まれていく。合澤の眠りにつられ、三池も気持ちよくなって目を閉じた。次の瞬間に声がした。 「三池、起きろよ」 パチリと目を開ける。かわいらしい顔が間近にあった。少しびっくりしたが、合澤は三池の驚きに気づかなかったようだ。済まなそうに口を開いた。 「あ、マジで寝てた。ごめん」 「ああ、うん」 膝元に置いていたスマートフォンで確認する。目を閉じていたのは一瞬のことだと思っていたが、現実は二十分も経過していた。つい時刻を見直してしまった。 「って、俺もけっこう寝てた?」 「かなり、」 「おまえが隣で気持ちよさそうに寝てっから、俺もつい」 合澤は苦笑する。軽口が通じない雰囲気に、だってさ、ここ気持ちいいし眠くなるよなあ、と早口で続けた。 「そんで、少しはスッキリした?」 「うん。なんか世話かけちゃってるな」 「いや、マジ無理すんのはよくねえし。まだ講義までちょっと時間あっから、送れるとこまで送ってやろうか?」 「いいよ、大丈夫。女じゃないんだから」 柔和な容貌が、そう答えて地面に立つ。合澤は先刻より動きがよくなっていた。普段どおりの彼に戻った気がしたものの、性格をよく知る三池はもう一度繰り返す。 「マジ、あんま無理すんなよ」 彼はその言葉に少しだけ笑顔を見せて頷いた。そして、カフェテリアと正門の分かれ道で手を軽く挙げ、また明日、と声を交わした。 |
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